#第44話「エルナの夜」
その夜、城は眠らなかった。
詰め所の窓の外では、松明の列が何度も行き交い、蹄の音と、伝令の甲高い声とが、石畳の上で交錯していた。夕刻に始まった騒ぎは、日が落ちても収まる気配がなかった。王都の外れにあるはずのない蔵が見つかったのだ。騎士団の印を押された荷の中に、禁じられた武具が紛れていたのだ。地下の部屋では、種族ごとに弱点を記した書付けと、解かれたはずのない錠が見つかったのだ。噂は噂を呼び、どの話も、最後には一人の名へ行き着いた。
ガラハッド。
シオンは、詰め所の隅で剣帯を締め直しながら、その名が行き交うのを何度も聞いた。誰も、まだ断定は口にしなかった。騎士団長という位が、言葉の端々に重く引っかかっていた。だが、団長の姿は夕刻からどこにもなかった。私室は空で、馬もいなかった。捜索の命は出たが、捕らえるのか、呼び戻すのか、その一言さえ、命を下す側が決めかねているように聞こえた。
シオンの胸の奥では、別のざわめきが続いていた。
思い出したくなくても、思い出してしまう光景があった。消えていく囚人の噂。夜更けに運び出される、形の読めない荷。稽古の場で、師がこともなげに突いてみせた、人の体には似合わぬ急所の位置。問い詰めたとき、師は笑って言った。王国を守るためだ、と。その言葉を、シオンは信じた。信じることを、自分で選んだ。その記憶が、今夜の騒ぎの中で、何度も喉の奥へせり上がってきた。
手の甲の紋が、疼いた。
楔形の痣である。誓いの言葉と共に光の楔を打ち込んだ跡は、歳月と共に濃くなり、今では薄い光の下でもはっきりと見えた。初めてエルナに楔を打った日、紋はまだ、小さな欠片ほどの薄さしかなかった。あれから年を重ね、位置を知るだけだった結びつきは深まり、やがて感覚を分け合うところまで届いた。第2段階。エルナの生命の気配は、遠く離れていても、シオンにとっては自分の鼓動の隣にある、もう一つの静かな鼓動だった。
その鼓動が、乱れていた。
シオンは立ち上がった。紋の疼きは痛みではなかった。引かれるような、急かされるような感覚だった。位置の感覚が、城の奥を指していた。姫の居室のある方角ではなかった。もっと低く、もっと奥へ。使われなくなった裏手の通路の方へ、気配が移っていくのが分かった。
彼は楔を開いた。
感覚共有は、彼が開くものだった。相手から開くことはできない。だからこそ、開くときはいつも断りを入れるのが、二人の間の決まりだった。今夜は、断りを入れる間がなかった。許せ、と心の中でだけ呟いて、シオンはエルナの感覚へ身を沈めた。
闇が来た。
いきなりだった。自分の目で見ていた詰め所の明かりが遠のき、代わりに、布越しのような重い闇が視界を覆った。何も見えなかった。見えない代わりに、他の感覚が鋭く立った。手首を食む、縄の感触。口を塞がれ、息を吸うたびに布が湿る不快さ。頬に当たる冷たい空気と、運ばれているのか、体が不規則に揺れる感覚。どこかで石が擦れる音がした。薬と鉄と、古い油の混ざった匂いがした。
そして、恐怖が来た。
それはシオンの恐怖ではなかった。考えるよりも先に体が震え、助けを呼ぼうとして声にならず、心臓が肋を打つほどの速さで跳ねる。その震えの主が誰なのかを、シオンは知っていた。歳月をかけて分け合ってきた感覚だった。間違えようがなかった。
エルナが、攫われていた。
「姫が」
声が、自分の喉から漏れた。詰め所にいた数人が振り向いた。だが、説明をしている暇はなかった。シオンは剣を掴み、扉を蹴るようにして夜へ飛び出した。位置の感覚が引く方へ、ただ走った。石畳を蹴る自分の足音と、楔の向こう側で鳴り続ける、もう一つの心臓の音とが重なって、二重の鼓動が耳の奥で騒いだ。
走りながらも、断片は途切れ途切れに届いた。
闇の中で、エルナの体が床へ下ろされる感触。縄がさらにきつく締まる痛み。誰かの手が、乱暴に肩を押さえつける重さ。そして、声が聞こえた。エルナの耳を通して届く声は、水の底で聞くようにくぐもっていたが、その低さと、言葉の切り方だけは、嫌になるほどはっきりしていた。
聞き慣れた声だった。
父と慕った声だった。稽古の場で背中を叩き、迷うたびに道を示してくれた声だった。その声が、今、闇の中で、ひどく穏やかに指示を出していた。跡を残すな。蔵の方は片付いたか。地下の者どもは、もう口を開かぬようにしたか。
