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英雄の監獄カルナヴェイル  作者: 那貴


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# 第8話「格の値段」

下層の市場は、朝から喧しかった。といっても、外の世界の市場の喧騒とは質が違う。値切りと笑い声の裏に、常に、生き延びるための計算が張り付いていた。

 

レイヴァスは配給の列に並んでいた。手の中にあるのは、薄い木札のような配給券だった。労働の対価として渡され、食料と引き換えるための券である。券がなければ、どれほど腕が立とうと、どれほど名が知れていようと、その日の糧は得られない。英雄も新入りも、列の中では同じ腹を抱えた囚人だった。

 

配給所を仕切っているのは、地底の原住種の者たちだった。小柄で、土の色に近い肌を持ち、感情をあまり顔に出さない。彼らは淡々と券を受け取り、決められた量のパンを渡していく。贔屓も、嫌がらせもなかった。その公平さが、かえって不気味なほどだった。

 

監獄の誰もが知っている掟がある。原住種に手を上げてはならない。侮ってもならない。彼らは監獄より前からこの迷宮に住み、店と相場と、食料の行き来そのものを担っている。派閥同士がどれほど殺し合っても、その掟だけは破られない。破れば、生きる土台そのものが崩れるからだった。

 

パンは固く、重かった。レイヴァスは券と引き換えたそれを受け取りながら、この薄い木札が命の値段の半分なのだと思った。残りの半分は、別の形をしている。

 

 

市場の店先では、素材貨幣が行き交っていた。迷宮の獣の牙や、爪、毛皮、あるいは奥で採れる鉱石の欠片を加工した、小さな貨幣である。配給券が生きるための最低限を保証するのに対し、素材貨幣はその先を買う。良い衣類、嗜好品、書物、武器の手入れ、そして情報。

 

「その牙なら、浅いところの獣だろう。安いよ」

 

原住種の店主は、男が差し出した牙を爪先で弾き、目利きとも言えない素っ気なさで言った。

 

「深いところの素材ほど高い。命懸けで潜った証だからな。貨幣ってのは、つまり、どこまで行って帰ってきたか、ってことだ」

 

レイヴァスは採取労働の対価として得た数枚を、掌で鳴らした。軽い音がした。だがこの軽さの裏には、獣の爪をかいくぐった時間と、下層の取り立ての重さが張り付いている。深く潜るほど素材は高くなるが、潜るためには格が要る。格を上げるためには、腕輪が要る。その循環の入口に、彼は今立っていた。

 

労働の対価の支払いも、二層になっていた。配給券で腹を満たし、素材貨幣で先を買う。どちらが欠けても、人はこの地底で人として暮らせない。それがカルナヴェイルの経済の、剥き出しの姿だった。

 

レイヴァスは試しに、店で外套の綻びを繕うための糸と針を買った。原住種の店主は素材貨幣を一枚ずつ確かめ、深さの印を見て頷き、釣りとして小さな欠片を返してきた。値段の駆け引きはほとんどない。相場は原住種が握り、誰に対しても同じ表が適用される。派閥の長であろうと、昨夜落ちてきたばかりの新入りであろうと、店の前では同じ客だった。

 

隣の店では、古びた書物が高値で並んでいた。外の世界の詩集だった。腹は満たさない。身も守らない。それでも買う者がいるのは、人は糧だけで生きるのではないからだろう。別の店先では、採取に出る者たちが隊を組み、危険な区画ほど高い対価を掲げて人を募っていた。労働の値段もまた、深さで決まる。深い場所の仕事は、素材貨幣が何倍にも跳ね上がる代わりに、帰ってこられる保証はどこにもなかった。

 

レイヴァスは掲げられた対価の札を見比べながら、自分の今の値段を思った。無武器で、下層の取り立てにようやく耐えている程度の格。それでも剣聖殺しの名は、良くも悪くも人の目を引く。名が貨幣の代わりをする場面もあれば、名のせいで値段が跳ね上がる場面もあるのだろう。この監獄では、あらゆるものが取引の対象になり、あらゆるものに値段がつくのだった。

 

 

市場の外れで、人だかりができていた。腕輪の取引だった。

 

初老の男が、自分の腕から輪を外そうとしていた。隣には、若い女が座っている。女は下層に来て日が浅く、顔色が悪かった。取り立てに耐える格が足りず、このままでは衰弱が進む。初老の男は、女の父親の旧友なのだという。

 

