# 第39話「配給倉の戦い」
配給倉の鐘が鳴ったのは、まだ市場に朝の明かりが届く前だった。
普段の鐘は、配給の始まりを知らせるために三つ打たれる。だが、その朝の音は違った。短く、乱れ、途中で止まり、また打ち直される。警報だった。レイヴァスは住まいの窪みで目を覚まし、隣で耳を立てたガルフの姿を見た。銀灰の髪の勇者は、すでに身を起こしていた。狼の耳が倉のある方角へ向き、鼻が何度も空気を確かめた。
「鉄と油と、焦げた布の匂いだ。汗もだ」
「何人だ」
「分からねえ。だが少ねえ数じゃねえ。整列してやがる。慌てた匂いがしねえ」
無法者の群れではない。隊列を組んで来た者たちの匂いだった。レイヴァスは盾の革紐を腕に通し、厚刃の剣を腰に差した。肋の古い打ち身はまだ重く、息を深く吸うたびに鈍く響いた。それでも、配給倉が危ないと知って寝ていられる理由はなかった。
倉は下層の周縁、擂鉢の壁に沿って掘り込まれた大きな広間だった。深層から運び上げられた食料がここへ集められ、原住種の手で仕分けされ、配給券と引き換えに住人へ渡される。下層の腹を満たす心臓であり、深層への供給便が荷を積み替える喉元でもあった。ドーランの便も、この倉の脇を通る。倉が戦場になれば、便は止まる。便が止まれば、路そのものが死ぬ。
広間へ続く通路は、すでに人で塞がれていた。配給を待つはずの住人たちが荷籠を抱えて壁際に寄り、子どもを後ろへ隠していた。倉の扉の前では、原住種の番人たちが困惑した顔で立ち尽くしていた。戦うための体を持たない彼らの務めは、帳面と鍵と秤を守ることだけだった。その彼らを背に、三本牙寄りの守備の者たちが槍と棍を構えていた。数は多くなかった。駆け付けた有志と、倉の警護を担う獣人たちが主だった。
対する側は、通路の反対を静かに埋めていた。
赤い腕章。赫の兵団だった。鬼人、獣人、魔族、竜人、ドワーフが混じる隊列は、種族も背丈もばらばらでありながら、一歩の乱れもなく並んでいた。人族と巨人族の姿は、その中になかった。前列は大盾を構え、後列は槍を揃え、積み替え場の荷車をすでに半ば押さえていた。奪いに来たというより、受け取りに来たと言わんばかりの整然さだった。
隊列の中央に、ひときわ大きな影があった。身の丈は二間を超え、穏やかな顔立ちに似合わぬ大きな戦斧を肩に担いでいた。バラキエ。赫の兵団の副団長だった。男は倉の扉と守備の列とを順に眺め、やがてよく通る、しかし静かな声で言った。
「倉の中身に、手は付けない。食料は焼かない、奪わない。原住種にも手を出すなと、固く言い含めてある。……だが、今日からこの倉の仕切りは、兵団が預かる。配給の順番も、積み替えの割り当てもだ。それが、団長オーガストの決めたことだ」
「預かるだと」
守備側の獣人の男が、唸るように言った。
「三本牙の許しも、大同の合意もねえ話だ。力で来りゃ、それは奪うと呼ぶんだよ」
「奪われたくないなら、今の配給が正しく回っていると、胸を張って言えるか」
バラキエの問いは、静かだった。
「先の騒ぎ以来、便は遅れ、倉の前には列が伸び、券を持っていても受け取れない者が出ている。元締め同士の言い分争いで、腹を空かせるのは住人だ。俺たちは、回すために来た」
だが、それだけではないことは、バラキエの次の言葉で明らかになった。
「そして、見せてもらう。ここはヴォルフの名で守られてきた倉だ。今日、兵団がこの前で仕切りを奪えば、獅子の牙は折れたと、下層中に知れるだろう。守るというなら、名のある者から前に出ろ。倉の陰に隠れて若い者を立たせるようでは、ヴォルフの威厳も、ここまでだ」
