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英雄の監獄カルナヴェイル  作者: 那貴


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# 第5話「原生の獣」

素材採取の声がかかったのは、朝とも夜ともつかない刻限だった。下層に昼夜の別はない。頭上の岩盤に埋め込まれた灯りがわずかに明滅し、それが刻の移ろいを示すだけである。レイヴァスは配給の列に並ぶ囚人たちのざわめきの中で、自分の名が読み上げられるのを聞いた。

 

「剣聖殺し。お前もだ」

 

呼び出したのは下層の取りまとめを担う古参の男だった。腰に配給券の束を提げ、声は事務的で、悪意も同情もない。素材採取は監獄の表向きの務めの一つである。迷宮の奥で採れる獣の素材や鉱石、薬効のある苔や樹液を集め、外の世界へ送り出す。その労働には危険が伴い、だからこそ新入りに回ってくる。レイヴァスは黙って頷いた。断る権利など、ここにはない。

 

左腕の腕輪が、わずかに重かった。力の封じは常にそこにある。かつてなら何でもなく振るえた腕が、今は鈍く締め付けられるように感じられる。彼はもう一方の腕輪に視線を落とした。オルドヴァンから託されたものだ。今はまだ重ねて着けるべき時ではない。懐の奥にしまい込み、彼は支給された麻袋と、粗末な手鉤だけを受け取った。武器らしい武器は渡されない。採取隊の身分とは、そういうものだった。

 

隊は七名だった。いずれも派閥に属さぬ者、あるいは派閥の下働きを担う者たちである。先導するのは原住種の案内人だった。背は低く、目は地底の闇に慣れ、言葉数は少ない。彼らへの攻撃や侮辱が暗黙の禁であることは、下層に来て間もないレイヴァスでも既に知っていた。どの派閥もその禁を徹底する。地底の循環を担う者たちを害せば、監獄そのものの暮らしが崩れるからだ。

 

居住区を離れ、蜘蛛の巣状に広がる通路へ入っていくと、空気が変わった。湿った岩の匂い、かすかな獣の匂い、そして何かの腐敗の匂い。レイヴァスの耳がわずかに動いた。四分の一の長命種の血は、外見には耳の先の尖りほどしか現れないが、感覚の鋭さは確かに受け継がれている。通路の奥で、水滴とは違う規則的な音がする。彼は足を止めかけたが、隊列は止まらない。言えば笑われるだろう。新入りの怯えと取られるだけだ。

 

採取場は巨大な広間だった。天井は高く、岩の柱が林のように立ち並ぶ。柱の根元には青白く光る苔が群生し、その周囲に獣のものらしい骨が散らばっていた。案内人が短く言った。採れ、と。隊の者たちは散り、苔を剥ぎ、岩の裂け目から鉱石の欠片を掘り出し始めた。レイヴァスも膝をつき、手鉤で苔を削いだ。苔は指先でわずかに温かく、これが深部の素材として外へ運ばれるのだという実感は乏しかった。

 

 

異変は、匂いで来た。

 

風もない広間で、腐敗の匂いが急に濃くなった。次いで聴覚が捉えた。岩を爪が引く音。複数。レイヴァスは立ち上がり、声を張った。

 

「来るぞ。柱の影だ」

 

遅かった。影が動いた。灰色の体毛に覆われた四足の獣が、三頭、柱の陰から躍り出た。体長は人の背ほどもあり、顎は不釣り合いに大きく、牙の間から涎が糸を引いている。下層の原生の獣、岩喰らいと呼ばれる種だと、誰かが叫んだ。岩をも噛み砕く顎を持つ獣である。素手の人間など、その顎にかかれば骨ごと砕ける。

 

隊は総崩れになった。悲鳴と共に二人が走り、一人は転倒して苔の上に倒れた。最初の獣がその倒れた男に迫る。レイヴァスは袋を捨て、駆けた。間に合う距離ではない。だが男と獣の間に割り込むには、十分だった。彼は獣の正面に立たない。受けて崩す型の第一は、力の向きを読むことにある。獣が地を蹴り、大きな顎を開いて跳びかかる。その軌道を、瞳が捉えた。殺気というより、空気の圧の変化として読む。彼は身を半歩引き、突進の中心から外れながら、獣の顎の下へ両腕を差し入れた。

 

重い。封じられた腕では、獣の勢いを受け止めきれない。それでも受け流すことはできる。彼は獣の顎の付け根に体重を預け、突進の力を斜め下へ逸らした。獣の頭が地面に叩きつけられ、岩の床に牙が火花を散らす。床は壊れない。迷宮の床は、いかなる衝撃でも欠けすらしないのだ。その硬さが、今は味方になった。獣は頭を振り、起き上がろうとする。その一瞬に、レイヴァスは倒れた男の襟首を掴んで引きずり、柱の陰へ押し込んだ。

