#第45話「肩代わりの罪」
裁きの間は、昼だというのに薄暗かった。
厚い石壁に開けられた窓は細く高く、差し込む光は床に届く前に力を失っていた。代わりに、壁の燭台に灯された炎が、揺れるたびに列席する者たちの影を長く伸ばした。正面の長机の向こうには、王国の紋を背負った裁定者たちが並び、その傍らには書記が羽根筆を構えていた。両脇には近衛の兵が立ち、槍の穂先は天井を向いたまま、微動だにしなかった。
間の中央に、シオンは立っていた。
手首には鎖が掛けられている。尋問の間じゅう掛けられていたものよりは軽い鎖だったが、身じろぎのたびに鉄の触れ合う音が石の間に響き、自分の立場を思い知らせた。二十五歳。父を知らず、剣を師に学び、勇者と呼ばれるようになって、まだ数年しか経っていない。その勇者が今、罪人として裁きを受けようとしていた。
長机の中央の男が、書面を広げた。
「シオン。楔の勇者と呼ばれる者」
乾いた声が、間を渡った。
「近衛師団長殺害の罪について、最後にもう一度だけ問う。師団長を討ったのは、間違いなく、お前か」
シオンは顔を上げた。
裁定者たちの視線が、一斉に彼へ集まった。憎悪ではなかった。困惑だった。勇者が、こともあろうに王家の盾たる近衛の長を斬ったなど、誰もが半ば信じかねている。それでも本人が名乗り出てしまえば、裁きは進むしかない。その戸惑いが、間の空気を重くしていた。
「はい」
彼は短く答えた。
「あの夜、師団長を討ったのは、俺です」
書記が羽根筆を走らせた。羽根の擦れる音が、やけに大きく聞こえた。
嘘だった。
胸の奥で、彼はその言葉を静かに噛み締めた。あの夜、駆けつけた先の通路で倒れていた師団長の姿を、彼は忘れたことがない。血の海の中で、剣を握ったまま事切れていた老騎士。斬った者の剣筋を、シオンは知っていた。何年も、何年も、背中を見て、型を受けて、学んできた剣筋だった。否定しようのないほど、知り尽くしていた。
だが、それを口にすればどうなる。
師は既に捕らえられ、別の罪で監獄への投獄が決まっていた。そこへ師団長殺しまで重なれば、師に言い渡されるのは下層どころではない、もっと深い場所になるか、その場で首が落ちるか、どちらかだった。そして何より、師は監獄の奥底を目指している。あの夜に垣間見た師の目が、それを物語っていた。底へ行く者を、外の世界の裁きだけで止めることはできない。止めるなら、同じ穴の中へ入るしかなかった。
だからシオンは、罪を被った。
誰に頼まれたわけでもない。相談した相手もいない。捕らえられた師の代わりに罪を名乗り出ることが、追うための唯一の門だった。門の先が地の底だとしても、彼は既に決めていた。
「動機を、改めて述べよ」
裁定者の一人が言った。
「師団長とは、以前から折り合いが悪かったと聞く。それだけのことで、王家の盾を斬るか」
シオンは目を伏せた。
本当の理由は、ここでは語れなかった。語れば、被った罪そのものが崩れる。罪が崩れれば、門は閉じる。彼は用意してきた言葉を、感情を込めずに並べた。
「言葉で争い、剣を抜きました。それ以上の理由はありません」
間がざわついた。
情けない話だった。王国の勇者が、口論の果てに近衛の長を斬った。書面の上では、それで全てが収まってしまう。老騎士の死も、師の行いも、奪われた命の数々も、何もかもが、若い勇者の愚かさという一言の下に仕舞われていく。裁定者たちの中には、露骨に失望を顔に出す者もいた。後方では、誰かが小さく罵る声も聞こえた。
それでいい、とシオンは思った。
罵られ、失望されることは、覚悟の内だった。真実を叫ぶ方が、よほど易かった。師の罪を並べ立て、自分の潔白を訴えれば、彼は今夜にも元の居場所へ戻れただろう。だが、その居場所に、もう戻る意味はなかった。信じることを選んで、師を見逃した日々があった。疑いを目にしながら、父のように慕う心に負けて、問い詰める手を止めた日々があった。その結果が、あの夜だった。罪を被ることは、彼にとって贖いの一つでもあった。自分が見逃したものの、始末をつけるための。
「……分かった」
中央の男が、書面を置いた。
「シオンは、勇者の格を持つ者である。その者が王家の盾を斬り、王都の秩序を乱した罪は重い。王国はこの者に、監獄カルナヴェイルへの投獄を言い渡す」
