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英雄の監獄カルナヴェイル  作者: 那貴


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# 第4話「託けの腕輪」

その夜、レイヴァスにあてがわれた寝所は、広場から二つ入った横穴の奥だった。

 

岩を刳り抜いた小さな窪みに、藁を敷いた寝台が一つ。市場の明かりは届かず、代わりに壁の苔が、かすかな青い光を放っていた。配給の干し肉は固く、水は鉄の味がした。だが、アイゼン領の戦場で泥にまみれて眠った夜に比べれば、屋根があるだけましだった。彼は寝台の端に腰を下ろし、左の手首を、苔の明かりにかざした。

 

腕輪が、二つあった。

 

一つは、今日嵌められたばかりの枷だった。罪状を刻まれ、力を封じ、階層を縛る、監獄の腕輪。表面は鈍く、嵌められた瞬間の冷たさが、まだ皮膚の記憶に残っていた。もう一つは、古い腕輪だった。彼のものではない。先達オルドヴァンから託された、託けの腕輪である。普段は懐の内布に包み、肌身離さず持っていたものを、今夜はそっと取り出して、膝の上に置いた。

 

二つの腕輪は、似ているようで、まるで違った。

 

枷の方は新しく、均一で、作った者の顔が見えなかった。だが託けの腕輪は、長く人の腕にあった者の姿をしていた。縁は摩耗し、表面には幾つもの細かい傷があり、一箇所だけ、深い打痕が残っていた。大楯で受け続けた男の腕輪にふさわしい傷だった。レイヴァスは打痕を指でなぞった。この傷がついた戦いを、彼は知らない。オルドヴァンが何を受け、何を守り、どこでこの腕輪と共に立っていたのか。その大半を、彼は聞かされないまま託されていた。

 

腕輪の仕組みは、下層へ降りる途上で、嫌というほど聞かされていた。

 

他者の腕輪を重ねて着ければ、その者の威光と名声を分けてもらい、英雄としての格が上がる。格が上がれば、より深い階層の取り立てに耐えられる。奈落へ潜るには、腕輪を重ねることが正道だった。だが、受け取りが成立する条件は、二つしかない。本人の同意があること。あるいは、本人が死んで一時間以内に回収すること。外れた腕輪は、その瞬間から何の力も持たない。腕ごと切り落とされても、腕輪が腕に着いたままなら、一時間だけは機能するという。

 

二つを並べて置くと、重さの違いまで感じ取れた。枷の腕輪は、嵌めた者の力を封じるためにある。力が封じられるとは、どういうことか。昼間、市場で古参の男たちと相対した時、レイヴァスはそれを身体で知った。踏ん張るべきところで踏ん張りが利かず、流せるはずの力を流し切る前に息が切れる。腕輪は彼の力を奪ったのではなく、力の出入り口を狭めていた。細い水路を無理に通そうとする水のように、使えば使うほど、身体の内側で圧が溜まった。

 

一方、託けの腕輪は、何も封じてはいなかった。ただ、そこにあった。それなのに、枷の腕輪よりも重く感じられるのは、封じでも縛りでもない、別の重さのせいだった。持つ者の行く先を定めてしまう重さ。行き先が奈落である以上、この輪を持つことは、監獄の底の底へ向かうことを、自分で選んだのと同じだった。選んだ、という自覚すらないままに。

 

つまり、この腕輪は、正しく託されたものだった。

 

オルドヴァンは生きて、自分の意志で、これを彼に渡した。その事実だけは、確かだった。その先は、何も確かではなかった。オルドヴァンが今どこにいるのか。生きているのか。監獄で最後に見た者は、夥しい血を流しながら深層の奥へ進んでいく後ろ姿を見たという。だが、それがいつ、誰の目撃なのか、確かめる術はなかった。大虐殺の罪状についても、彼は断片しか知らない。ある要塞の兵士と住民が皆殺しにされ、要塞は敵国に明け渡された。それが公式の記録だった。理由も、真相も、記されていなかった。

 

レイヴァスは、託けの腕輪を手に取るたびに、あの日のことを思い出す。

 

 

それは、彼がまだ英雄と呼ばれ、アイゼン領の騒乱も、剣聖の死も、まだ起こっていない頃のことだった。

 

場所は、国境に近い街道沿いの、名も知らぬ宿場だった。雨が三日続き、街道は泥に沈み、旅人は皆、足止めを食っていた。レイヴァスはその頃、各地の紛争を渡り歩く守りの剣士として、ある砦の護衛の任を終えた帰途にあった。宿の広間で濡れた外套を乾かしていると、奥の席に、一人の大柄な男が座っていることに気づいた。

