# 第40話「落ちた者の行方」
配給倉の戦いから三日、下層の朝は、以前と同じ顔をして始まるようになった。
倉の扉は開き、原住種の番人が帳面を開き、配給券を差し出す手に、量られた食料が渡された。市場の露店は並び、素材の値付けの声が飛び交った。だが、同じ顔は、表面だけだった。積み替え場には赤い腕章の見張りが立ち、倉へ入る荷は、まず兵団の検めを受けた。守備側の若者たちも倉の周りに残り、両者の間では、一日に何度も、荷の順番や検めの範囲を巡る言い争いが起きた。言い争いは剣にはならなかった。それだけが、三日前と繋がった細い糸だった。
配給の量も、静かに変わっていた。券一枚で受け取れる穀物は、以前より一握り少なく、干し肉は薄くなった。散った穀物と、止まった便と、遅れた仕分けの代償は、帳面の上では小さな数字でも、住人の椀の中でははっきりと目に見えた。列の後ろでは、受け取れずに翌日へ回された老人が、番人に何度も頭を下げていた。番人は困った顔で帳面を示し、自分の決めた量ではないことを、言葉少なに繰り返した。誰かを責めても、椀は満たされなかった。
縄張りの印も、目に見えて増えていた。通路の角の柱には、赤い布切れが結ばれ、その先は兵団の見張りの持ち場だと誰もが悟るようになっていた。反対に、倉から市場へ続く道では、三本牙寄りの若者たちが代わる代わる立ち、荷を運ぶ原住種の車が通るたびに、検めの順番を巡って声を荒らげた。住人たちは、どちらの前でも足を止め、どちらの機嫌も損ねないよう、小さく頭を下げて通るようになった。旗のない場所で暮らす者ほど、旗の色の変化に敏感にならざるを得なかった。店の主たちも、素材の値札を書き換える回数が増えた。便が遅れれば値は上がり、検めで揉めれば、翌日の品は読めなくなるからだった。
レイヴァスは、治療所の帰りに、その列の端を通り過ぎた。肋の打ち身は、イリスの光で和らいだものの、深く息を吸えばまだ重く、左腕には盾の重さに耐えた痺れが残っていた。戦いの代償は、三日では消えなかった。彼は列の老人を見て、倉を守ったという言葉の軽さを知った。扉は守れた。だが、腹の底まで守れたわけではなかった。
「顔に出てるぞ」
荷車の影から、ガルフが声をかけた。狼族の勇者は、耳の切り傷に布を当て、短槍を背に負っていた。ここ数日、彼は倉の周りを離れなかった。勧誘を断った男が、どちらの旗にも属さず倉の周りをうろつくことは、両側にとって面白くないはずだった。現に、兵団の見張りは彼の姿を目で追い、三本牙寄りの若者たちは、彼が声をかければ助かるのにと、遠くで囁いた。断られたままでは済まない空気は、戦いの後、薄まるどころか濃くなっていた。
「どっちの旗にも下らねえ男が、倉の真ん中に立ってると、両方から睨まれる。笑える話だ」
「倉のためだ。旗のためじゃない」
「お前と俺はそう思ってる。だが、旗を掲げる奴らには、そうは見えねえんだよ」
ガルフは鼻を鳴らし、深い通路の方角へ耳を向けた。その仕草に、レイヴァスも足を止めた。最近、下層のあちこちで、同じ噂が囁かれていた。深い通路の方角で、落ちた槍使いを見たという話だった。
噂の出どころは、採取帰りの男たちだった。深い通路の入り口付近で、月明かりもない闇の中を、考えられない速さで過ぎる影を見たという。槍を背負うでもなく、手に引きずるように持ち、片脚を引きずりながらも、その速さは獣のようだったという者もいれば、いや、速いのではなく、止まらなかったのだと、言い方を変える者もいた。顔を見た者はいなかった。声をかけた者は、返事の代わりに、喉の奥から絞り出すような、言葉にならない音を聞いたという。
別の話もあった。深い通路に近い水場で働く女が、夜の番の交代の折、通路の奥から地を擦る音を聞いたという。槍の穂先が岩を引くような、一定の間隔の音だった。その女は初め、怪我をした採取の者が戻ってきたのだと思い、明かりを掲げて名を呼んだ。明かりを掲げた途端、音が止まり、闇の中の何かが、光に惹かれるように明かりの方へにじり寄る気配がしたという。女が怖くなって明かりを引くと、気配も止まり、やがて遠ざかるでもなく、一段深い闇の方へ移っていったという。明かりの届く範囲に、人は最後まで現れなかった。女はその話をするとき、何度も自分の腕をさすった。寒くもないのに、鳥肌が消えなかったのだと言った。市場では、話が尾を付けて広がっていた。槍使いは明かりを持つ者に手を伸ばしたのだ、いや、深い場所の獣を従えているのだ、と。確かめようのない噂ほど、人の不安をよく映した。
