# 第38話「絹の光」
戦いの翌日、治療所は朝から静かだった。
騒ぎの中で怪我をした者たちは、もうあらかた手当てを終えていた。残っているのは、熱を出した老人と、腕を吊ったまま眠る若い獣人と、それから、誰の付き添いもなく隅の寝台に横たわる数人だった。レイヴァスが布をくぐって入ったとき、薬草と血と、薄く漂う汗の匂いが、彼の鼻を刺した。
イリスは寝台の間を歩いていた。
小柄な体に、亜麻色の髪を後ろで束ね、袖を捲ったまま、一人ひとりの額に手を当て、布を替え、薬を匙で運んでいた。自身は戦わない聖女だった。だが、この場所では、剣を持つ者と同じだけ戦っていた。倒れた者を倒れたままにしないという、静かな戦いだった。
「レイヴァス。……傷の具合はどうですか」
「俺は大丈夫だ。今日は、手伝いに来た」
「ありがとうございます。では、あちらの水を替えてください。……無理はしないでくださいね。肋の打ち身は、まだ癒えきっていないはずです」
彼は言われた通りに水を替え、布を運び、寝台の位置を直す手伝いをした。派手なことは何もなかった。だが、手を動かしている間だけ、広場で交わされた重い言葉の記憶が、少しだけ遠のいた。
腕を吊った若い獣人が、うなされて目を覚ました。熱に浮かされた目が天井を彷徨い、やがて恐怖に歪んだ。
「来る。……光の消えた人が、来る」
イリスはすぐに傍らへ膝をつき、額に掌を当てた。
「大丈夫です。ここは治療所です。もう、何も来ませんよ」
「でも、見たんだ。槍を持って、こっちを。目が、もう人じゃなくて」
「見ましたね。怖かったですね。……でも、今は休んでください。眠っている間は、私が見ていますから」
聖女の掌から、絹のような柔らかな光が静かに広がり、若者の呼吸が少しずつ落ち着いていった。レイヴァスはその光景を見ていた。昨日の騒ぎの中で結界を張り、負傷者を守り続けた手が、一夜明けてもなお、同じように働き続けている。派閥の旗も、種族の名も、ここでは何の意味も持たなかった。苦しむ者がいれば手を当てる。それだけが、この場所の掟だった。
昼を過ぎ、治療所の客足が途切れた頃、イリスはようやく腰を下ろした。卓の上に置かれた茶は、すっかり冷めていた。彼女は両手で器を包んだまま、しばらく何も言わなかった。その横顔に、レイヴァスは見慣れない影を見た。疲れだけではなかった。何かを見てしまった者の、晴れない影だった。
「イリス」
「……はい」
「セリオスのことが、残っているのか」
彼女の指が、器の上でわずかに強張った。
「堕ちる直前の、あの人の光を思い出すのです」
イリスは、静かに言った。
「私には、人の輝きが光として見えます。あなたも知っている通りです。……セリオスさんの光は、最初に診たときから、細かったのです。疾風の槍と呼ばれた頃の話とは、比べようもないほどに」
レイヴァスは黙って聞いた。名声が下がり、衰弱していく元英雄の姿を、彼は市場で見ていた。だが、イリスの目に映る姿は、それとは別のものだったはずだ。
「細いだけでは、ありませんでした。ほつれていたのです。絹の糸が、端から解けていくように。診るたびに、光の束が一本、また一本と千切れて、闇の中へ落ちていくのが見えました。私が回復の光を当てても、千切れた糸は戻らないのです。傷なら癒えます。病なら和らぎます。けれど、あれは傷でも病でもなかった」
「最後は、どう見えた」
彼女は目を伏せた。
「最後に診たとき、光はもう、輪郭を失っていました。人の形をしていたはずの光が、風に吹かれる煙のように、薄く、頼りなく揺れて。……そして、あの騒ぎの中で再び見たときには、もう絹ではありませんでした。突き刺すような、荒い光に変わっていて。善い輝きは、絹のように柔らかく光るのです。あなたの光も、ガルフさんの光も、そう。けれど悪名や、荒い栄光に灼かれた光は、見る者の目を刺す。セリオスさんの最後の光は、そのどちらでもあり、どちらでもなかったように思います」
言葉を探すように、彼女は唇を噛んだ。
「うまく言えません。ただ、千切れていくものを、千切れるままに見ているしかなかったことが、残っているのです」
レイヴァスは、もう一つのことを聞くべきかどうか迷い、やがて口を開いた。