「いいんだ。俺はもう、深くへ行く気もない。上で暮らす分には、この腕輪がなくても、格は足りる」

 

「でも……」

 

「受け取ってくれ。同意がなけりゃ、この輪はただの鉄だ。俺が頷くから、お前の腕で生きる」

 

男は頷き、女も震える声で受け取る意思を示した。輪が男の腕を離れ、女の腕に嵌められた瞬間、微かな光が輪の表面を走ったのを、レイヴァスは見た。生きている輪と、死んだ鉄。その違いが、あの光だった。

 

腕輪を重ねるとは、こういうことだった。他者の名声と威光を、その同意とともに借り受ける。重ねた分だけ格は上がり、下層の取り立てに耐えられるようになる。だが、それは他者の生きた物語を自分の腕に背負うことでもあった。

 

その場の少し離れたところで、別の男が叱り飛ばされていた。死んだ仲間の腕輪を持ち込んで、売ろうとしたのだ。

 

「死んでから、半日も経っているじゃねえか。そんな輪は、もう何の力もない。知らなかったとは言わせねえぞ」

 

「死後、一時間以内に回収しなけりゃ、輪は死ぬ。同意か、死に際の一時間か。掟はそれだけだ」

 

男は言い返せず、死んだ鉄の輪を握りしめて立ち去った。その背中を見ながら、レイヴァスは自分の腕にもう一つある輪のことを思った。オルドヴァンの腕輪。あれは、どのような形で自分の手に渡ったのか。同意があったことは確かだった。だが、その同意の裏に、先達が何を背負わせたのかは、まだ何も分かっていなかった。

 

格の値段は、素材貨幣では測れない。人の物語と、人の死と、その境目のたった一時間が、値段を決めているのだった。

 

 

人だかりの外れでは、もう一つの交渉が続いていた。下へ潜りたいという男が、腕輪を一つ持つ古参に頭を下げている。深層へ行きたいのではない。下層の中でも取り立ての重い区画へ、身内を助けに行くために、数日だけ格を借りたいのだという。

 

「素材貨幣は、これが全部だ。それに、帰ってきたら一月、お前の採取の歩合を渡す」

 

「安いな。俺の輪を重ねれば、お前は生きて帰れるかもしれん。だが、俺はその間、自分の格が薄くなる。取り立ては待ってくれんのだ」

 

交渉は長く続いた。原住種はこうした個別の取引には関わらない。値段も条件も、当事者同士が決めるしかない。最後に古参は、貨幣ではなく、男の持つ古い短剣と、もう一つ、口約束を受け取って頷いた。深くへ行く理由を聞き、その理由に納得したからだ、と古参は言った。

 

「金だけじゃ、人の格は貸せん。貸すに値する理由が要る」

 

その言葉が、レイヴァスの耳に残った。格とは、外の世界で語られるその人の物語そのものだ。他人の物語を借りるには、自分の物語を差し出して、値するかどうかを量られる。腕輪の重ね着けは、単なる力の貸し借りではなかった。信頼か、打算か、恩か。そのどれもが混ざり合った、ひどく人間臭い取引だった。

 

同時に、その人間臭さこそが危ういのだとも、彼は思った。引き込んで衰弱を待つ手口があることを、彼は既に聞いていた。下で腕輪を与えて取り込み、派閥の戦力にする手口もある。同意という形さえ整えば、輪は生きる。同意の裏にある誘いや脅しや打算までは、輪は見分けはしないのだろう。

 

 

市場の喧騒の隅で、レイヴァスに声をかける者があった。

 

「良い顔をするようになりましたね、新入りさん。……いや、今はもう新入りとは呼べないかな」

 

振り返ると、穏やかな顔立ちの男が立っていた。年は二十代の後半ほど。行商人の荷を背負い、人の懐に入るような笑みを浮かべている。だがレイヴァスの感覚は、その笑みの奥に、別の何かを捉えた。男の視線は、彼の目、口元、肩の動きを、順に、しかし自然に辿っていた。

 

「サテラザール。行商と、ついでに耳寄りな話を売る者です」

 

男は名乗り、慇懃に頭を下げた。

 

「あなたの噂は、上でも少し。剣聖殺し、しかし治療所では子供を押さえる手伝いをしていたとか。面白い組み合わせだ。……人は、噂と実物が食い違うときに、一番よく見えます」

 

「俺の何を見た」

 

「怒りでも、焦りでもない。警戒ですね。ただ、警戒の奥に、隠しきれていない渇きがある」

 

