#第42話「師という名の父」
中層の夜は、音が遠かった。
住まいにあてがわれた窪みは、岩を刳り抜いただけの狭い場所で、横になれば壁の冷たさが肩甲骨に届いた。通路の向こうで誰かが咳をし、水の滴る音が一定の間隔で返ってくる。シオンは剣を傍らに置き、目を閉じたまま、その音を数えていた。数えるほどに眠りは遠ざかり、代わりに別の音が、記憶の底から浮かんできた。
木剣と木剣のぶつかる音だった。乾いた、高い音。土の匂い。朝の光の中で埃が舞い、誰かの荒い息が重なる。あの音を思い出すとき、シオンの耳には決まって、師の声が重なった。剣の記憶は、そのまま父の記憶だった。
ローゼンハイム王国の騎士団の稽古場は、城の東にあった。踏み固められた土の上に白線が引かれ、朝の早い刻限には、まだ冷たい空気の中に若い騎士たちの息が白く立った。シオンが初めてそこへ立った頃、背丈は師の胸にも届かず、支給された木剣は長すぎて、両手で握っても剣先が揺れた。
ガラハッドは、列の最後尾にいた彼を見逃さなかった。
「足だ」
声は大きくなかった。だが稽古場の端まで、よく通った。
「剣は腕で振るものではない。足が流れれば、剣も流れる。もう一度」
何十度、その言葉を聞いたか分からない。素振りが崩れれば最初から。足運びが乱れれば、半刻でも同じ型を繰り返させられた。近衛の騎士たちが、休憩の折に苦笑い交じりに囁いたものだった。団長の稽古は厳しい、だが、あれほど一人の見習いに構う団長も珍しい、と。シオンはその囁きを、誇らしく聞いていた。厳しさの向けられる先が自分であることが、拾われた身の少年には、何よりの居場所の証しに思えたのだ。
稽古の終わりに、ガラハッドは彼の手を取ったことがある。断りもなく、掌を返させ、豆の潰れた痕を親指でなぞった。
「痛むか」
「痛くありません」
「嘘をつくな。痛むなら痛むと言え。痛みを誤魔化す者は、戦場で自分の限界を誤る」
そう言って、師は自分の帯に挟んでいた布を解き、少年の掌に巻いた。結びは不格好だった。騎士団長の手が、布一枚に手間取っている。シオンは笑いそうになるのを堪え、巻き終わるまで大人しくしていた。その布の感触を、彼は今も掌の記憶として持っている。
「剣の巧さだけで、騎士にはなれん」
ある日の稽古の後、ガラハッドは土の上に膝をつき、彼と目線を合わせて言った。
「守るべきものから目を逸らすな。恐ろしくなればなるほど、だ。お前の剣は、そのためにある」
シオンは頷いた。言葉の重さの半分も分かっていなかったはずなのに、そのときの師の目の真剣さだけは、少年の胸にそのまま残った。
父というものを、シオンは知らなかった。
物心のついた頃から、父の顔は家の中になかった。だから彼は、父という存在がどのようなものかを、ガラハッドを通して学んだのだと思う。朝、誰よりも早く稽古場に立ち、夜、誰よりも遅くまで執務室に明かりを灯す背中。叱るときは正面から叱り、認めるときは言葉少なに、だが確かに認める手つき。それが彼の知る、父の形だった。
雨の続いた秋のこと、シオンは熱を出した。稽古を休むことを申し出るのが情けなくて、熱のあるまま朝の列に並び、素振りの途中で倒れた。次に目を開けたとき、彼は詰め所の寝台に寝かされており、額には冷たい布が載っていた。傍らの椅子に、ガラハッドが座っていた。書面を手にしていたが、目は書面を見ていなかった。
「無理をするなとは、言わなかったな」
師は言った。
「だがな、シオン。倒れるまで無理をする者は、倒れた後の始末を誰かに押し付けている。それを格好いいと思うな」
布を取り替える手は、あの布を巻いたときと同じく、不器用だった。シオンは熱に浮かされながら、その不器用さに、妙に安心していたのを覚えている。完璧な騎士団長が、自分一人のためには、こんなふうに手間取るのだ、と。
執務室で眠り込んでしまった夜もあった。王家への報告書の写しを任され、慣れない文字の羅列に目を擦りながら、机に突っ伏して眠ってしまったのだ。夜更けに目覚めたとき、肩には外套がかけられていた。室の隅で、ガラハッドが立ったまま窓の外を見ていた。起こさないようにしていたのだということは、その沈黙で分かった。シオンは寝たふりを続けた。外套の重さが嬉しくて、もうしばらく、そのままでいたかった。
