#第43話「奪う輝き」
噂は、兵舎の片隅から始まった。
ローゼンハイム王国の王都では、その頃、人が消えていた。牢に繋がれていたはずの囚人が、移送の記録だけを残して行方を絶った。市場で売られ、屋敷や工房に引き取られたはずの他種族の奴隷が、ある日を境に姿を見せなくなった。数は多くない。一人、二人。だが、消えた者の行き先を、誰も知らなかった。
「移送先で死んだのだろう」
誰かがそう言えば、話はそこで終わった。囚人の死も、奴隷の死も、王都の暮らしを止めるほどのことではなかったからだ。シオンも、初めはそう聞き流していた。二十五歳の若さで勇者と呼ばれ、王家に仕える身であっても、牢の帳面や奴隷の売買にまで目を配る務めは、彼にはなかった。
だが、噂は消えなかった。むしろ、日を追うごとに、別の噂と結びついて膨らんでいった。夜更けに、騎士団の詰所の裏手を通る荷車がある。素性の知れない薬師が、団長の許しを得て出入りしている。開けてはならない扉が、詰所の奥にある。囚人の中には、他種族の体を調べるために連れて行かれた者がいるのだ、と囚人上がりの掃除夫が酒の席で囁いたという話まであった。
シオンは、その最後の話を聞いたとき、笑わなかった。
騎士団長ガラハッド。彼の師であり、父のいない彼を拾い、剣を握らせ、王家へ仕える道まで用意してくれた人だった。その人の治める詰所で、開けてはならない扉などと囁かれること自体が、シオンには我慢ならなかった。根も葉もない噂なら、確かめて潰せばよい。そう思って、彼は何度か、夜の詰所に足を運んだ。噂を潰すためだった。少なくとも、そのときの彼は、そう信じていた。
その夜、シオンは詰所の奥の回廊で、運ばれていく寝台を見た。
回廊は昼でも薄暗く、夜は壁の燭台が一つ置きにしか灯されていなかった。彼は巡回を装い、剣の柄に手を添えて歩いていた。すると、回廊の突き当たりにある扉が、内側から細く開いた。普段は閉ざされ、見張りすら立っていない扉だった。近づくな、とは誰も言わない。だが、団の者の誰もが、あの扉の先には用がないものとして、無意識に目を逸らして通る場所だった。
扉の隙間から、強い薬の匂いが漏れた。鉄の匂いと、何か甘く腐ったような匂いが、その奥に薄く混ざっていた。
寝台は二人掛かりで運ばれてきた。寝台の上にあるものには、白い布が頭から爪先まで掛けられ、形は人のものとしか思えなかった。布の端から、一瞬だけ手が垂れた。指は長く、爪は人のものより厚く黒かった。運ぶ男たちは、その手を慌てて布の中へ押し戻し、シオンの存在に気づくと、足を速めて反対側の回廊へ消えた。寝台の車輪の軋みが、石の床に長く尾を引いた。
シオンは、その場に立ち尽くしていた。
声を掛けるべきだった。何を運んでいるのかと、問うべきだった。だが、彼の足は動かなかった。運ぶ男たちの着ていたものが、騎士団の詰所で働く従者の服だったからである。よそ者の手ではない。団の中の手が、あの寝台を運んでいた。
扉は、彼が目を逸らした僅かな間に、音もなく閉ざされていた。
別の夜には、扉の前で落ちていた紙切れを拾ったこともあった。粗い紙に、人の形と、獣人の形と、耳の長い種族の形とが、並べて描かれていた。それぞれの喉、耳の付け根、脇の下、膝の裏に、赤い印が几帳面に打たれていた。剣の形も描かれていた。刃の腹に細い溝の走る短剣、抜くときに肉を抉る返しのついた矢じり。どちらも、王国の法で持つことを禁じられた造りの武具だった。紙は端が焼け焦げていて、文字はほとんど読めなかった。燃やし損ねたものが、運ぶ拍子に零れたのだろう。
シオンは、その紙を懐に入れた。証しとしてではない。誰かに見せるためでもない。ただ、捨てることも、燃やすこともできなかっただけだった。今にして思えば、そのとき既に、彼は分かっていたのかもしれない。拾ったものを差し出せば、敬愛する師の名が、取り返しのつかない場所へ引きずり出されることを。
扉の奥から、器具の触れ合う小さな音を聞いた夜もあった。刃物が盆に置かれる音。鎖の音。そして、言葉にならない、絞り出すような声。長くは続かなかった。音が止んだ後の静けさのほうが、彼の耳には重く残った。
近衛師団長と顔を合わせたのは、その翌日の昼だった。
姫エルナの居館の前で、警護の交代が行われていた。近衛師団長は、自ら持ち場を一つずつ回り、兵の装備と立ち位置を検めていた。王家と姫を守ることを天職とする男で、その検めには、年若いシオンが見ても付け入る隙がなかった。厳しい人だったが、厳しさの向け先は、いつも自分の配下と自分自身だった。
