#第41話「楔の勇者」
中層の朝は、下層よりも明るかった。
擂鉢状に傾ぐ地形の中ほどに刻まれたこの階層は、岩壁に沿って住まいと店が連なり、細い路のあちこちで、原住種の店の目印の布が揺れていた。下層から上がってきたばかりの頃、シオンはその明るさに戸惑った。陽の光そのものが届くわけではない。だが、行き交う人の足取りにも、素材を並べる店主の声にも、下層に満ちていた張り詰めた気配が、ここでは薄かった。それでも手首の枷の冷たさは変わらなかった。腕輪はここでも彼の力を浅く沈め、夜が更ける頃には、取り立てを受けた身の重さが、肩の奥に鈍く残った。
中層に着いてからの彼の日々は、尋ね歩くことの繰り返しだった。原住種の店で師の名を出し、宿場の帳面を預かる者に昔の住人を問いただし、路の角で足を止めては、騎士の長剣を携えた壮年の男の姿を見かけなかったかと行き交う者に声をかけた。答えは、いつも似ていた。知らない。覚えがない。あるいは、ずっと前のことなら、という前置きの末に、曖昧な方向を指すだけだった。それでも彼は歩いた。剣の腕だけでは届かない追跡こそが、この監獄で彼に残された唯一の道だったからだ。
その朝、シオンは三軒目の訪ね先の前に立っていた。
かつて師が身を置いたという、宿場外れの住まいだった。扉は半ば開き、中からは古い革と油の匂いがした。出てきたのは、この建物を預かるという老人で、シオンが来意を告げると、老人は首を傾げ、記憶の糸を手繰るように目を細めた。
「ああ、あの騎士様かい。もういないよ」
「いつ頃まで、ここにいたか分かりますか」
「さあね。わしがここを引き継いだ時には、荷はとっくに片付いていた。部屋も、次に使う者のために掃除されていたよ」
老人は、騎士様と呼ぶその男が、物静かで、荷の少ない暮らしをしていたと付け加えた。朝には早くから出かけ、戻るのは遅く、誰を連れてくることもなかったという。だが、その話のどこまでが自分の目で見たことなのかと問えば、老人は困ったように笑い、前任者から聞いた話が混じっているかもしれん、と頭を掻いた。伝聞の伝聞。手がかりとは、監獄の中ではそういう形でしか残らないものらしかった。
礼を言って中を見せてもらうと、部屋は狭く、窓も小さかった。壁には剣を掛けた跡らしい、色の違う四角い染みが一つ残るだけで、誰が暮らしていたのかを語るものは何もなかった。床板の隙間に落ちた小さな布切れを拾い上げても、それは住人のものか、掃除の者の落とし物かすら分からなかった。シオンは壁の染みにしばらく手を当てていた。師の剣が、かつてここにあった。それだけが確かで、それ以外は何も残っていなかった。
昼までに、彼は残りの手がかりも当たってみた。
師の剣の手入れを請け負ったという鍛冶の男は、店そのものが代替わりしていた。若い店主は、親父からそんな話は聞いていないと首を振った。師と酒を酌み交わしたという元兵の男の住まいは、既に別の者の名で帳面に載っていた。辛うじて繋がった古い顔見知りも、答えは同じだった。もういない。下へ行ったらしい。誰もがそう言い、誰もがそれ以上のことは知らなかった。下へ、とはどちらの路を指すのか、いつ頃のことなのかと重ねて問えば、返るのは曖昧な笑みと、首を振る仕草ばかりだった。
シオンは、追っているのが人ではなく、人の影なのではないかと思うことがあった。
中層へ上がってから、もう何日も経っていた。下層で近衛師団長殺しの罪を被り、この監獄へ落ちてきたとき、彼は師が中層にいると信じていた。裁きの記録に残る投獄先が中層だったからだ。だが、記録は落ちてきた日のことしか語らない。落ちた者が、その後どこへ移り、どの路を辿ったのかまでは、帳面の外の話だった。手がかりはどれも古く、訪ねる先々で、彼は同じ言葉を聞かされ続けた。もういない。その三つの響きだけが、中層のどこへ行っても、彼の後についてきた。
シオンが師と初めて会ったのは、まだ十に届かない頃のことだった。
父の顔を、彼は知らない。物心ついたときから家には父の席がなく、周りの大人たちは、そのことに触れようとしなかった。王国の辺境の小さな村で、彼は木の枝を剣に見立て、村外れの空き地で一人、型とも呼べない振り方を繰り返していた。誰に教わったわけでもない。ただ、騎士というものへの憧れだけが、枝を持つ手に力を込めさせていた。
その日、巡回に来た騎士団が村に立ち寄った。