地下の者ども。
その一言で、シオンの背筋が冷えた。実験に使われていた者たちのことだと、考えるまでもなく分かった。証拠を消すために、口を封じるために。言葉の意味は、穏やかな声の調子とは裏腹に、あまりにも明瞭だった。シオンが目撃し、問い詰め、信じることで目を逸らした先にあったものが、闇の向こうで、始末という一言に畳まれていくのが分かった。
エルナの恐怖が、さらに一段深くなった。縛られた体が、声の主から逃れようともがくのが、シオンの体にまで伝わった。そのはずみで、目を覆う布がわずかにずれたのか、闇に細い光の筋が走った。だが、見えたのはそこまでだった。光の筋はすぐに閉ざされ、代わりに、声が近づいた。
奪う、という言葉を、シオンは聞いた。
輝きは、与えられるのを待つものではない。通り過ぎていく者たちを、見送る側のままではいられない。奪う力が強いほど、人は惹かれ、従い、ひれ伏すのだ。そんな趣旨の言葉が、途切れながら、エルナの耳を通して届いた。それは演説ではなかった。誰かに聞かせるための言葉でもなかった。長年胸の内に溜め込み、発覚と逃亡という瀬戸際に立って、ようやく封が解けた本音の漏れ方だった。師が若い英雄たちを見送るたびに、目の奥に宿していた飢えの正体が、闇の中で、言葉の形を取っていた。
その言葉の合間に、エルナの力の名もあった。黎明の星。英雄たちの輝きを磨くその力を手にできれば、衰えた己の輝きも、再び強く灯るのだという、熱に浮かされたような呟き。姫を攫った理由が、そこにあった。シオンは走りながら、その意味の冷たさに震えた。
そして、その声がエルナへ向いたとき、断片は乱れた。
何が起きているのか、感覚だけでは形にならなかった。ただ、恐怖が極まって、悲鳴にもならない息の詰まりと、縛られた体の必死の抵抗と、聞き慣れた声の、もはや穏やかですらない低さだけが、波のように押し寄せた。シオンは走りながら歯を食いしばった。開いているのは自分だ。閉ざせば、この恐怖からは逃れられる。だが、閉ざすことは、エルナを見捨てることだった。彼は閉ざさなかった。届く断片のすべてを、自分の身に受け続けた。それが、そのときの彼にできる、唯一のことだった。
裏手の通路は、明かりがなかった。
位置の感覚が、地下へ続く階段の方角を指していた。シオンは松明も取らずに闇へ踏み込んだ。足元の段を数える余裕もなく、壁に肩をぶつけながら駆け下りた。楔の向こうの鼓動は、まだあった。速く、弱く、だが確かにあった。間に合え、という言葉だけが頭の中で繰り返された。自分に打ち込んだ楔は、自分では抜けない。エルナに打ち込んだ楔もまた、相手の命と結びついて、彼の内側で鳴り続けていた。
階段を下り切った先で、彼は足を止めた。
通路の途中に、人が倒れていた。
近衛師団長だった。姫付きの守りを束ねる男で、シオンとも幾度も剣を交えたことのある、実直な騎士だった。男は通路の壁にもたれるようにして崩れ落ち、片手はまだ剣の柄を握っていた。だが、その剣は鞘から半ばまでしか抜かれていなかった。胸の鎧の合わせ目に、正確な一突きの跡があった。種族の弱点を知る者の、無駄のない剣。実験と解剖で積み上げられた知識が、最も忠実な騎士の命を奪うために使われた跡だった。
シオンは膝をつき、首筋に指を当てた。
冷たさは、まだなかった。だが、鼓動もなかった。
間に合わなかった、という事実は、まず師団長の体で突きつけられた。姫を助けに向かった男は、ここで既に殺されていた。通路の先へ進もうとして、シオンの足が一瞬すくんだ。その一瞬の間に、楔の向こうで、何かが変わった。
エルナの鼓動が、遠くなった。
遠くなる、というのは正確ではなかった。生命の気配そのものが、細くなっていった。糸のように。風の前の灯火のように。シオンは通路の先へ向かって叫んだ。名前を叫んだ。だが声は石の壁に吸われ、楔の向こうからは、答えの代わりに、感覚の最後の震えだけが返ってきた。恐怖すら、もう届かなかった。恐怖を感じる主が、遠ざかっていくのが分かった。
そして、途絶えた。
音が消えるのとは、違った。鼓動が止まるのとも、違った。何年も隣にあった気配が、ある瞬間を境に、世界からまるごと無くなった。閉ざしたのではない。相手から開けるはずのない共有が、根元から断ち切られた。手の甲の紋が、急に冷えた。疼きも、引かれる感覚も、もう一つの鼓動も、何もかもが無くなり、後に残ったのは、自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえる、完全な静けさだった。