 

「走れ。通路まで」

 

男は這って逃げた。だが獣は三頭いる。二頭目が横合いから迫った。今度は低い姿勢の突進で、狙いはレイヴァスの脚だった。彼は跳んで躱す。着地の瞬間、三頭目の爪が背を掠めた。布が裂け、熱い痛みが走る。血の匂いが広がった。それが獣たちをさらに昂らせた。包囲が狭まる。柱の林は身を隠すには好都合だが、袋小路にもなりやすい。地形は獣の側にあった。彼らの縄張りなのだから当然である。

 

レイヴァスは呼吸を整えた。焦れば死ぬ。彼は獣の動きを一つ一つ読んだ。右の獣は跳躍の前に前脚を沈める。左の獣は吠えるように顎を鳴らしてから突く。中央の獣は最初に頭を叩きつけられた怒りか、まっすぐ彼だけを見ている。合気は、相手の力の流れに自分の身を添わせる技だ。込められた力ほど、崩しやすい。獣の力は大きい。だが大きいだけに、流れもまた単調だった。

 

中央の獣が突っ込んだ。彼は今度は逃げず、獣の頭部を両腕で受けた。顎の力が腕を軋ませる。封じの重さが骨に響いた。このままでは押し切られる。彼は受けながら回った。獣の勢いを円の動きに変え、頭を柱へ誘う。獣は自らの勢いで柱に激突した。柱は微動だにしない。獣の額が割れ、血が流れた。だが倒れない。首を振り、なおも牙を剥く。原生の獣の生命力は、人界の獣の比ではなかった。

 

二頭が同時に来た。彼は一頭の突進を身を沈めて躱し、その背に手をかけて流れのままにもう一頭へぶつけようとした。半ば成功し、二頭はもつれて倒れた。だが立ち上がるのは速い。彼の体力は削られていた。背の傷から血が流れ、腕輪の封じは戦うほどに重く感じられる。取り立てとは別に、この場所の圧そのものが格の低い者を押し潰しにかかるのだ。

 

勝てない、と彼は判断した。倒し切ることはできない。できるのは、隊の者が逃げ切るまでの時間を稼ぐことだけだった。それが守るということだ。彼は柱と柱の間へ移動し、獣たちを自分に引きつけ続けた。牙が腕を掠め、爪が胸を裂いた。一撃ごとに受け、流し、崩し、しかし決定的な反撃は生まれない。徒手では岩をも噛む獣の頭蓋を砕けない。武器の差とは、こういうことだった。かつて剣と楯があった頃の自分とは、別人であることを彼は噛みしめた。

 

それでも彼は、ただ耐えていたわけではない。獣の攻めの一つ一つに、型は応え続けた。跳躍の勢いを腕で受け、顎の閉じる力を指先で感じ取り、閉じ切る寸前に首の付け根へ肘を添えて流れを逸らす。噛みつきは受ければ砕かれる。だから受けるのは顎ではなく、力が生まれる前の沈み込みであり、重心の寄りだった。彼の掌は獣の毛皮の熱を覚え、獣の筋肉の震えから次の一手を読んだ。四分の一の血が与えた感覚は、闇の中でも獣の位置を輪郭として描き出す。目よりも早く、皮膚が風の乱れを捉えた。

 

三度目に中央の獣を柱へ誘い損ねた時、彼の足が苔に滑った。体勢が崩れる。獣の牙が肩口へ迫り、彼は咄嗟にその顎を両腕で抱え込んだ。腕輪が軋み、封じられた力が悲鳴を上げたように腕が痺れる。獣の重みで膝が床に付く。硬い床に膝頭が食い込み、痛みが背筋を走った。彼は歯を食いしばり、獣の重心が前に寄り切るのを待った。待つこともまた、彼の型だった。寄り切った瞬間、彼は体を沈め、獣の顎を担ぐようにして腰を入れた。獣の巨体が宙に浮き、横へ投げ出される。岩の柱に体を打ち付けた獣は、初めて弱々しい鳴き声を漏らした。だが残る二頭が、間を置かずに襲いかかる。粘りの限界は、確実に近づいていた。

 

 

その時、音が来た。

 

低く、長く、地の底から響くような遠吠えだった。人の声ではない。けれど人の喉から発せられた声だった。その音が広間の空気を震わせた瞬間、三頭の獣の動きが止まった。耳が伏せられ、大きな顎が閉じられる。獣たちは怯えたように後退りし、やがて二頭が柱の陰へ逃げ去った。残る一頭、額を割られた獣だけが、なおも唸って踏みとどまっている。

 