遠征帰りの夜のこともある。迎えの宴が引き上げた後の広間で、ガラハッドは残った食事を、シオンと二人で分け合ったことがあった。団長と見習いが同じ皿に手を伸ばすなど、近衛の誰が聞いても眉をひそめる光景だったろう。だが師は何も言わず、温いうちに食えとだけ言って、自分の分の半分を少年の皿へ移した。肉の味は覚えていない。覚えているのは、分け合うという行いが、その夜の広間ではひどく自然だったことだけである。
口に出して父と呼んだことは、一度もなかった。師と弟子という呼び名が、二人の間にはあった。それで十分だった。呼称がなくても、注がれるものの量は変わらないのだと、彼は信じていた。
歳月は、公平ではなかった。
シオンの背が伸び、剣が手に馴染み、近衛の列に名を連ねる頃、ガラハッドの髪には白いものが増えていった。かつて端正だった顔に、刻まれる皺の数が増えた。冬の朝の稽古で、師の型を見たことがある。若い騎士たちへの手本として披露された、正統の剣。構えも、踏み込みも、乱れはなかった。だが最後の一太刀の後、息を整えるまでの間が、ほんの僅か、長かった。膝に手を置きそうになるのを、彼は何事もなかったように押し隠した。シオンだけが、それを見ていた。見てしまった、と思った。
国境の戦から若い英雄が帰還した日、城下は祭りのようだった。二十代の半ばにもならないというその男は、街道の両側を埋めた人々に手を振り、花を投げられ、名を呼ばれ続けた。近衛の騎士たちも、その列を遠くから見て、羨望と憧れの混ざった声を上げていた。シオンも列の眩しさに目を細めた一人だった。
だが、回廊の影に、動かない背中があった。
ガラハッドは柱の傍らに立ち、凱旋の列を見ていた。拍手の渦は彼には届かなかった。人々の視線は、彼の横を、彼を通り越して、若い英雄の方へと流れていった。騎士団長として国に尽くした歳月も、若い頃に夢見たという騎士王の名も、その日、その場所では、誰の口にも上らなかった。師の手が、柱の影で、ゆっくりと握り締められるのをシオンは見た。声をかけることができなかった。かけるべき言葉が、弟子の側にはなかった。
その夜、執務室に呼ばれた。用向きは他愛もない報告の確認だった。片付けを終えても、ガラハッドは窓の外を見続けていた。城下にはまだ、凱旋を祝う明かりが点々と残っていた。
「強すぎる輝きは直視できなくなる。輝きに照らされて幸福だと感じるものは、照らされる事を受け入れたものだけだ」
ぽつりと、彼は言った。
「……団長?」
「人はな、照らされる側にいることに、いつか疲れるのだ」
それ以上、師は何も言わなかった。若かったシオンには、その言葉の本当の意味が分からなかった。功を立てた者への妬みを戒める言葉か、あるいは眩しさに目を背ける民への嘆きか。そのどちらかだろうと、彼は勝手に解釈し、深く考えもせず頷いた。師の横顔の、明かりを見つめる目の奥に何が沈んでいたのかを、彼は見ようとしなかった。
一人で夜の稽古場に立つ師の姿を見たのも、その頃である。月もない闇の中で、同じ型を何度も繰り返していた。踏み込み、斬り、戻る。若い頃に染み付いたはずの動きを、衰えていく体に、無理やり刻み直すような繰り返しだった。シオンは声をかけずに、その場を離れた。父の弱さを見てしまった気がして、胸が痛んだ。それだけだった。その痛みを、疑いの方へ向ける理由は、当時の彼には何もなかった。
楔のことを、ガラハッドが尋ねるようになったのは、エルナとの結びが深まってからのことだった。
姫エルナとシオンの楔は、歳月をかけて育ったものだった。初めて打ち込まれた日のことは、今も鮮やかである。誓いの言葉と共に放たれた光の楔は、物理の杭などではない。相手の内へ、そして自分自身の内へと沈み、打った場所に楔形の紋を残す。最初は淡かったその紋も、段階が上がるにつれて、濃く、大きく育っていった。第1段階ではお互いの位置が分かり、断とうと思えば断つこともできた。やがて第2段階に至り、シオンが楔を開けば、遠く離れたエルナの気配に触れ、その生命の灯の揺らぎまでも感じ取れるようになっていた。
エルナ自身にも、生まれつきの力があった。「黎明の星」と呼ばれる、英雄たちの輝きを磨く力である。彼女の傍らで戦った騎士の輝きは曇りを払われて強く灯り、その名は遠くまで届いた。王家が姫を宝として守り、騎士たちが彼女の無事を何より重んじたのは、そのためでもあった。
回廊で行き合うとき、エルナは彼の姿を見る前に振り返った。位置が分かるということは、そういうことだった。
「今日は、稽古場の方から来たのですね」
「分かりますか」
「足音よりも先に、こちらが知らせるのです」