馬を降りた男は、空き地の端に立って、しばらく彼の素振りを見ていた。端正な顔立ちの、まだ白髪のない壮年の騎士だった。男は笑いもせず、馬鹿にもせず、ただ静かに見ていた。そして近づくと、枝を持つ彼の手を取り、握り方を直した。
「剣は、力で振るものではない。まず、落とさない持ち方を覚えろ」
大きな手だった。枝ごと彼の小さな手を包み込むような、温かい手だった。その後、男は村の長に何事か話し、夕刻、村を発つ騎士団の列の末尾に、彼の姿があった。荷馬車の隅に揺られながら、彼は何度も、握りを直された右手を見つめた。父というものを知らない彼にとって、その大きな手の感触は、長く胸の奥に残るものとなった。師ガラハッド。後に騎士団長となるその男を父のように慕う日々は、あの空き地の午後から始まっていた。
王城に身を置くようになってからも、その手は何度も彼の前に差し出された。型の崩れを正すとき、熱を出して寝込んだ彼の額に触れるとき、初めて実戦に臨む彼の肩を、行け、と叩くとき。厳しい稽古の最中でも、その手が彼を見捨てることは一度もなかった。父がいないという事実は、彼の生の欠けだったはずだった。だが、その欠けを埋めるようにして、師の手はいつも彼の届く場所にあった。彼が真っ直ぐに育ったのだと人は言った。その真っ直ぐさの半分は、師の手に引かれて形作られたものだった。
夜、借りた住まいの窪みで、シオンは自分の内に残る楔の気配を確かめるのが常だった。
手の甲と胸に残る、楔形の紋。誓いの言葉と共に光の楔を打ち込んだ場所には、段階の深さに応じて濃く大きくなる痣が残る。彼は目を閉じ、結びつきの糸を一つずつ辿った。王国で共に剣を振るった仲間の一人は、今も遠く外の地にいるのだろう、かすかな引きが返ってきた。別の紋からは、方向だけが静かに伝わってきた。生きて、どこかにいる。そのことだけは、距離を越えて確かめられた。楔とは、そういう力だった。離れていても、結んだ相手の居場所だけは、闇の中の小さな灯のように感じ取れる。
紋の中には、一つだけ、彼が進んで触れないものもあった。初めて打った楔の名残だった。その紋に意識を向けるたび、あの晴れた中庭の光と、後に訪れた夜の出来事とが、重なって胸を締めつけた。今の彼には、その静けさを確かめる勇気だけが、まだ足りなかった。
だが、その灯の中に、師はいなかった。
シオンは、ガラハッドに楔を打ったことがなかった。少年だった彼にとって、師は守られる側ではなく、守る側の象徴だった。楔を打つという考えそのものが、当時の彼には思いも寄らなかった。やがて彼が勇者と呼ばれるようになり、楔の力を戦いに使うようになっても、師への結びつきを作る機会は巡ってこなかった。師は常に彼の少し前にいて、振り返ればそこにいる存在だったからだ。居場所を確かめる必要など、あるはずがなかった。
その油断が、今の彼をこの窪みに座らせていた。
楔で位置を感じられる相手は、幾人もいる。だというのに、最も知りたい相手の居場所だけが分からない。彼は胸の紋に掌を当て、返事のない静けさを確かめた。紋はそこにある。だが、その先に師はいない。結ばなかったという、たったそれだけのことが、監獄という底なしの地の底で、これほど重くのしかかってくるとは思ってもみなかった。
胸の紋に触れていると、初めて楔を打った日のことが、自然と思い出された。
初めて楔を打った相手は、姫エルナだった。
王城の中庭は、よく晴れた日の光に満ちていた。シオンはその頃、勇者の卵として王家に仕え始めたばかりで、楔の力はまだ粗く、扱いは手探りだった。それでも姫は、彼の申し出を笑って受け入れてくれた。王家の姫を守るための結びつきを、と固くなって差し出した右手を、彼女は面白がるように見つめていた。
「では、誓ってちょうだい。私を見失わない、と」
彼は頷き、誓いの言葉を口にした。光の楔が、彼女の手の甲と、彼自身の手の甲に、そっと沈んだ。残った紋は小さく、色も薄かった。第1段階。お互いの位置が分かるだけの、浅い結びつき。それ以上でも、それ以下でもなかった。
だが、その浅さが、二人には十分に新鮮だった。
試しに、と姫は中庭の柱の陰に隠れた。目を閉じた彼の中で、小さな灯が柱の向こうへ移る気配がした。こっち、と彼が指を差すと、陰から彼女の笑い声が弾けた。次は回廊の奥、次は植え込みの向こう。子どもの遊びのような試し合いが、午後の光の中で何度も繰り返された。離れていても、どこにいるかが分かる。それは当時の彼らにとって、世界が一本の糸で繋がったように感じられる、希望に満ちた力だった。
