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英雄の監獄カルナヴェイル  作者: 那貴


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# 第37話「牙と兵団」

積み替え場の騒ぎから、二日が過ぎていた。

 

 だが、下層の空気は元に戻らなかった。供給便の荷が滞り、配給の列は長く、店先では素材貨幣の値が日に二度も変わった。路が塞がれたらどうなる。その不安の真ん中に、彼の潜行の計画も置かれていた。

 

 その朝、ガルフは窪みの前で、短槍の穂先を砥石に当てていた。

 

「また来るぞ」

 

「誰がだ」

 

「匂いで分かる。深いところの匂いだ。……ウルフィンだ」

 

 レイヴァスは手を止めた。以前、ウルフィンが上がってきたときとは、ガルフの声の響きが違った。あのときは平時の訪れだった。今は違う。堕落の騒ぎの直後で、赤い腕章が深層への供給路にまで手を伸ばし始めている。深層に本拠を置く三本牙にとって、下層の積み替え場を失うことは、喉元に刃を当てられるに等しかった。

 

 やがて深層へ続く坂道から、灰色の髪の男が上がってきた。

 

 ウルフィンだった。外見は四十代の後半、灰色の髪と狼の耳、顔と腕に刻まれた歴戦の傷跡は以前のままだった。だが今回は一人ではなかった。背後に三人の獣人が従い、周囲を見張るように歩いていた。供を連れて上がってくるという、その一点だけでも、事の切実さが伝わってきた。

 

 ウルフィンは広場で足を止め、積み替え場の方角を見た。荷車が二台、通路を塞ぐように止められ、荷受けの者たちが声を潜めて立っていた。

 

「塞がりかけているな」

 

「ああ。便の路だ。このままでは、五日どころか、荷そのものが動かなくなる」

 

 レイヴァスが答えると、ウルフィンは小さく頷いた。

 

「深層でも同じだ。届くはずの食料が届かず、足場の倉が一つ、空になりかけた。兵団の手が、そこまで伸びている。宵の風のルベルキスタは倉の数まで探らせ、精霊の息吹のセレスティナは堕落の報せに使者を動かした。愚者の大同も、路が塞がれば取り分が減ると、旗色を窺っている。全員が、この路を数えているのだ」

 

 

 岩棚の下に場所を移しても、話の重さは変わらなかった。

 

 ウルフィンは座らなかった。立ったまま、ガルフを真っ直ぐに見た。

 

「長からの申し出だ。使いの言葉ではない。ヴォルフ直々の言葉を、俺が預かって上がってきた」

 

 ガルフの耳が立った。

 

「前にも聞いた話だ。旗の下に来い、ってな」

 

「違う。あのときは一族への誘いだった。獣人の若者を、獣人の旗の下へ。それは平時の誘いだ。今は違う」

 

 ウルフィンの声が、低く沈んだ。

 

「赫の兵団が、深層の供給路と足場に手を伸ばしている。本拠の周りの倉を押さえられ、獅子の者だけでは守り切れなくなっている。長は、お前を飾りとして欲しがっているのではない。戦力として、喉元を守る牙として欲しがっている。だから条件も、あのときとは別物だ」

 

 彼は一つずつ、指を折るように言った。

 

「一つ。入れば、お前に部隊を任せる。下層と深層の境を守る一隊の頭として立て」

 

「二つ。普段の行動は縛らない。集いの席も、長への挨拶も、最低限でいい。無所属で培ってきた付き合いを、旗の都合で切ることはしないと、長は言った」

 

「三つ」

 

 ウルフィンは懐から小さな布包みを取り出し、岩の上に置いた。中から現れたのは、古びた腕輪だった。深い場所の取り立てに耐えてきた輪特有の、重く沈んだ光を帯びていた。

 

「潜行に要る輪だ。お前が深層へ下りるときも、下層の友が潜るときも、不足を補えるだけの格を持つ。供与する。貸すのではない。長は、そこまで踏み込んだ」

 