守備側の獣人の顔が、険しくなった。
「ヴォルフの名を、軽く口にするな」
「軽くはない。だからこそ、ここへ来た。オーガストは言った。倉ひとつ奪うより、守る者の名をここで落とす方が、戦いは短くなるとな」
厄介な襲撃だった。回すという名目に加え、相手の名誉を直接削りに来ている。名を落とされれば、次に倉へ集まる守備は減り、獅子の号令に従う者も減る。レイヴァスは、壁際の住人の視線の揺れを見て、戦いが始まる前から勝敗の半分が決まりかねないことを知った。
そのとき、通路の奥から、よく通る女の声が響いた。
「ならば、旗の下で話そう。力で仕切りを替える日に、正しい配給など生まれない」
大旗だった。長い竿の先に、愚者の大同の印を染めた布が翻り、通路の重い空気を割るように進んできた。旗を掲げるのは、長身の女性だった。フィオナ・ハートランド。年齢は三十四。片手には旗竿、もう一方の手には片手剣を提げていた。彼女は守備側の前に立つのではなく、住人と両軍の間へ、半ば身を差し入れるように立った。
「倉は、誰のものでもない。下層で暮らす、全ての者の命の綱だ。仕切りを替えるなら、原住種と、住人と、便を担う者たちの前で決めるべきだ。今日ここで剣を交えれば、明日の配給は誰の手でも回らなくなる」
バラキエは、旗を見上げて目を細めた。
「大旗の勇者。……話し合いの席なら、俺たちも何度も求めた。返事はなかった。待つ間に、便は三度止まった」
「それでも、今日ではない。せめて住人を下がらせてからに――」
言葉は、最後まで続かなかった。
兵団の後列で、何かが倒れる音がした。積み替え場の荷車が軋み、積まれた穀物袋が崩れ、守備側の若い獣人が、反射のように槍を投げた。狙いを外れた槍は、大盾に当たって跳ね、石畳に甲高い音を立てた。その一音が、堰を切った。怒声が重なり、盾がぶつかり、広間は一瞬で戦場になった。
レイヴァスは、旗の側へ走った。派閥の味方としてではない。彼が守るべきものは、扉の向こうの食料と、壁際に寄せられた住人たちと、原住種の番人たちだった。兵団の二人が、まっすぐフィオナへ向かっていた。大旗の勇者をここで倒せば、守備の心が折れ、愚者の大同の顔にも泥が塗れる。その狙いを読んで、彼は二人の進路へ割り込んだ。流れてきた棍を盾で受け、腕に走る衝撃と肋の痛みを堪えながら、相手の重心が前に乗り切る一瞬を待った。棍を持つ腕の流れが止まったところへ足を差し入れ、腕を取り、自分の体重を預けて相手の体を斜めへ崩す。相手が顎を上げたところへ、厚刃の剣の柄を短く打ち込んだ。男は声もなく崩れ落ちた。殺すための一撃ではなかった。戦える力を、その場で奪うための一撃だった。
「扉から離れるな。住人は広間の隅へ。子どもは柱の影だ」
フィオナの声が、戦いの騒ぎを貫いた。彼女は旗竿を地面に突き立て、大旗を高く掲げた。布がはためくたび、ちぐはぐだった守備側の足並みが揃い始めた。寄せ集めの列が、旗を中心に一つの壁へ変わっていく。彼女の力は、剣の冴えではなかった。旗の下に立つ者の背を押し、竦む足をもう一歩前に出させる力だった。
「旗を倒すな。旗のあるところが、今日の砦だ」
フィオナ自身も剣を振るった。片手剣で兵団の槍の穂先を払い、旗竿で相手の盾を押し、隙間に声を差し込んで味方の位置を直し続けた。前線に立ちながら、全体を見ている。長身の体は戦場でよく目立ち、狙われやすくもあるはずだったが、彼女は一歩も引かなかった。
ガルフは左の側面を駆けていた。短槍で兵団の獣人の進路を切り、牙を見せて威嚇し、倒れた住人を後ろへ引きずり出した。嗅覚の鋭い男は、戦場でも匂いで動きを読んだ。