「消えたときは、どう見えた」
イリスの肩が、目に見えて震えた。
「……最後に残っていた糸が、切れたように見えました」
「切れた」
「はい。それまでは、細くても、ほつれていても、まだ人の形に光が集まっていました。けれど、あの騒ぎの中で再びセリオスさんを見たとき、集まっていたはずの光が、もう形を保っていなかったのです。残り火のような点がいくつか揺れて、次に見たときには、それも消えていました。人がそこに立っているのに、私の目には、もう輝きが映らない。それが、堕ちるということなのだと、あのとき初めて分かった気がします」
イリスは冷めた茶に口をつけ、手を膝の上で組んだ。
「祈りも、しました。アステイアに、あの人の糸を繋ぎ止めてくださいと。何度も。……けれど、祈れば祈るほど、自分の声が遠くへ落ちていくような気がしたのです。届いているのかどうかさえ、分からない。聖女として、それを口にすること自体、許されないのかもしれません。けれど、診ている者の正直な気持ちは、そうでした」
レイヴァスは答えを探したが、安い慰めは口にしなかった。祈りが届いたかどうかは、彼にも分からなかった。分かるのは、祈りながらも彼女が診ることを止めなかったという事実だけだった。
彼女はそれ以上、セリオスの最期の姿について語らなかった。なぜ光が消えたのか、本人は今どこへ行ったのか。レイヴァスも、それ以上は聞かなかった。分からないことを、分からないまま置くしかない夜もある。深い通路へ逃げ去ったセリオスの行方と同じように、その答えはまだ、闇の向こうにあった。
治療所の隅で、老人が寝返りを打った。イリスはすぐに立ち上がり、額に手を当て、水を含ませた布で唇を湿らせた。その手つきに、迷いはなかった。動揺を抱えたままの手が、それでも人を救う動きだけは、決して止まらないのだった。
「正直に言えば、怖いのです」
老人の傍らから戻りながら、彼女は言った。
「また誰かが、あのようにほつれて、やがて光が消えていくのを見るのが。……そして、私自身のことも」
「イリスの光も、ほつれるのか」
「分かりません。ただ、思うのです。私の信仰は、唯一神アステイアにあります。けれど、この監獄で起きることの全てを、教えの言葉だけで受け止められるのかどうか。……神は、堕ちていく者を、なぜ止めてくださらないのか。光が消えていく者を、なぜそのままにされるのか」
彼女はそこで言葉を切り、首を振った。
「すみません。聖女が口にするべき言葉ではありませんね」
「口にしていいと思う。疑問を持ったまま、手を止めない者の方が、俺は信じられる」
イリスは少しだけ笑った。疲れた笑いだったが、嘘はなかった。
「下の階層へ行きたいとは、思いません。私は、深い場所の宝も、力も要りません。ただ、ここにいる弱い人たちのために、力を使いたいのです。名声のためでも、教えを広めるためでもなく、目の前で苦しんでいる人がいるから、手を当てる。それだけは、疑問があっても、怖くても、変わりません」
「それで十分だと思う」
「ありがとうございます。……あなたの薬と香の支度は、できています。明朝、渡しますね。路のことがあるのは分かっています。けれど、支度だけは、遅らせません」
夕方、レイヴァスは治療所を出て、積み替え場の様子を見に行くことにした。イリスは寝台の間へ戻り、老人の傍らに残った。
市場の外れの細い路で、彼は足を止めた。
岩壁の陰に、ルナーリアが立っていた。外見は二十代の半ば、エルフより少し短い耳を持ち、顔の半分は夕影に沈んでいた。治療所へ向かう気配はなかった。彼女はレイヴァスを認めても、陰から出てこなかった。月の客人は、いつもそうだった。近づくことなく、届くか届かないかの距離にだけ、姿を置く。
「何を、見ている」
「あんたじゃないわ。……エルフの使者が、下層に来ているわ。それを見ていたのよ」
短い答えだった。レイヴァスは、彼女の視線の先を追った。市場の向こうを、羽根の文様の外套を着た者が二人、足早に過ぎていくところだった。
「精霊の息吹の、か」
「ええ。積み替え場と配給所を回って、堕落の騒ぎについて、見聞きしたことを細かく聞いていたそうよ。偶然の立ち寄りじゃないわ。セレスティナの意向が動いているのだと思うわ」
