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英雄の監獄カルナヴェイル  作者: 那貴


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# 第6話「銀狼の勇者」

背の傷は、思ったより浅かった。爪が裂いたのは布と皮膚の表面で、筋までは届いていない。胸の傷も同様だった。だが下層の暮らしでは、浅い傷でも放っておけば化膿し、熱を持ち、やがては戦うどころか歩くこともできなくなる。レイヴァスは住まいとして割り当てられた岩窟の一角で、配給の水を布に含ませ、傷口の血と汚れを拭った。痛みは正直だった。生きている証拠として、彼はその痛みを受け入れた。

 

採取隊の他の者たちの安否も、市場の噂話の形で耳に入ってきた。全員が生きて帰ったのだという。あの広間で自分が時間を稼いだことが、誰かの命に届いていたらしい。その実感は、剣聖を殺した日からこっち、彼が久しく忘れていた種類のものだった。守れた、という事実は小さい。だが小さいからこそ、手のひらの中に確かに残った。彼は傷を拭いながら、あの遠吠えの響きを思い返していた。獣を退かせた声であると同時に、どこか、群れを呼ぶ声でもあったように思えたのである。

 

 

水場で、ガルフと再会したのはその翌刻だった。刻限の感覚の乏しい地底では、翌日という区切りすら曖昧である。ガルフは短槍を背に負い、採取隊で傷を負った男たちを見舞うように水場の周りを歩いていた。彼はレイヴァスの姿を認めると、耳をわずかに傾けた。狼族の耳は、言葉より先に相手の状態を聞き取るのだという。

 

「化膿はしていないな。匂いで分かる」

 

「便利なものだ」

 

「不便でもある。嘘の匂いも、怯えの匂いも、全部届く。選べない」

 

ガルフは水場の縁に腰を下ろした。誘われるように、レイヴァスも隣に座った。寡黙な男同士の間では、沈黙は気まずさではなかった。地底の水の滴る音が、間を埋めた。やがてガルフが口を開いたのは、採取場での戦いのことだった。

 

その前に、ガルフは腰の袋から干し肉を取り出し、半分に裂いてレイヴァスへ差し出した。採取の報酬の一部だという。地底の獣の肉を干したもので、硬く、塩辛く、噛むほどに獣の脂の味がした。外の世界では考えられない食い物だったが、腹に落ちれば確かな力になった。二人は無言でそれを噛んだ。共に戦った者同士の間では、食い物を分け合うことが、言葉の挨拶より先に来ることがある。

 

「あんたは逃げなかった。隊の連中は皆、自分の命が惜しい。それが普通だ。なのにあんたは、自分を盾に置いた」

 

「そういう型だからだ。攻める型なら、俺はとっくに死んでいた」

 

「型の問題じゃないだろう」

 

ガルフ自身の戦いは、その逆だった。短槍で間合いを支配し、匂いと音で相手の位置を常に掴み、仕留めるべき一頭を見極めて一気に詰める。狼の狩りは群れで追い、弱った一頭を切り離して仕留めるものだという。守りながら崩すレイヴァスの型は、狩りの理とは正反対にある。その正反対のものが、あの広間では噛み合った。ガルフの遠吠えが獣の群れを退かせ、レイヴァスの粘りが逃げ遅れた者を生かしたのである。

 

レイヴァスは答えなかった。守ることは、彼にとって説明の要ることではなかった。領地の民の前でもそうだった。だがガルフの問いには、責める色はなく、確かめるような色があった。自分の中にも似たものがある男が、言葉を探している。そんな気配だった。

 

沈黙の中で、レイヴァスの耳は遠くのざわめきを拾っていた。市場の方角からは商いの声、水場の奥からは子どものような笑い声まで聞こえる。監獄の内側にも、確かに日々の営みがあった。その営みを守ることもまた、誰かの務めであるはずだった。

 

ガルフが採取の労働に加わっていた理由は、単純だった。彼はどの派閥にも属していない。無所属の者は、派閥の庇護を受けられない代わりに、労働と素材で自らの暮らしを立てなければならない。岩喰らいの出る採取場は報酬がよく、彼の感覚と遠吠えは隊の安全そのものだった。だから彼は、呼ばれれば行く。それだけのことだと言った。

 

「狼族の勇者が、雇われの採取か」

 

レイヴァスが言うと、ガルフは薄く笑った。笑い慣れていない笑い方だった。

 