「勇者殿。顔が冴えぬな」
声を掛けられ、シオンは背筋を伸ばした。
「いえ。何でもありません」
「王家を守るというのは、剣を構えて立つことだけではない」
師団長は、居館の窓を見上げながら言った。
「変化に気づくことだ。いつもと違う音、いつもと違う人の出入り、いつもと違う噂。そういうものを見過ごすな。……近頃、牢と奴隷の噂が、近衛の耳にも届いている」
シオンの胸が、僅かに騒いだ。
「気になることがあれば、まず私に言え。相手が誰であってもだ。守るべき方々のためなら、私はどの扉でも叩く」
どの扉でも、と師団長は言った。その言葉を聞いた瞬間、シオンの懐の中で、焼け焦げた紙切れが急に重くなった気がした。ここで差し出せばよかったのだ。夜の寝台のことも、赤い印のことも。だが、彼の手は動かなかった。確かめもしない噂の断片で、師の名をこの人の口に乗せることが、どうしてもできなかった。先に師に聞く。それが弟子の務めだと、彼は自分に言い聞かせた。筋を通すためだと思った。本当は、師を疑う自分を、まだ認めたくなかっただけなのに。
「……何かあれば、必ず」
彼は、そう答えるのが精一杯だった。師団長はしばらく彼を見ていたが、それ以上は問い詰めず、次の持ち場へ向かった。その背中を、シオンは最後まで見送ることができなかった。
その夜、シオンはガラハッドの執務室を訪ねた。
師は書類の山の向こうに座っていた。五十二歳。かつて端正と讃えられた顔立ちは今も崩れてはいなかったが、髪には白いものが目立ち、目の下には衰えの影が落ちていた。若い英雄たちが王都に現れては彼の横を通り過ぎていくたび、その影は少しずつ濃くなっていたように、シオンには思えた。だが、その夜の師は穏やかだった。彼が来ることを、待っていたかのように茶を勧めさえした。
「噂のことであろう」
先に口を開いたのは、師だった。シオンは息を呑んだ。
「兵の間で囁かれていることは、私の耳にも入っている。……お前は、あの扉の先を見たのか」
「見ては、いません。ですが、寝台を。布で覆われたものを、運ぶところを」
「ああ、あれは」
ガラハッドは、疲れたように目元を押さえた。
「戦で体を壊し、名も戻らぬまま牢で死にかけていた囚人だ。薬師に診せていた。助からんかもしれんが、捨て置くよりはましだろう」
「赤い印の図は、どういうものですか。種族ごとに、喉や関節へ印の打たれた図でした。禁じられた造りの武器の絵も、そこに」
シオンは懐の紙を出しかけて、やめた。出すことは、師を証拠で詰めることだった。彼は詰めに来たのではない、と自分に言い訳をした。
ガラハッドは、静かに微笑んだ。怒りも、動揺もなかった。
「シオン。王国は、多くの種族に囲まれている。獣人の膂力、長命種の耳と目、巨い種族の体。もし戦になれば、それらが牙となって王国へ向かう。相手の体のどこが弱いかを知ることは、王国を守るために要ることだ。剣の届かぬ相手に、どう立ち向かう。長く戦を続けずに済む急所は、どこか。それを知らずに兵を死なせるほうが、よほど残酷ではないか」
「けれど、消えた者たちがいます。囚人も、奴隷も」
「移送の途中で死んだ者もいる。逃げた者もいる。帳面の不備もあるだろう。だが、生きている者を切り刻むような真似は、していない。……図は、死した者の体を調べ、書き留めたものだ。禁じられた武具の絵は、押収した品の記録だ。密かに売買されていたものを取り上げ、どういう造りかを知らねば、備えることもできん」
一つひとつに、理屈があった。王国を守るため。兵を死なせないため。備えるため。その言葉は、シオンが信じたい形に、あまりにきれいに収まっていった。
ガラハッドは立ち上がり、彼の肩に手を置いた。父の手だと、シオンはいつも思ってきた手だった。
「強すぎる輝きは直視できなくなる。輝きに照らされて幸福だと感じるものは、照らされる事を受け入れたものだけだ。……英雄のまぶしさに目を焼かれた者は、英雄の影で行われる地道な守りの仕事を、汚いと罵る。お前は、目を逸らさぬ者であれ。私を信じられぬか」
「信じます」
答えは、考えるより先に出ていた。
「師を、信じます」