精霊の息吹の長、ハイエルフのセレスティナ。深層に本拠を置き、精霊の加護による導きと直感で派閥を率いる女だった。その目が、今回の堕落事件に向けられたということは、事が下層だけの騒ぎでは済まなくなっている証でもあった。
「エルフが、そこまで気にする話なのか」
「光がほつれて人が堕ちるわ。それを、精霊の加護で世界を見る者たちが放っておくと思うかしら。……まあ、私に内側の事情までは分からないわ」
最後の一言は、突き放すように冷たかった。彼女はそれ以上、同じ血の者たちの話を続けるつもりはないようだった。
「聖女は、治療所にいるのか」
「ああ。セリオスの光が消えたことを、まだ引きずっている」
「間近で見れば、そうなるんじゃないかしら。……だからといって、私が慰めに行く義理はないわ」
ルナーリアは岩壁から、半歩も出なかった。
「あんたの路のことも、使者は聞いているんじゃないかしら。耳は早いわ。供給便に紛れて潜ろうとする者がいる、という噂は、もう回っているのよ。気をつけなさい。注視されるのは、善いことばかりじゃないわ。深い場所の者たちは、堕ちる者にも、潜る者にも、同じくらい目を光らせるわ」
「忠告として、受け取っておく」
「忠告じゃないわ。独り言よ。あんたがどうなろうと、私の知ったことじゃないのよ。……道を空けなさい。ここを通るわ」
レイヴァスが脇へ寄ると、ルナーリアは陰から滑るように出て、彼と目を合わせることもなく、夕方の市場の人混みへ消えた。会話は、それだけだった。残ったのは、近づかなかった者の言葉だけが持つ、遠さだった。
その足で、彼は積み替え場へ回った。
夕方の場内はひっそりとしていた。小競り合いの跡は片付けられていたが、通路の先は材木と縄で半ば塞がれ、見張りの者が二人、退屈そうに立っていた。便の荷はまだ山と積まれ、動く気配はなかった。見張りの一人が、レイヴァスの顔を認めて小さく首を振った。今夜も、明日も、確かなことは言えない。そういう首の振り方だった。彼はそれ以上聞かず、塞がれた路をしばらく眺めてから、踵を返した。路の向こう側にあるはずの深さが、材木一枚隔てただけで、ひどく遠く感じられた。
夜、レイヴァスは住まいの窪みへ戻り、岩の上に持ち物を並べた。
剣と盾。腕輪は二重。刻み香は、イリスが明朝渡すと言った。薬も同じだった。支度そのものは、着実に揃いつつあった。足りないのは、路だった。供給便の路が旗の争いで塞がれかけ、ドーランの便がいつ動けるのか、誰にも確かなことは言えなかった。約束の日取りだけが、指の間から零れるように過ぎていく。その焦燥は、昼の間、治療所の手伝いで紛らわせていたはずのものが、静けさの中で再び戻ってきた。
彼は託された腕輪を布から取り出し、掌に乗せた。冷たくもなく、熱くもなく、ただ重かった。
潜行が遅れれば遅れるほど、深層の足場は遠のく。争いが長引けば、便そのものが潰れるかもしれない。それでも、彼は思った。路が塞がれたからといって、進むことを止めるわけにはいかない。路が一つ塞がれば、別の路を探す。便に同行できなければ、別の同行の形を探す。託けは、都合の良い日にだけ果たすものではなかった。
遠くで、市場の明かりが一つずつ落ちていった。治療所では、イリスがまだ起きて、誰かの傍らに座っているのだろう。絹のような光がほつれるのを見て震えながら、それでも手を止めない聖女の姿が、彼の目に残っていた。深さへ進む理由は、人それぞれだった。彼は彼の理由で進む。彼女は彼女の場所で、人を救い続ける。その違いを、今夜は素直に受け止められた。
レイヴァスは腕輪を布へ戻し、懐へ仕舞った。
「明日、ドーランに会う」
小さく、独り言のように言った。
「路の話を、最後まで聞く。塞がれているなら、どこが塞がれているのかを確かめる。……進むしかない」
明かりを落とすと、窪みの中は闇に沈んだ。だが、その闇は、セリオスの光が消えたときの闇とは違った。眠りへ落ちる前の、人の暮らす闇だった。彼は目を閉じ、浅い眠りの中で、明日の段取りを一つずつ数えた。焦りは消えなかった。決意もまた、消えなかった。その二つを抱えたまま、彼は夜を明かすことにした。