「勇者は名乗りじゃない。役職だ。狼族では代々、銀狼が勇者を務める。銀の毛並みを持つ狼が、そういう定めで生まれてくる。俺の前も銀狼だったし、俺の次も銀狼だろう。個人の名より、銀狼という役の方が重い」

 

その役には、もう一つの務めが伴うのだという。狼族に紐づく神獣との疎通である。神獣は狼族を守護する神聖な獣で、その声を聞き、意を汲み、族へ伝えるのは銀狼の役目だった。レイヴァスは神獣という存在について多くを知らない。だがガルフの声の調子が、その務めの重さを物語っていた。それは名誉であると同時に、生涯逃れられない枷に似ていた。腕輪とは別の形の枷を、この男もまた嵌めている。

 

勇者の格が下層に相応しいとされたのも、その役あってのことだろう。銀狼は族の象徴であり、その輝きは個人の行いを超えて族全体の物語に支えられている。だが象徴であるということは、個人の罪もまた象徴として裁かれるということだった。ガルフがここにいるという事実そのものが、その重さを証明していた。レイヴァスは自分の格のことを思った。剣聖殺しの悪名と、領地の民の敬慕。混ざり合い、揺らぎ続ける光。象徴として裁かれる男と、悪名で揺らぐ男。監獄に落とされる形は違っても、落とされた先で背負うものの重さは、どこか似ていた。

 

「神獣と話すのは、どんな務めだ」

 

「聞く務めだ。神獣の望みは、いつも人の都合とは違う。それでも聞いて、汲んで、時には選ばなければならない」

 

「誤解されるが、俺の力は俺の力だ」とガルフは続けた。「遠吠えも、耳も鼻も、銀狼の血のものだ。神獣から力を借りて戦うわけじゃない。疎通は務めであって、戦いの手段じゃない。その区別を、外の連中はよく間違える。神獣の加護で強いと思われれば、それもまた括りの眼だ」その言い方には、長く誤解されてきた者特有の、静かな疲れがあった。レイヴァスは頷くことしかできなかった。英雄の力の出所を勝手に物語化するのは、外の世界の常だったからである。

 

選ぶ、という言葉に、彼の声がわずかに沈んだ。レイヴァスはそれ以上を問わなかった。ガルフが何かを選んだことがあり、その選択が罪と呼ばれ、彼をこの監獄へ落としたらしいことは、断片から察せられた。母と子。守るべきものの間で、何かが失われたらしい気配だけが、言葉の端々に残った。真相を断定できるほど、彼は何も語らなかったし、レイヴァスも暴こうとは思わなかった。罪の形は人それぞれであり、詮索は時に暴力になる。

 

「種族の信頼というものは、危ういな」

 

ガルフはぽつりと言った。

 

「同じ狼族だから信じる。同じ獣人だから味方だ。そういう括りで人を測ることに、俺は疑問を持つようになった。括りの内側にいれば、人は中身を見なくなる。外側にいれば、同じように中身を見てもらえない」

 

彼は他の獣人族と積極的に交わろうとしないのだと言った。誘われれば応じることもある。だが自分から群れに戻ろうとはしない。銀狼である前に、一人の男として見られたいという願いが、その距離の裏にあるようにレイヴァスには感じられた。それは四分の一の血ゆえに、どちらの側からも半端者と見られてきた自分の来歴と、どこかで重なった。血は選べない。だが血だけで人を決める眼差しへの抗い方は、人それぞれに違っている。

 

実際、水場に居合わせた獣人の男たちが、ガルフに会釈だけをして距離を置くのを、レイヴァスは目にしていた。敬意とも、腫れ物に触るような遠慮ともつかない距離だった。銀狼への敬意が、そのまま個人への近づきにくさになっている。ガルフはそれを気にしていない風を装っていたが、耳のわずかな伏せ方が、装いの裏側を物語っていた。群れの動物でありながら群れの外に立つことの寂しさを、彼は言葉にはしなかった。

 

「俺は半分どころか、四分の一だけ長命種の血だ。それでも人の里では目立った。お前の言う括りは、よく分かる」

 

「あんたも、か」

 

ガルフの耳が、わずかに嬉しそうに動いた。それから彼は、思い出したように遠い目をした。

 

「子どもの頃、灰狼の英雄の話をよく聞かされた。ウルフィンという名だ。肩書きなしに、己の力だけで英雄に登りつめた男。殿を務めて味方を逃がし切る戦い方をするのだという。銀狼の役を継ぐ子どもにとって、あの人は遠い憧れだった」

 