姫は笑い、彼の掌の古い豆の痕を、目ざとく見つけた。近衛の騎士たちが見ていないところでだけ見せる、年相応の悪戯っぽい笑い方だった。楔は戦の道具であると同時に、二人の間では、そういう何気ない距離の近さでもあった。力を分け合うときには互いの同意が要る。その決まりを、シオンは当然のことと思っていた。相手を思う力なのだから、当然だと思っていた。
問いは、ある夕刻の執務室で発せられた。
報告を終え、退出しようとしたシオンを、ガラハッドが呼び止めた。机の向こうで書面を閉じた師は、世間話でもするような調子で切り出した。
「エルナ殿下との楔は、第2段階に至ったそうだな」
「はい。感覚の共有と、生命の感知までは。力の受け渡しは、双方の同意なくしては行いません」
「第3段階は」
「……まだ、俺の手にはありません。誓いを、条件として結びつける形になるのではないかと、感じてはいます。条件と、対価と、破ったときに課される何かとを。ですが、使ったことはありません。確かなことは、何も言えません」
「課される何か、か」
ガラハッドは頷いた。それから、ほんの少し間を置いて言った。
「合意の取れぬ相手の場合は、どうする」
シオンは、質問の意図を測りかねた。
「……おそらく、という程度の話です。力を無理に加えれば、合意のない相手へも、楔を打ち込むことはできるのではないかと、俺は思います。ですが、それが確かなことなのか、どういう形になるのかまでは、俺にも分かりません。使ったことは、ありません」
「打てるとして、どこまで縛れる」
「分かりません。……使いたいとも、思いません。楔は誓いの力です。誓ってもいない相手を縛るようなことをすれば、それはもう別のものになる気がします」
師は黙って、彼の顔を見ていた。怒っているのではなかった。叱ろうとしているのでもなかった。その目は、彼の顔ではなく、彼の内側にある何かを、値踏みするように見つめていた。
「その先は、ないのか」
シオンは、すぐには答えられなかった。
「……何かは、あるようには感じます。楔を、さらに深く、重くするような、何かが。ですが、それが何なのか、俺にも言葉にできません。使ったことも、見たこともありません」
「どれほどの力が、得られる」
「分かりません。本当に、何も」
「そうか」
ガラハッドは低く言い、視線をシオンの手へ落とした。楔形の紋のある場所へ。その紋が、段階と共に濃く育ったことを、師は知っていた。彼の視線は紋に留まり、そして、その奥にあるはずの、エルナへと繋がる結びそのものを見ようとするように、微動だにしなかった。
そのとき、シオンは初めて、違和感を覚えた。
師の目の奥にあったのは、弟子の力への関心ではなかった。父親が子の成長を確かめる目でもなかった。そこにあったのは、もっと乾いた、別の何かだった。例えるなら、錠のかかった扉の前に立つ者が、鍵の形を目で測るときの目だった。空腹の者が、まだ手の届かない食卓を眺めるときの目だった。飢え、という言葉が、シオンの頭の隅を掠めた。掠めた瞬間、彼はその言葉を、師に結び付けることを拒んだ。拒んだあまり、胸の奥に小さな棘が残るのも感じた。
「……団長。なぜ、そのようなことを」
「老いた男の、戯れの問いだ」
ガラハッドは笑った。いつもの、穏やかな師の笑い方だった。
「お前の力は、お前のものだ。大切にしろ。エルナ殿下のこともな」
その優しい言葉に、シオンは救われたように頭を下げ、室を出た。回廊の冷たい空気が、火照った頬に心地よかった。違和感は、歩くうちに薄れていった。師を疑うなどということは、彼の身に沁み付いた歳月の前では、あまりにも非力だったのだ。
中層の窪みで、シオンは目を開けた。
水の滴る音が、規則正しく返ってくる。彼は暗闇の中で自分の手を見た。そこにある楔形の紋は、今はもう、どこにも繋がってはいなかった。
あの夜の問いを、今なら彼は解釈できる。あれは好奇心ではなかった。師はあのとき既に、測っていたのだ。合意なしに人を縛る方法を。誓いを積み重ねて力に変える方法を。奪うことと、結ぶことの、境の在り処を。騎士王になれなかった男が、通り過ぎていく輝きを横目に、別の扉の鍵穴を、弟子の力の中に探していたのだ。
シオンはゆっくりと身を起こし、傍らの剣に手を伸ばした。
あの目の奥にいた飢えが、その後、何を喰らい、今はこの地の底のどこで何を狙っているのか。その答えを知る者は、もう王国にはいない。知ろうとするなら、追うしかなかった。紋の残る手で柄を握り締め、彼は闇の向こうの通路を見つめた。