「レイヴァス、右だ。竜人が二人、積み替え場から回り込む」
レイヴァスは盾を右へ向けた。鱗に覆われた腕が盾を掴み、引き剥がそうとする。彼は逆らわず、引く力の流れに身を預け、相手が引き切って重心を後ろへ残したところへ踏み込んだ。鱗の上へ剣を滑らせるのは無駄だった。狙うべきは、鱗のない場所だった。盾を掴む腕の関節を自分の腕で絡め取り、体重をかけて肘を極めながら、剣の柄で顎の下を打ち上げた。竜人の頭が跳ね上がり、掴む力が緩んだ。だが、それでも相手は倒れなかった。鱗は顎への打撃の角度さえ狂わせ、厚い首の筋肉が衝撃を受け止めていた。相性が悪かった。相手が絡められた腕を力任せに振りほどこうとし、レイヴァスの肋に鋭い痛みが走った。最後はガルフの短槍が横から入って、ようやく間合いが開いた。
「助かった」
「礼は後だ。……お前の剣は、鱗には分が悪りぃ。次は俺に回せ」
戦いは、倉の扉を中心に押し合いになった。兵団は盾の壁を保ち、負傷者を後列へ下げ、少しずつ積み替え場の占める範囲を広げていった。守備側は旗の下で粘ったが、数の差は埋め難かった。やがて、扉の左翼、副倉へ続く横通路が破られかけた。副倉には、便の予備の食料と深層向けの荷が積まれていた。あれを押さえられれば、倉の本体が残っても、供給の半分は兵団の手に落ちる。
レイヴァスが横通路へ駆けたとき、通路の幅いっぱいに、大きな影が立ち塞がった。
バラキエだった。副団長自らが、決め手の場所へ立っていた。
「剣聖殺し」
男は、蔑むでもなく、名を確かめるように言った。
「お前は兵団の敵ではないはずだ。人族のお前を、俺たちは迎えもしないが、倉の前で会うとも思わなかった」
「派閥のために立っているんじゃない。倉が焼け、番人が傷つけば、明日から飢えるのは、旗の下の者だけじゃない。あんたたちの兵も同じだ」
「だからこそ、回す。……退け。ここを通せば、戦いは早く終わる」
「通路の先は、番人たちの詰所だ。あんたが手を出すなと言っても、押し合いの先で何が起きるか、あんたにも言い切れないだろう」
バラキエは、僅かに目を伏せた。それが答えだった。次の瞬間、戦斧が唸りを上げて振り下ろされた。
斧の一撃は、盾の面を大きく凹ませるかと思うほどの重さだった。レイヴァスは膝を沈め、衝撃を地面へ逃がしたが、逃がし切れなかった分が肋へ響き、視界の端が白んだ。二撃目は横から来た。彼は厚刃の剣で受け、斧の刃と剣の腹が火花を散らした。厚い刃は折れなかったが、腕の痺れは肩まで達した。正面から力比べをすれば、彼は長く持たなかった。
彼は、受けて崩す型に徹した。三撃目の踏み込みに合わせ、盾を僅かに傾けて斧の軌道を外へ流し、相手の巨体が半歩崩れたところへ足を差し入れた。斧を持つ腕の下へ潜り込み、柄を自分の腕と盾の間に挟んで体重を預け、相手の腕を押さえ込んだまま、剣の柄で鳩尾を狙った。だが、バラキエは崩れきらなかった。腹へ力を入れて打撃を殺し、空いた肩でレイヴァスの体を押し返し、斧の柄を回して押さえ込みを解いた。もう一度踏み込んだレイヴァスは、今度は剣の腹でこめかみの際を狙ったが、バラキエは頭を僅かに引いてそれをかわし、石突きで盾を突いて間合いを作り直した。急所は読めていても、届かせるまでには、なお隔たりがあった。
「いい崩しだ。だが、崩し切るだけの体が、お前には残っていない」
「あんたも、振り続けるだけでは、倉は回せない」
レイヴァスは、斧の間合いの外へ下がりながら言った。そのとき、彼の目が、バラキエの背後を捉えた。兵団の若いドワーフが、興奮のあまり、詰所の扉へ松明を近づけていた。戦いの熱に浮かされた顔だった。バラキエもまた、気配を察して振り返った。