ウルフィン。その名は、下層から深層を仕切る元締め「三本牙の獅子」の幹部の一人の名でもあることを、レイヴァスは市場の噂で聞いていた。だがガルフにとってその名は、派閥の幹部である前に、幼い頃の英雄譚の名なのだ。その二重の意味を、彼はまだ整理できていないように見えた。

 

 

その噂は、思ったより早く形になった。市場の喧騒の中で、採取隊の古参がガルフに声をかけたのだ。三本牙の獅子が、ガルフに目をかけている。無所属の銀狼を取り込めば、派閥の格も戦力も上がる。勧誘の使者が、いずれ正式に訪れるだろうという話だった。古参は羨むような口調だったが、ガルフの表情は動かなかった。

 

市場は下層の周縁に広がっていた。原住種の店が軒を連ね、食料や衣類、書物までが並ぶ。配給券と素材貨幣が行き交い、値の交渉の声が飛び交っていた。その活気は、外の町の市場と何ら変わらなかった。監獄でありながら、ここには確かに暮らしがあった。勧誘の噂は、そういう場所で最も速く広がる。獅子族の長ヴォルフの名、幹部の三本の牙の名が、商人たちの口から口へ渡っていく。ガルフの名もまた、その流れの中で値踏みされていた。

 

「群れに入れば安くはなるだろう。配給も、後ろ盾も」

 

帰り道、ガルフはそう言って、短槍の柄を握り直した。

 

「だが、入った途端に俺はまた、銀狼として数えられる。個人じゃなく、役として。……考えるさ。考えるが、急がない」

 

その言葉を聞きながら、レイヴァスは懐の奥の腕輪の存在を思った。オルドヴァンの腕輪である。いずれ自分も、格を上げるために誰かの腕輪を重ね、誰かと関わり、選び取らなければならない。その選択の重さを、彼はまだ実感として持っていない。だがガルフの逡巡は、その重さの形を先に見せてくれているように思えた。関わることは、力を得ることであると同時に、何かを背負うことでもあるのだ。

 

レイヴァスは頷いた。監獄では、派閥に属することが生存の近道であることは確かだった。同時に、属するということは、別の枷を自ら選ぶことでもある。彼の場合は既に、託けという道が足元にある。腕輪を重ね、深く潜るためには、いずれ何らかの関わりを選ばなければならない日が来るだろう。その時、自分は何を守って選ぶのか。ガルフの逡巡は、他人事ではなかった。

 

 

水場からの帰路、居住区の一角が騒がしかった。採取隊で傷を負った男の一人が、熱を出して倒れたのだという。傷は浅かったはずだが、地底の傷は侮れない。担ぎ込まれた男の周りに人が集まり、誰かが言った。聖女様なら、と。その声には、縋るような響きがあった。下層には、弱者を分け隔てなく治療する聖女がいるのだという。派閥も種族も問わず、倒れた者の側に座り、手をかざす女がいる。

 

レイヴァスは自分の背の傷に手を当てた。浅い。だが熱の気配が、わずかにある。ガルフが鼻を動かし、彼を見た。

 

「あんたも見てもらった方がいい。意地で腐らせれば、守るも何もなくなる」

 

助言は正しかった。レイヴァスは頷いた。守る型の戦士は、自分の体を道具として扱いがちだが、道具の手入れを怠れば本末転倒である。まして彼の体には、まだ果たすべき託けが懸かっている。浅い傷一つでその道が閉ざされるなら、あまりに愚かだった。彼は立ち上がり、居住区の奥、人の流れが向かう方向を見た。治療を求める者たちの列が、静かにそちらへ伸びている。その先にいるという聖女が、どんな目で自分を見るのか。悪名と敬慕の混ざった光を、その目がどう映すのか。確かめるべき時が、近づいていた。

 

聖女。アステイアの教えを戴くという、その女の存在が、レイヴァスの足を居住区の奥へ向けさせようとしていた。光を見る目を持つという噂の真偽も含めて、彼の知らない下層の顔が、まだ奥に広がっている。

 

倒れた男は、やがて簡素な担ぎ板で奥の区画へ運ばれていった。聖女のいる場所へ、と誰かが言った。その後ろ姿を見送りながら、レイヴァスは思った。この監獄では、獣に牙を剥かれる場所と、傷を癒やす手の届く場所が、同じ岩窟の地続きにある。守る者、狩る者、癒やす者。それぞれの形で落とされた者たちが、この地底で一つの暮らしを形作っている。その全体像は、入って間もない彼にはまだ遠かった。だが確かに、足元から少しずつ姿を現し始めていた。


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