「セリオスだと思うか」
レイヴァスの問いに、ガルフはすぐに答えなかった。狼の耳が、僅かに伏せられた。
「匂いは、もう嗅いだことがねえ。だが、あの男の動きは見た。槍の穂先を地に近づけ、体を低くして走る癖があった。……噂の走り方は、それと似てる」
「死んでいない、ということだな」
「深くへ向かってる、ってことだ。生きてるって呼べるかどうかは、俺には分からねえ」
深くへ。レイヴァスは、その言葉を胸の中で繰り返した。取り立てに抗えなくなり、輝きを失った者は、導かれるように奈落へ進むのだと言われていた。逃げるなら、上へ、人の多い場所へ逃げるはずだった。だが、セリオスは戦いの末に深い通路へ消え、噂の中では今もなお、奈落へ惹かれて降りていくように、その先へ進み続けているという。そして、失った光を羨み、光を持つ者を妬み、その光を奪おうとする存在になったのだと、噂は重ねて囁いた。どこまでが確かなことかは、誰にも分からなかった。
そのとき、彼の記憶の底で、古い光景が静かに重なった。以前、深い通路の採取行で訪れた、黒い結晶の広間。倒れた結晶の柱の根元にあった、獣の爪痕にしては深く、規則正しく並んだ削り跡。何かが、長い年月をかけて、あの広間から奥へ通おうとしたような跡だった。そして、帰り道に足下の岩を通して伝わってきた、あの僅かな震え。深い場所から届いた、名づけようのない気配。
あの跡も、こうして生まれたのかもしれない。堕ちた者が、年月の単位で、奥へ、奥へと通い続け、岩にその痕跡を刻んだのだとしたら。だが、それは推測に過ぎなかった。削り跡を刻んだ者が誰なのか、セリオスと同じ末路を辿った者なのか、確かめる術はなかった。彼は推測を、推測のまま胸に仕舞った。確かなことは、何もなかった。ただ、セリオスの噂が今も深い方角から届くことだけが残った。その行く先が噂の通りなら、レイヴァス自身が向かおうとする深さと、同じ方角を向いていた。
「考え込むと、匂いが曇るぞ」
ガルフが言った。
「……ああ。分かっている」
「お前の路の話だ。ドーランの便は、どうなった」
レイヴァスは、積み替え場の方を見た。赤い腕章の見張りと、守備側の若者が、荷車の前でまた言い争いを始めていた。便は再開されていたが、以前より検めが増え、出発は半日遅れるのが常になっていた。深層の入り口までの道案内という約束は、まだ生きていた。だが、路が二つの旗の間に挟まれた今、便に混じることは、前より遥かに目立つ行いになった。誰の許しで、誰の検めを受けて潜るのか。その一つひとつが、旗同士の力関係に触れる。
「止まったままでは、いられない。路が生きているうちに、動かなければならない」
「五日の約束は、とっくに過ぎたな」
「ああ。だが、過ぎたから終わりでもない。条件を作り直す。ドーランにもう一度会い、兵団の検めの範囲で、どこまでが便の自由に残されているか、確かめる」
「戻りの段取りも、作り直しだな」
ガルフが言った。
「前は、俺が入り口で刻限を数える話だった。今は、便が半日遅れるのが当たり前だ。四十八時間の数え方も、検めの時間を含めて考えねえと、お前が戻る前に、こっちが迎えに出る羽目になる」
「ああ。イリスにも、香の渡し方を相談し直す。……巻き込むばかりで、済まないと思っている」
「済まないと思うなら、死ぬな。それで帳消しだ」
ぶっきらぼうな言葉だったが、その奥には、三日前の戦場で共に立った者同士の、短い信頼があった。ガルフは倉の方を顎で示した。
「俺も、長くはあの真ん中にいられねえかもしれねえ。どっちかの旗が、本気で踏み込んで来たら、そのときはそのときだ。だが、お前の便が出るまでは、倉の周りで目を光らせておく。それが、今の俺にできる、旗の下らねえ手助けだ」
それは、決意というより、現実の確認だった。計画は机の上の線ではなくなっていた。倉の戦いを経て、線は旗と剣と椀の中身に絡み合い、放っておけば、ほどけるのではなく千切れる。千切れる前に、手を入れなければならなかった。
その日の夕刻、住まいの窪みの前で、レイヴァスは見覚えのある姿を見た。
帳面を小脇に抱えた、印象に残らない顔の男だった。記録屋だった。男は倉の戦いの間も、その後も、広間の隅や市場の影に静かに立っては、帳面に何事かを書き留めていた。今も彼は、窪みの近くの壁際に立ち、行き交う住人や、遠くの積み替え場の様子を眺めながら、短い筆を動かしていた。その視線が、ふとレイヴァスへ向いた。一瞬だった。だが、その一瞬に、ただの傍観者ではない、値踏みするような静けさがあった気がして、レイヴァスの背に薄い寒さが走った。