レイヴァスは答えなかった。男の言葉は、占いのように曖昧なのに、不快なほど的確だった。表情と、声の調子と、呼吸。そうしたものから人の感情の色だけを掬い取る術を、この男は持っているらしい。考えそのものが読めるわけではないだろう。だが、感情を読まれるというのは、剣を向けられるよりも居心地が悪かった。

 

そのとき、近くの店先で言い争いが起きた。素材の査定に不満を持つ男が声を荒らげ、原住種の店主は無表情のまま首を振っている。サテラザールはちらりとそちらを見て、レイヴァスにだけ聞こえる声で言った。

 

「あの男、怒っているのではありませんよ。怖がっているんです。呼吸が浅く、声が上ずっている。今日中に貨幣を作らなければ、借りの返済に間に合わないのでしょう。……ほら」

 

男は店主ではなく、自分の後ろに立つ仲間の方を何度も窺っていた。借りの取り立て役が、そこで待っているのだ。サテラザールは男に近づき、二言三言、何かを耳打ちした。男の顔から険が抜け、やがて小さく頭を下げて店を離れた。何を囁いたのかは分からない。だが、男の感情の急所を正確に突いたことだけは確かだった。

 

「人は、考えていることよりも先に、感じていることが顔と声と息に出ます。私はそれを読むだけ。考えそのものまでは読めませんし、読めたところで、ね」

 

男はこともなげに言って、レイヴァスの隣へ戻ってきた。その何気なさが、かえって底知れなかった。この男の前では、虚勢も、隠したつもりの動揺も、あまり意味をなさないのだろう。レイヴァスは無意識に呼吸を整えていた。整えたこと自体が、また読まれるのだろうと思いながら。

 

「単刀直入に言いましょう。売り物があります」

 

サテラザールは声を落とし、市場の人混みへ紛れるように半歩近づいた。

 

「深層の情報です。下層の者でも、めったに手に入らない類の話。……たとえば、血にまみれて深くへ進んだ大楯の男を、最後に見たという者の、その先の話」

 

レイヴァスの呼吸が、止まった。

 

大楯。オルドヴァン。その名を、彼は口に出していない。サテラザールは彼の反応を見て、満足そうに目を細めた。感情を読んだのだ。

 

「心当たりがあるようで、何より」

 

「出所は」

 

「売り物の出所を明かす商人はいませんよ。真偽の保証はしない。ただ、あなたがそれを欲しがるだろうことだけは、この顔を見れば分かります」

 

「値段は」

 

サテラザールは、彼の掌にある素材貨幣を一瞥し、首を振った。

 

「貨幣では足りません。……いえ、貨幣で買える情報もありますが、これは違う。こういう値のつかない話には、値のつかない払い方が似合います」

 

男は笑みを深くした。

 

「借り、でどうでしょう。今日は話の頭だけを渡す。代わりに、いつか私が困ったとき、一つだけ頼みを聞いてもらう。期限はなし。内容は、そのときに」

 

レイヴァスは男を見つめた。期限のない借り。内容の分からない頼み。それは、腕輪の取引よりも、なお不透明な契約だった。だが、深層の情報、オルドヴァンの痕跡、その断片が目の前にある。

 

「……頭だけ、聞こう」

 

「賢明だ」

 

サテラザールは囁いた。深層の、ある通路の名。そこで見つかったという、古い大楯のものと似た盾の欠片。そして、その欠片の傍らに残されていたという、妙な噂。欠片を拾った者は皆、同じことを言ったのだという。奥から、自分の名を呼ばれるような気がした、と。

 

それ以上は語られなかった。男は荷を担ぎ直し、人混みへ消えていく。

 

「借りは、利子がつくものですよ。……忘れた頃に取り立てに来ますから、そのつもりで」

 

最後の言葉は冗談めいていたが、目だけは笑っていなかった。レイヴァスの腕では、二つの腕輪が、微かに重さを競うように沈黙していた。情報を買ったはずなのに、買われたのは自分の方かもしれない。その思いが、市場の喧騒の中で、冷たく胸に残った。

 

通路の名と、盾の欠片と、名を呼ばれるという噂。断片は小さく、確かめる術もない。だが、その小ささが逆に、彼を深くへ引いていた。いつか取り立てられる借りを背負ってまで手に入れた断片が、自分の足をどこへ向かわせるのか。レイヴァスは市場の光の中に立ち尽くし、しばらく、腕輪の重みと借りの重みのどちらが重いのかを、量り比べていた。


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