その瞬間、肩の手の重みが、彼を安心させた。疑ったこと自体が申し訳なく思えた。彼は近衛師団長への約束を、その夜、果たさなかった。扉のことも、寝台のことも、紙切れのことも、結局どこへも報告しなかった。紙切れは自室に戻ってから、燭台の火で燃やした。灰になるまで見届けたのは、証しを消すためではなかったと、今でも彼は自分に言い聞かせている。だが、手は震えていた。その震えの意味を、彼はその夜も見ないことにした。
机の端に、近衛の警護の交代を書き写した表が置かれていたことに、彼は帰り際に気づいた。姫の居館の持ち場にも、細い線が引かれていた。守りの備えのためだろう。師はそうする人だ。彼はそう思って、目を逸らした。それが二度目の、見過ごしだった。
稽古の日、ガラハッドの剣の恐ろしさを、シオンは改めて思い知らされた。
詰所の中庭には、団の若手と古参とが集まっていた。ガラハッドは模擬の剣を取り、まず古参の騎士と向かい合った。巨漢だった。体格で圧し、盾ごと吹き飛ばす剣が身上の男だった。だが、師の剣は、その大振りの初太刀が上がるより先に、男の手首の内側へ滑り込んでいた。痺れた手から剣が落ちかける。踏み込む足の膝裏へ、師の足が静かに掛かる。体の重さそのものが崩れ、巨漢は膝をついた。師の剣の切っ先は、その喉元で寸分違わず止まっていた。
「お前の左膝は、昔の戦傷で深く曲がらん。重い剣を振るうたび、体は右へ流れる。分かっていれば、初太刀は見なくてよい」
次に立った若手は、速さに覚えのある男だった。だが、その剣も三合と続かなかった。踏み込みの癖を先に読まれ、出鼻の肩口を剣の腹で叩かれ、体勢の崩れたところへ柄頭が鳩尾の寸前まで迫った。男は息を詰まらせ、その場にへたり込んだ。
正統の剣だった。奇襲でも、邪道でもない。王国の騎士剣術の型そのものを、極限まで研ぎ澄ました剣だった。恐ろしいのは、その型のすべてが、相手の体を知り尽くした上で組み立てられていることだった。どこを叩けば手が痺れるか。どこへ触れれば重心が崩れるか。どの関節が、どの角度までしか動かないか。師は、それを一人ひとりについて覚えていた。覚えているだけではない。相手が剣を抜く前から、その体の弱さのほうへ、既に自分の剣を置いていた。
「シオン。お前も来い」
彼は模擬の剣を握った。師と向かい合うのは、いつも誇らしい時間のはずだった。だが、その日に限って、彼の掌には汗が滲んだ。
初めの一太刀は受けられた。二太刀目は流された。三太刀目、彼は得意の踏み込みを半歩深くした。楔の力に頼らぬ剣では平凡なのだと言われ続けてきた分、足運びだけは鍛えてきたつもりだった。だが、師の剣は、彼の足が地に着くより先に、その進路を塞いでいた。剣の腹が彼の手首を叩く。痺れが走り、握りが緩む。崩れた体勢のまま、彼は咄嗟に横へ転がって距離を取った。切っ先は、彼の顎の下を、紙一枚の差で掠めていった。
「深く踏み込むとき、お前の視線は相手の胸へ落ちる。幼い頃からの癖だ。……私は、お前のすべてを知っている」
笑って言った言葉だった。弟子への愛情の言葉として、周りの者は聞いただろう。だが、シオンの背筋には、冷たいものが走った。すべてを知っている。その言葉は、赤い印の図と重なった。喉、耳の付け根、脇の下、膝の裏。あの図に印を打った手が、今、彼の顎の下へ剣を届かせていた。
師は剣を収めると、汗ひとつかかぬ顔で、若手たちへ型の要点を説いた。その声は穏やかで、指導者として申し分なかった。ただ、説き終えた師の目が、一瞬だけ遠くを見たのを、シオンは見た。若い騎士たちの、衰えを知らぬ体を見渡した後の、飢えたような目の色を。英雄たちの横を通り過ぎるたび、あの目はああやって飢えてきたのではなかったか。彼は、その考えをすぐに打ち消した。信じると決めたのだから。
稽古の帰り、裏門の近くで、彼は紋章のない馬車を見た。馬は既に繋がれ、御者台の男は団の従者だった。荷台には長い箱と、重そうな櫃とが積まれていた。夜更けの出立の支度にしては、静かすぎた。出立の届けなど、彼の知る限り、その日はなかったはずだった。
馬車は、王国を守るための、秘密の務めなのだろう。彼はそう思うことにした。思うことにして、足を速め、詰所を後にした。その背中の奥で、何かが小さく引っかかったままだったが、彼は振り返らなかった。振り返れば、信じると言った自分の言葉が、嘘になる気がしたからだった。
その夜更け、裏門の馬車の車輪の音を、遠くで聞いたような気がして、彼は一度だけ目を覚ました。だが、それきりだった。音は止み、王都の夜は、何事もない顔をして更けていった。