 

男は、背に大きな楯を負っていた。

 

楯は使い込まれ、表面は傷だらけで、縁の鉄は幾度も打ち直されていた。それでも、その楯には不思議な威厳があった。壊れなかったものの威厳だった。男の体躯は大きく、無骨な顔立ちには深い疲労が刻まれていたが、背筋は真っ直ぐだった。五十を少し過ぎた頃だろう。食事にも酒にも、ほとんど手をつけず、窓の外の雨を、ただ見つめていた。

 

「大楯のオルドヴァン、ですね」

 

レイヴァスが声をかけると、男はゆっくりと振り返った。値踏みする目ではなかった。何かを測る目だった。長く戦場に立った者だけが持つ、相手の立ち姿と呼吸で内側を読む目だった。

 

「若いのに、よく知っているな」

 

「あなたの楯の噂は、国境の向こうでも聞きます。落とされた砦は、あなたのいる間は一つもない、と」

 

オルドヴァンは、小さく笑った。嬉しそうな笑いではなかった。

 

「落とされなかったのではない。落とされる前に、いつも誰かが死んでいるだけだ。守るとは、そういうことだ。若いの、お前も守る側の人間だろう。目を見れば分かる」

 

オルドヴァンは、自分の楯の傷を一つずつ指で辿りながら、ぽつりぽつりと語った。どの傷がどの戦場のものか。どの傷の向こう側で、誰が生き延び、誰が死んだか。楯で受けるということは、後ろにいる者たちの代わりに傷を受けるということだ、と彼は言った。英雄と呼ばれる者は、与えたものの数だけ、後になって代償を払い続ける羽目になる。それが世の理だとしても、払う側の身になれば、理屈では割り切れない夜があるのだと。

 

「お前は、まだ払う側の夜を知らんだろう」

 

その言葉の意味を、レイヴァスは今になってようやく、少しだけ分かるようになっていた。下層の取り立ての中で眠る夜が、まさにそれだった。

 

その夜、二人は長く話した。戦いの話ではなかった。守るということの重さ、守り切れなかった者たちのこと、英雄と呼ばれることの厄介さ。オルドヴァンは多くを語らなかったが、その沈黙の節々に、英雄として生きることへの深い倦みのようなものが滲んでいた。今にして思えば、それは兆しだったのかもしれない。だが、その時のレイヴァスには、ただの老英雄の述懐に聞こえた。

 

別れ際、宿の軒下で、オルドヴァンは不意に自分の腕輪に手をかけた。

 

「レイヴァス。お前に、託したいものがある」

 

雨の音の中で、その声は奇妙なほど静かだった。彼は自らの手首から、長く着けていた腕輪を外した。外れた腕輪は光を失い、ただの重い輪になった。オルドヴァンはそれを、両手で包むようにして、レイヴァスの掌に置いた。輪の重さが、ずしりと掌に伝わった。金属の重さではない。何十年という歳月と、幾つもの戦場を共にしたものの重さだった。

 

「これは、託けだ」

 

「託け、ですか」

 

「代々、英雄から英雄へ受け継がれてきたものだ。俺も、前の者からこうして受け取った。受け取った者は、最深部を目指す。奈落だ。言葉にすると大仰だが、務めはそれだけだ。最深部に、用がある。何のための用かは、受け継ぐ者にも、最後まで明かされはしない。ただ、行かねばならない。そういうものとして、代々伝わってきた」

 

レイヴァスは、掌の輪を見つめていた。断る理由は、いくらでもあった。見ず知らずに近い老英雄の、得体の知れない務め。最深部など、噂でしか聞いたことのない場所。だが、その時の彼は、断らなかった。オルドヴァンの目を見てしまったからだった。そこには、懇願はなかった。助けを求める色もなかった。ただ、自分ではもう果たせないと悟った者が、次の者へ静かに手渡すときの、深い諦めと、かすかな安堵があった。

 

「あなたは、行かないのですか」

 

「俺は、悟ってしまった」

 

オルドヴァンは、雨の向こうを見た。

 

「たどり着けない、と。情けない話だがな。託けを受けた身でありながら、どこかで、英雄として輝きの中で終わることを望んでしまった。奥へ進むことが、怖くなったのだ。……定めでは、たどり着けないと悟った者は、次の英雄へ託すことになっている。俺は、その定めに従う。お前が受けてくれるなら、俺はここで、この重さから降りる」