「……記録屋」
声をかけると、男は穏やかに頭を下げた。
「倉の戦いの折も、ご無事で何よりでした。通路を塞いだ場面は、帳面にも記してあります。旗の下でも、兵団の側でもない戦い方は、後々まで語られるかもしれませんね」
「語られるほどのことじゃない。あの場にいただけだ」
「いただけ、というのが一番記しにくいのですよ。……深い通路の噂も、耳に入りました。落ちた槍使いの行方。人は、行方の分からない者を、放っておけないものです」
男はそれだけ言って、帳面を閉じ、夕刻の市場へ紛れた。足音も、気配も、残らなかった。レイヴァスはしばらく、その消えた方角を見つめていた。妙に詳しく、妙に静かな男だった。彼が何のために記し、記したものをどこへ届けるのかは、誰も知らなかった。ただ、その帳面の中に、自分の名がまた一行増えたことだけは、確かだった。
夜になって、最後の報せが届いた。
窪みの入り口を叩いたのは、穏やかな笑みを浮かべた情報屋だった。サテラザール。長命種の男は、小さな包みを脇に置き、いつもの丁寧な口調で頭を下げた。
「戦いの後始末で、倉の検めが厳しくなったと聞きました。ドーランの件、少しだけ進展がありますよ。ですがその前に、無料とは言いにくい報せを、一つ」
「聞こう」
「中層の話です。最近、中層に落とされた若い勇者がいるそうでしてね。若いのに、落ち着いた剣を持つ男だとか。その落とされ方が、少し変わっているのです。本人の罪というより、師と仰いだ男を追って、自ら罪を被る形で投獄された、という噂でして」
レイヴァスの指が、僅かに動いた。師を追って、自ら投獄される。それは、この監獄では異様な落とされ方だった。普通、人は落とされることに抗う。だが、自ら落ちてまで追う者がいるということは、追われる側の男もまた、監獄のどこかで深く潜り続けているということだった。
「その勇者は、今どこに」
「噂では、師はもっと深くにいると聞いて、階層を間違えたとか、行き違ったとか。断片ばかりで、確かな居場所は分かりません。名前も、確かなものは伝わってきていません。ただ――」
サテラザールは、笑みを保ったまま、声を少しだけ落とした。
「その話を聞いたとき、あなたの顔が浮かんだのです。託されたものを追って、深くへ行こうとしている方が、ここにも一人いると。……もちろん、ただの噂話ですよ。値段を付けるには、まだ薄い」
「ありがたい。薄くても、ないよりはいい」
「では、ドーランの件を。便の検めは、兵団と原住種の立ち合いで行う形に落ち着きそうです。護衛の人数は減りますが、路そのものは塞がれません。返事の期限は、三日延びました」
三日。それは短いが、ないよりは遥かにましな猶予だった。レイヴァスは頷き、サテラザールの穏やかな笑みの奥を窺ったが、男の表情からは、それ以上の何も読み取れなかった。報せを届ける者の顔、そのものだった。
サテラザールが去った後、レイヴァスは一人、岩の上に持ち物を並べた。剣と盾。腕輪は二つ。刻み香は四本。薬草の包み。そして、倉の戦いの後で書き直した、潜行の段取りの覚え書き。以前に並べたときと品は変わらなかったが、その意味は変わっていた。路は旗に挟まれ、深い通路では落ちた槍使いの噂が今も絶えず、中層には師を追う若い勇者がいるという。監獄は、彼一人の計画など待ってはくれず、あらゆる方角で動き続けていた。
彼は託けの腕輪を手に取った。冷たい金属は、手の熱で僅かに温まった。この輪を託した男は、最深部への用を残して消えた。その行方も、託けの先にあるものも、まだ何も分かってはいなかった。だが、分からないことは、止まる理由にはならなかった。むしろ、倉が戦場になり、路が細り、噂が深さへ人を誘う今だからこそ、止まったままでは、計画も、託けも、静かに埋もれていく。
「三日のうちに、返事を出す」
彼は、誰にともなく言った。ドーランへ。イリスとガルフへ。そして、自分自身へ。次に便が出るとき、彼はその列の中にいる。その先で何が待つかは分からない。落ちた者の痕跡か、師を追う者の背中か、それとも、まだ名も知らない深さの闇か。だが、一歩を踏み出さなければ、どれにも辿り着けない。
遠くで、倉の見張りの交代を知らせる声がした。新しい日常の音だった。レイヴァスは明かりを落とし、闇の中で目を閉じた。眠りの向こうで、深い通路の削り跡と、槍を引きずる影とが、静かに重なって見えた気がした。彼はそれを振り払わず、抱えたまま、浅い眠りへ落ちていった。