間が静まり返った。
「格に鑑み、投獄先は下層とする。刑は、その身の寿命をもって量る。――すなわち、戻る日は、定めない」
戻る日は、定めない。
言い換えれば、生きて外へ出ることは想定されていない、ということだった。下層とは、そういう場所である。中層から先は種族の寿命で量るほどの長期となり、下層に至っては、もはや帰還の日付そのものが存在しない。ざわつきが、再び間を満たした。今度は、同情の色が混じっていた。勇者と呼ばれた若者が、地の底へ落とされる。その光景に、人は言葉を失うしかないらしかった。
シオンは、静かに頭を下げた。
恐ろしくなかった、と言えば嘘になる。腹の底には、冷たいものが沈んでいた。だが、その冷たさよりも強く、彼は別のものを感じていた。門が、開いたのだ。これで師と同じ場所へ行ける。裁きの場で真意を汲んだ者は、誰一人いなかった。それが、彼の望んだ通りだった。
「枷を嵌めよ」
護送の頭が進み出て、鉄の箱を開けた。
中の布の上に、飾り気のない金属の輪が横たわっていた。腕輪だった。だが、近づくにつれて、シオンの肌はそれがただの装身具ではないことを感じ取った。輪の内側には細かな刻みが走り、眠っている何かの気配がした。彼は鎖に繋がれた手を差し出し、左の手首に輪を通された。
冷たさが皮膚を刺し、輪は継ぎ目を失って閉じた。
次の瞬間、世界が遠くなった。
音がくぐもり、燭台の炎の輪郭が鈍った。体の内側を巡っていた力の流れが、堰で止められたように滞る。指に力を込めても、応えるものがない。試しに胸の前へ意識を向ければ、長年連れ添ってきた楔の感覚さえ、厚い布の奥にあるように遠かった。力の封じとは、こういうことか。自分の体でありながら、一部が他人のものになったような喪失感が、胸を満たした。
だが、輪が持つのは封じだけではなかった。
手首の内側、脈打つ場所に刻みが熱を持ち始めた。階層の刻印だ、と護送の頭が事務的に言った。属すべき場所を輪が覚えている。決められたより下へは行けない。行こうとすれば、輪がどうなるかは、言わずとも分かる顔だった。
そして、もう一つ。
輪は脈に合わせ、ごく微かに、彼の内側から何かを吸い上げていた。目に見えず、音もなく、けれど確かに、彼の奥に灯っていた何かが細い糸のように外へ抜けていく。シオンは手首を見下ろした。輪は静かに収まっているだけだった。だが、その静けさの奥で、徴収は既に始まっていた。
取り立て、という言葉を彼は思い出した。
英雄が外で分け与えてきた輝きは、借りたものだという。監獄では、その代償を返し続けなければならないという。話として聞いたときは、昔語りの類いだと思っていた。だが今、手首から抜けていく微かな何かは、昔語りではなかった。
やがて、その微かさは痛みに変わった。
初めは、脈の奥を針でつつかれるような痛みだった。移送の馬車に揺られ、王都を離れる頃には、それは重さに変わっていた。肩から背へ、鉛を貼り付けられたような重さ。呼吸のたびに、胸の奥が軋んだ。これが、下層へ向かう者の取り立てだというのか。まだ穴の縁にも立っていないのに。
シオンは、痛みを押し殺そうとはしなかった。
むしろ、受け入れた。
この痛みは、罰としてちょうどよかった。信じることを選んだ自分への。疑いを持ちながら、父と慕う心に負けて、師の剣を止めなかった自分への。あの夜、遅れて駆けつけ、倒れた師団長と、途絶えた感覚の残り香だけを拾うしかできなかった自分への罰として、この重さは、むしろ正直だった。彼は馬車の中で目を閉じ、軋む胸のまま、揺れに身を任せた。痛みがある限り、自分が何のために穴へ向かうのかを、忘れずに済む気がした。
移送は三日かかった。
王都を離れ、街道を下り、人の集落が途絶え、やがて馬車は石の門の前で止められた。門の先には建物はなかった。あるのは、地に開いた巨大な口だった。
カルナヴェイル。
擂鉢状の縦穴は、縁に立っても底が見えなかった。壁面は下へ向かって窄みながらも、各層の周縁には居住の明かりが点々と灯り、蜘蛛の巣のように通路が伸びているのが、遥か下に霞んで見えた。上から、上層、中層、下層、深層、そして奈落。言葉で知っていた階層が、目の前に一つの深さとして横たわっていた。底から吹き上がる風は生温かく、石と獣と、人の暮らしの匂いが混じっていた。