「止めろ」
副団長の声は、斧よりも重く響いた。
「松明を捨てろ。倉に火を入れる者は、敵味方なく俺が斬る。原住種の詰所もだ。……分からん者は、今すぐ後列へ下がれ」
若者は、青ざめて松明を落とした。兵団の隊列が、僅かに引き締まった。レイヴァスは、その隙に斧の男へ斬り込まなかった。原住種を守るための叱声に付け込む剣は、自分の守るという言葉を嘘にする気がした。代わりに彼は、盾で地面の松明を踏み消し、横通路の入り口へ身を滑り込ませて、通路そのものを体で塞いだ。
バラキエは、彼をしばらく見つめ、それから小さく鼻を鳴らした。侮りではなかった。測り直すような目だった。
「……お前は、旗のために戦ってはいないな」
「ああ。人の腹と、明日の便のために戦っている」
「ならば聞け。このまま押し合えば、副倉の前で死人が出る。俺は死人を出すために来たのではない。積み替え場と、横の荷捌き場は、兵団が貰う。倉の扉と番人の詰所には、手を付けない。配給は今日の分から、原住種の帳面通りに回す。……それで、剣を収めろとは言わない。だが、この通路での押し合いは、ここで終わりにしないか」
それは、敗北の申し出ではなかった。目的の半分を既に手にした者の、冷静な線引きだった。フィオナの旗は倉の扉を守り切ったが、供給の路の片側は、赤い腕章の下へ移りつつあった。守備側にも負傷者が増え、ガルフの短槍の穂先は血で濡れ、レイヴァス自身の左腕は、もう盾の重さに悲鳴を上げ始めていた。押し切れば、勝てるかもしれない。だが、その代償は倉の機能そのものだった。
彼は、剣を下ろしはしなかったが、半歩だけ退いた。
「番人に手を出さないこと。今日の配給を、券のある者全員に回すこと。便の荷を、理由なく止めないこと。その三つを、旗の下で言え」
「言おう」
バラキエは、その場で声を張った。兵団の盾の壁が斧と槍を下げ、守備側もまた、フィオナの合図で一歩ずつ間合いを空けた。戦いは、勝敗の名乗りなく終わった。倉の扉は開かなかった。原住種の番人は、誰一人として傷つかなかった。その代わり、積み替え場の半分と荷捌き場には、赤い腕章の見張りが立ち、崩れた穀物袋の穀物は石畳に散って、回収できる分は僅かだった。副倉の壁際では、倒れた荷の下から、双方の負傷者が運び出された。
戦いの後、レイヴァスは倉の壁に背を預け、しばらく動けなかった。左腕は痺れ、肋は息のたびに熱を持ち、剣を持つ右手の指は震えていた。受け切った代償は、正直だった。フィオナが近づき、旗竿を柱に立て掛けて、彼の前に立った。彼女の片手剣の刃には欠けがあり、旗の布の端は裂けていた。それでも、旗は倒れていなかった。
「ありがとう。あんたが通路を塞いでくれなければ、詰所まで行かれていた」
「旗がなければ、守備の列はもっと早く崩れていた」
「旗は、支えるものがいて初めて旗だよ」
彼女はそう言って、散らばった穀物を拾い始めた住人たちの方を見た。その横顔には、勝った者の晴れやかさはなかった。倉は守られた。だが、供給の路は、今日から二つの旗の間を流れることになる。レイヴァスの計画もまた、その二つの旗の力関係の上に、危うく載ることになった。
ガルフが戻ってきて、短槍を肩に担いだ。耳に切り傷があり、血が頬を伝っていた。
「倉は残った。だがよ、レイヴァス。匂いが変わっちまった。この倉の周りは、これからずっと、鉄と赤の匂いがする」
レイヴァスは頷いた。均衡は、戻ったようには見えた。だが、それは元の均衡ではなかった。裂けた旗、散った穀物、増えた見張りが、新しい日常の始まりを告げていた。