シオンは、しばらく動けなかった。
楔を開き直そうとした。何度も、何度も。だが、開く先がなかった。第2段階まで歳月をかけて深めた結びつきは、深かった分だけ、その喪失も深かった。位置も分からない。生命の気配もない。それは、答えを聞くまでもなく、死を意味していた。
シオンは、師団長の亡骸を一人で置いていくことができず、駆けつけた衛兵たちが担架を持ってくるまで、その傍らに座り込んでいた。剣を半ばまで抜いたまま死んだ男の指を、一本ずつ柄から離し、両の目をそっと閉ざしてやったのは、彼だった。衛兵の一人が、姫の居室の鍵は内側から壊されていたこと、逃亡に使われた馬の蹄の跡が裏門の外で途絶えていることを、途切れ途切れに報告した。どの報せも、もう夜の結末を変えるものではなかった。シオンはただ頷き、紋の冷えた手の甲を、もう片方の手で強く握りしめていた。
エルナの死が確かなこととして城に知れ渡ったのは、夜明け前のことだった。
地下の先の小部屋で、姫が見つかった。詳しい有様を、シオンは人から聞いた言葉でしか知らない。駆けつけた衛兵たちは多くを語らなかった。語る代わりに、彼らは一様に目を伏せ、言葉を選んで、ただ、姫は既に亡くなっていたことと、ガラハッドの姿はどこにもなかったことだけを伝えた。部屋に残されていたのは、逃亡の痕跡と、引きちぎられた姫の帯飾りと、争った跡だけだったという。それ以上のことは、シオンも問わなかった。問わずとも、楔を通して受けた恐怖の重さが、闇の中で何があったのかを、言葉よりもはっきりと告げていた。
地下の実験の部屋からは、囚人と奴隷たちが、息のない姿で見つかった。証拠を消すための始末だった。一人や二人ではなかったという。密輸の武具は運び出され、書付けの大半は焼かれていた。残されたのは、師が長年にわたって積み上げてきた行いの、消し切れなかった端々だけだった。王国を守るため。その言葉の陰で、どれほどの命が秤にかけられてきたのか、シオンは夜明けの光の中で、初めて正面から数えさせられた。
後悔は、遅れてやってきた。
あの日、問い詰めたときに、なぜ引かなかったのか。師の言葉を信じることが、孝行の形だと、なぜ思い込んだのか。信じることを選んだのは、他ならぬ自分だった。疑う材料は、目の前にあった。それを疑い切る勇気よりも、父と慕う人を信じていたい気持ちを取った。その選択の代償が、師団長の冷えていく体であり、途絶えた楔の静けさであり、二度と戻らない姫の命だった。
裏切られた、という思いはあった。だが、それだけではなかった。裏切られたと叫ぶ資格が、自分にあるのかどうかさえ、シオンには分からなかった。彼は裏切られた側であると同時に、見逃した側でもあった。その二つが胸の中で噛み合い、行き場のない怒りは、やがて一つの方向へ凝っていった。
ガラハッドへ。
憎悪、と呼ぶにはまだ生々しい感情が、夜明けと共に、静かに形を取り始めた。師への思慕は、消えたわけではなかった。消えないからこそ、裏切りは深く、憎しみは固かった。教わった剣の型の一つひとつが、師団長の胸の傷と重なって思い出された。父の声で呼ばれた自分の名が、エルナの耳に届いた最後の声の低さと重なった。思い出のすべてが、今は憎しみの薪でしかなかった。
報せによれば、ガラハッドは捕らえられれば監獄へ送られる身だった。だが、逃げ延びた男が大人しく捕らわれるとは限らない。たとえ捕らわれ、落とされたとしても、その先の深い場所へ潜ってしまえば、王国の裁きも、追う者の手も、届かなくなる。
シオンは、師団長の亡骸の傍らに膝をついたまま、長い間、手の甲の紋を見つめていた。
この男の死を、このまま犯人不明の逃亡の影に置いておけば、追う理由を持つ者はいなくなる。だが、もし誰かがこの罪を被れば。その誰かが、勇者の格を持ち、落ちる先で師を追える者であれば。
考えは、まだ形になり切っていなかった。だが、途絶えた楔の静けさの中で、それは確かに芽吹いていた。もう戻れないのだと、シオンは思った。戻る場所は、今夜、すべて失われた。残されたのは、前へ進む理由だけだった。