「行け」
護送の男が、短く言った。
落下は、縄梯子と昇降の仕掛けを幾度も乗り継ぐ、長い下降だった。明かりが遠ざかり、層を一つ下るたびに、手首の輪の熱が増した。中層を過ぎた辺りから、取り立ての重さは一段と増し、膝が笑い、視界の端が暗くなった。下層の取り立てとは、これほどか。噂に聞いた通り、深い場所ほど代償は厳しい。彼は壁に手をつき、息を整えながら、それでも一段ずつ下りていった。
下層の周縁に足を着いたとき、彼の膝は小さく震えていた。
そこは、地の底とは思えないほど、人の営みに満ちていた。市場らしき広場では素材の値付けの声が飛び交い、配給の列ができ、原住種と呼ばれる者たちが荷を運んでいた。だが、空気は重く、行き交う者たちの肩には、それぞれの輪が鈍く光っていた。全員が、何かを吸われ続けながら生きている場所だった。
シオンは、まず聞くことから始めた。
その前に、一度だけ、彼は自分の楔へ意識を向けた。結んだ相手の位置を感じ取る力は、枷に塞がれながらも、完全には消えていなかった。遠く、薄く、幾つかの灯りが闇の中に点るように感じられた。だが、その中に、求める相手はいなかった。師とは、初めから楔を結んだことがない。位置を感じ取る術を持ちながら、肝心の相手にだけ、その術は届かない。彼はその皮肉を何度も噛み締めてきた。だからこそ、最後に残るのは、人の口と、自分の足だけだった。
師の行方を。
市場で荷を捌く古参の囚人に、騎士の出で、言葉遣いの丁寧な、十年ほど年嵩の男を知らないかと尋ねた。名は出さなかった。だが、男の特徴を重ねるうちに、古参は眉を上げた。
「ああ、その騎士の噂なら聞いたことがある。だがな、若いの」
古参は、シオンの手首の輪を見た。
「あの男の言い渡しは、中層だ。下層じゃねえ。判決の写しが回ってきたときに、俺も見た。中層の、騎士あがりが何人も詰めてる区画に放り込まれたはずだ」
シオンは息を呑んだ。
中層。
師は、下層にはいなかった。自分が被った罪は下層行きだったが、師本人の言い渡しは中層だったのだ。穴の縁に立ったとき、確かに中層は自分の上を通り過ぎた。昇降の途中で見た、あの明かりの層。彼は、その層を通り過ぎて、下へ落ちてきたのである。
「……ここに、来たことは」
「さあな。少なくとも、長くいた話は聞かねえ。探すなら、上だ」
古参はそれだけ言って、荷の捌きに戻った。
シオンは、広場のざわめきの中で、しばらく立ち尽くした。
悔しさが、遅れて込み上げてきた。罪を被り、地の底まで落ちてきて、肝心の師は頭の上にいた。何もかもが、すれ違いだった。あの夜もそうだった。彼はいつも、師の行った後に着き、残されたものだけを拾ってきた。
だが、立ち尽くしていても、師は近づいてはこない。
彼は手首の輪を見下ろした。取り立ては今も、脈に合わせて彼の内側を吸い上げ続け、胸の軋みは増すばかりだった。だが、上への移動は禁じられていない。枷が縛るのは、決められたより下への道だけだ。上ることは、許されている。
ならば、上る。
答えは、それだけだった。中層へ上がり、師の痕跡を、一つずつ辿る。楔で感じ取れる相手の中に師はいない。手がかりは人の噂と、残された足跡だけになるだろう。それでも、行くしかない。彼はこの穴へ、師を追うためだけに落ちてきたのだから。
シオンは顔を上げ、擂鉢の内壁を見上げた。
遥か上に、中層の明かりが霞んでいた。その先には上層があり、さらに上には、外の空があるはずだった。だが、彼が見ていたのは空ではなかった。明かりの層のどこかにいるはずの、背中だった。何年も見続けてきた、父のような人の背中を、今度は裁くために追うのだ、と彼は自分に言い聞かせた。
振り返れば、下層の広場は相変わらずのざわめきに満ち、誰も、地の底へ落ちてきたばかりの若者一人に構いはしなかった。それが、この場所の正直さだった。ここでは誰もが自分の重さを背負うので精一杯なのだ。シオンは、その正直さに、かえって背を押された気がした。
市場を後にし、彼は上り路の入口へ向けて歩き出した。
手首の輪は歩調に合わせて熱を持ち、取り立ての重さは一歩ごとに肩へ食い込んだ。罰のような痛みを背負ったまま、若い勇者は、地の底から上を目指して、最初の一歩を踏み出した。