 

「もし、私もたどり着けなければ」

 

「その時は、お前も次の者へ託せ。それが、この輪の辿ってきた道だ。誰かが絶やさない限り、務めは続く。絶やすも続けるも、受け取った者の自由だ。強制はない。だがな、レイヴァス」

 

オルドヴァンは、初めて真っ直ぐに彼を見た。

 

「この輪を持った者は、皆、奥へ惹かれる。理屈ではない。監獄の奥底から、何かが呼ぶような感覚だ。抗う者もいる。応じる者もいる。お前がどちらになるかは、俺には分からん」

 

宿を発つ朝、オルドヴァンの姿はもうなかった。帳場に聞いても、いつ出ていったのか、誰も覚えていなかった。残されたのは、掌の託けの腕輪と、果たされていない務めだけだった。その後、彼が監獄に落とされたという報せを聞いたのは、しばらく経ってからだった。大虐殺の罪状と共に。

 

 

苔の明かりの中で、レイヴァスは目を開けた。

 

回想はいつも、そこで途切れる。オルドヴァンが要塞で何をしたのか、なぜ血にまみれて深層へ向かったのか、託けの先に何が待つのか。何一つ、答えは増えていない。分かっているのは、託けが代々受け継がれる務めであること、たどり着けないと悟れば次へ託す定めであること、そして自分が、それを受け取ってしまったことだけだった。裏側に何があるのかを、彼は断定しないことにしていた。断定できる材料が、何もないのだから。

 

彼は託けの腕輪を、再び内布に包み、懐へ仕舞った。今はまだ、これを重ねて着ける時ではなかった。重ねれば格は上がる。だが、オルドヴァンの威光を借りるということは、オルドヴァンの払い残した代償の重さをも、共に引き受けるということでもあるはずだった。何より、この輪は彼にとって、潜るための道具である以前に、果たすべき務めの形そのものだった。軽々しく手首に通す気にはなれなかった。

 

代わりに、彼は自分の枷を見つめた。

 

英雄の格を持ちながら下層にいる身。取り立ては重く、支えは不安定だった。だが、この枷がある限り、彼はまだ、この監獄の仕組みの内側にいる者だった。実態を暴くこと。最深部に用があること。入る目的は二つあった。そのどちらも、まだ手がかりすら掴めていなかった。

 

寝所の外で、人の声がした。

 

横穴の入口近くで、囚人たちが小さな焚き火を囲み、低く話し合っていた。酒はないはずだったが、代わりの熱い飲み物が回されているらしい。レイヴァスは水を一口飲み、その声に耳を澄ませた。労働の割り当ての愚痴、派閥の縄張りの噂、深層から上がってきた素材の値段。ありふれた夜の会話だった。だが、その中の一つが、彼の耳を止めた。

 

「……だから言ったろう。出口の話だ」

 

「またその噂か。何年も前からある」

 

「いや、今度は深層帰りの男が言っていた。出口は上じゃない。下だ。深層の更に先、もっと奥にある、と」

 

笑い声が上がった。信じている者はいない、という笑いだった。だが、笑いながらも、誰もその話を切り捨てはしなかった。この閉ざされた場所で、出口の噂は、笑い飛ばしながらも手放せないものだった。それが誰の流した話なのか、本当なのかどうか、確かめる術はどこにもなかった。外部の誰かの企みかもしれないし、囚人たちの願望が作り上げた幻かもしれなかった。

 

レイヴァスは、懐の内布の上から、託けの腕輪の形をそっと押さえた。

 

深層の更に先。その言葉と、奈落という言葉が、彼の胸の内で静かに重なった。その時、昼間の市場でも、小競り合いの最中でも感じなかった感覚が、ゆっくりと腹の底からせり上がってきた。恐怖ではなかった。義務感でもなかった。もっと素朴で、抗いがたい、惹かれるという感覚だった。奥。もっと奥。オルドヴァンが口にした、あの呼び声のようなものが、今、彼自身の内側で鳴り始めていた。

 

明日からは、素材採取の労働が始まる。武器もなく、誰と組むのかも分からない。それでも、奥へ進むための足場は、労働の中にしかないはずだった。潜ることと、生き延びることと、託けを果たすこと。その三つが、この暗い横穴の中で、初めて一つの線として彼の目に映り始めていた。

 

彼は目を閉じ、その感覚が去るのを待った。だが感覚は去らなかった。苔の青い明かりの中で、腕輪の冷たさだけが、確かに手首に残っていた。


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