別れ際、姫は自分の手の甲の紋を陽に透かすように眺め、満足そうに頷いた。
「これで、私はどこにいても、あんたに見つけてもらえるのね」
「はい。必ず見つけます」
「約束よ」
彼女の笑顔には、曇りがなかった。王家の姫として生まれ、守られることの窮屈さを知る彼女にとって、その薄い紋は、縛るものではなく、繋がるものとして映っていたのだろう。シオンもまた、同じ気持ちだった。守るべき人が、どこにいるか分かる。それだけで、彼の胸の中の世界は、それまでよりもずっと確かなものに思えた。あの日の光の中で交わされた約束は、疑う理由のない、明るい未来へ向けて結ばれたものだった。
その紋が歳月をかけて深まり、やがて感覚までを共有する結びつきになるとは、あの日の二人には知る由もなかった。
翌日、市場の外れで、シオンは一台の荷車の前に足を止めた。
原住種の店が並ぶ一角の、さらに端。旅の行商人の荷車らしく、素材も薬草も、得体の知れない小物も、無造作に並べられていた。車の脇に立つ男は長命種で、親しみやすい顔に人懐こい笑みを浮かべ、品を手に取る客の相手をしていた。シオンが近づくと、男は客でもない彼の方へ、真っ先に顔を向けた。
「勇者様。探し物は、見つかりましたか」
シオンは足を止めた。この男に、探し物の話をした覚えはなかった。市場で師の行方を尋ねて回ったことはある。だが、その尋ね方を聞いていた者がいたとして、勇者様、と声をかける距離感は近すぎた。男は彼の警戒に気づいている様子で、それでも笑みを崩さなかった。
「サテラザール。行商と、ついでに耳寄りな話を売る者です。あなたが誰を探して、中層を何日も歩き回っているかは、この辺りでは、もう小さな噂になっていましてね」
「……師の行方を知っているのか」
「知っているとも、知らないとも、言えますね」
男は荷車の小物を弄びながら、軽い調子で続けた。
「その騎士なら、もう中層にはいません。それだけは確かです。あなたが今のやり方でこの階層を歩いても、会えることはありませんよ」
言い切る声には、噂を売る者の曖昧さがなかった。中層にはいない。その事実だけを、男ははっきりと置いた。だが、それ以上は語らなかった。どこへ行ったのか、いつ発ったのか。シオンが重ねて問うても、男は笑って肩をすくめ、別の品の値付けを始める素振りを見せた。それ以上は、品物は並べない、という態度だった。
「どこへ行ったのかは、言えないのか」
「言えないのではありません。値が釣り合わない、ということですよ、勇者様」
男は指先で小物を転がしながら、楽しそうに目を細めた。
「行く先まで知りたければ、それなりのものを用意していただく必要があります。ですがね、あなたは今、何をお持ちです。配給券の束ですか。それとも、誰かの借りの証文ですか。……まあ、焦らなくて結構です。監獄の中で、本当に必要なものは、いつも後から値が決まるものですから」
その言い方は、親切の形をしていた。だが、値の決まらない取引ほど恐ろしいものはないことを、シオンは下層での日々で学んでいた。男の笑みは、それを知った上でなお、急かす必要はないのだと言っていた。急かさないこと自体が、この情報屋の商いの手管なのだと、彼には薄々分かった。
「代金は」
「後払いで結構です」
男は即座に答えた。
「今は受け取りません。あなたが本当に必要になったときに、頂くことにします」
笑顔は最後まで軽かった。代金を先に決めない商いは、監獄の中では珍しい。配給券にせよ、素材にせよ、取引の値は先に決まるものだった。後払い、という言葉だけが彼の手元に残り、それがどれほどの重さを持つのかは、男の笑みの向こうに隠れて見えなかった。断る理由もなかった。得た情報は、中層の訪ね先を何軒も回った末に、彼自身も薄々悟りかけていたことと重なっていたからだ。
シオンは礼を言い、その場を離れた。
背後で、行商人の軽い呼び込みの声が、市場のざわめきに戻っていった。彼は歩きながら、胸の紋に一度だけ触れた。師はいない。中層のどこにも、師はいない。その事実の重さは、確かめる術を持たない彼にとって、噂よりもずっと静かに、ずっと確かに胸に沈んだ。そしてもう一つ、代金という名の、まだ形のない借りが、彼の歩く先に残されていた。