柱の陰から男が現れた。銀灰の髪。頭部には狼の耳が立ち、背後には尾が見えた。手には短槍。彼は獣とレイヴァスの間へ滑るように入り、短槍を低く構えた。獣が跳ぶ。彼は槍を突くのではなく、獣の顎の横を払うように打ち、体勢の崩れた獣の喉元へ牙を、ではなく、爪を閃かせた。獣の首に赤い線が走る。さらに槍の一突きが脚を払い、獣は倒れた。起き上がろうとする獣へ、男はもう一度だけ、低く吠えた。短い、断ち切るような声だった。獣は尾を巻き、血を滴らせながら闇へ逃げ去った。

 

 

広間に静けさが戻った。レイヴァスは柱に背を預け、荒い呼吸を繰り返した。男が振り返る。歳は三十に届くかどうか。鋭い目だが、敵意はなかった。男は逃げ遅れて震える隊の者たちを一瞥し、それから倒れたままの獣の死骸、逃げた獣の血痕、そしてレイヴァスの傷を見た。

 

「よく持たせたな。素手で岩喰らい三頭は、普通は持たない」

 

「倒せはしなかった」

 

「倒すのが仕事じゃない。素材を持ち帰るのが仕事だ」

 

その言い方は、慰めではなかった。長くこの場所で生きてきた者の、現実の切り分けだった。ガルフの短槍は既に血を拭われ、腰に戻されている。彼の戦いは短く、無駄がなかった。獣の匂いを読み、耳で位置を定め、必要な一頭だけを仕留め、効く相手には声で退かせる。狩る者と守る者の違いを、レイヴァスはその後ろ姿に見た。

 

男は短槍の穂先を死骸に向けた。その一頭は遠吠えにも逃げなかった個体で、男の手で仕留められていた。彼は手際よく獣の牙と爪を外し、硬い毛皮の一端を切り取った。原生の獣の素材は、外の世界で高く売れる。監獄の経済は、この血の匂いのする労働の上に成り立っている。案内人が戻ってきて、死骸の処理と採取量の記録を始めた。隊の死者はいなかった。傷人は数名。レイヴァスの背と胸の傷も、命に別状はなかった。

 

「あの声は」

 

レイヴァスが問うと、男はわずかに耳を動かした。

 

「遠吠え。俺の固有のものだ。格の低い獣なら退かせられる。獣の居場所や、怯えか怒りか、その心持ちも声と匂いで分かる。もっとも、効くのは格下だけだ。さっきの一頭みたいに、血の昂った奴や格の近い奴には効きが悪い」

 

謙遜の響きはなかった。事実を述べるだけの口調だった。彼は名を名乗った。

 

「ガルフ。狼族だ。あんたは」

 

「レイヴァス・グランドール」

 

「剣聖殺しか」

 

男の目に、畏れとも好奇ともつかない色が浮かんだ。だがそれ以上の追及はなかった。彼は切り取った牙の一つをレイヴァスの掌に載せた。冷たく、重い。それから原住種の記録係が、小さな硬貨のようなものを数枚、両者へ渡した。迷宮の素材で鋳られた貨幣だった。表面には階層を示す刻印がある。これが素材貨幣である。深い階層の素材ほど価値が高く、その貨幣を持つことは、どこまで潜ったかの証明にもなる。

 

レイヴァスは初めて手にするその重みを、掌で確かめた。下層の素材で作られた貨幣は、彼のこれまでの世界の貨幣とは違う重さだった。血と労働と、獣の命と引き換えに得た価値。これがこの監獄で生きるということの一端なのだと、彼は理解した。

 

配給券だけでは、生きる先の取引はできないのだという。古参の一人が、自分の貨幣を見せながら言った。食うだけなら配給で足りる。だが薬が要る時、情報を買う時、誰かに何かを頼む時、要るのはこっちだ、と。貨幣の刻印は粗かったが、その粗さこそが下層で鋳られた証だった。より深い階層の素材で鋳られた貨幣は、色も重さも違うのだという話を、レイヴァスは黙って聞いた。どこまで潜ったかが、そのまま財布の中身に刻まれる世界だった。

 

「あんたの戦い方、見たことのない型だ」

 

ガルフが言った。帰路の通路で、彼はレイヴァスの少し後ろを歩いていた。嗅覚と聴覚に優れる者が殿を務めるのは、理に適っている。

 

「攻めてこない。受けるだけ受けて、崩す。狼の狩りとも、人の剣とも違う」

 

「守るための型だ」

 

「守る、か」

 

ガルフはその言葉を噛むように繰り返し、それきり黙った。通路の闇の向こうから、下層の居住区の灯りが見え始める。その沈黙の中に、何か言いかけてやめた気配があることを、レイヴァスの鋭い感覚は捉えていた。銀狼と呼ばれる男との関わりは、どうやらこの一度の労働で終わるものではなさそうだった。


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