 レイヴァスは息を呑んだ。腕輪の供与まで踏み込むとは、破格だった。輪は格そのものであり、命綱でもある。それを渡すとは、獅子がガルフを本気で必要とし、深層の足元が揺らいでいる証でもあった。

 

 ガルフは腕輪を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。

 

「……随分と、慌ててやがるな」

 

「慌てているのではない。間に合わなくなってからでは遅い、と長は判断した。お前が頷くなら、今日にでも境の守りは変わる。頷かなければ、守りは痩せたまま、兵団の手を待つことになる」

 

 

 そのとき、広場の向こうから、別の足音が近づいてきた。

 

 重い足音だった。通路の人垣が割れ、穏やかな顔立ちの巨躯が姿を現した。バラキエだった。身の丈は二間を超え、見た目は三十代の前半、背には大戦斧を負っていた。鬼人族の副団長は、岩棚の手前で足を止め、ウルフィンに一度だけ目礼し、それからガルフへ向き直った。

 

「話の途中ですまない。だが、うちも同じ用件だ」

 

「兵団もか」

 

 ガルフが鼻を鳴らした。

 

「ええ。団長の言葉を預かってきました。……三本牙に渡すな。それが第一です。来たる衝突で、銀狼の槍が獅子の側に立てば、下層の天秤は大きく傾く。逆に、こちらの側に立てば、話は別になる。団長は、あなたを戦力として見ています」

 

「随分と、正直だな」

 

「隠しても仕方がありません。兵団の誘い方は、一つだけです。種族ではなく、力で見る。あなたが狼だから誘うのではない。母の願いを汲んで子を守り、その咎を一人で背負って、なお槍を折らなかった男だから誘うのです」

 

 ガルフの尾が、ぴたりと止まった。

 

 レイヴァスは、その言葉の刺さり方を見ていた。三本牙の誘いは、血と一族の名で組み立てられていた。だが兵団の言葉は違った。種族だけの信頼に疑問を持つ男に対して、種族を理由にしない、と真正面から言い切ったのだ。

 

 バラキエは広場の端を顎で示した。そこでは兵団の者たちが、積み替え場の荷の片付けを手伝っていた。熊族の女が荷綱を締め、エルフの男が伝票を読み上げ、魔族の若者が車輪の石を取り除いていた。種も出自もばらばらな者たちが、赤い腕章だけを頼りに、同じ荷を運んでいた。

 

「あれが兵団の在り方です。人でも巨人でもない者なら、誰でも受け入れる。受け入れた後は、種で席を決めたりはしない。力と、果たした仕事で席が決まる。あなたにも、同じ席を用意する、と団長は言いました」

 

「部隊は。自由は。……獅子は、随分と大きく出たぞ」

 

 ガルフがウルフィンをちらりと見て言った。バラキエは穏やかに笑った。

 

「条件の競り合いをするつもりはありません。ただ、兵団に入れば、あなたの槍が届く範囲は獅子の境よりも広くなる。それだけはお伝えしておきます」

 

 

ウルフィンはバラキエを睨まなかった。だが、その随行の若い獣人の一人が、我慢ならぬという顔で一歩前に出た。

 

「副団長とやら。獅子の話の最中に、横から口を挟むのが兵団の流儀か」

 

 積み替え場の方から来た兵団の若者も、負けずに言い返した。魔族の若者だった。角はまだ短く、声には若さ特有の尖りがあった。

 

「話なら、こっちも預かってきた口だ。先に来た方が偉いって決まりが、獅子にあるのか」

 

「なんだと」

 

 言い合いが、掴み合いに変わるのは一瞬だった。若い獣人が魔族の胸倉を掴み、魔族がその腕を振り払う。材木が倒れ、市場の者たちが悲鳴を上げて退いた。押し合いが広がり、誰かが荷車にぶつかり、積まれた袋が一つ、地面に落ちて裂けた。

 

 レイヴァスは盾に手をかけた。だが、刃物はまだ抜かれていない。若さと旗への忠義とがぶつかり合う、小競り合いだった。それでも、この場所で血が流れれば、均衡は大きく崩れる。彼はガルフと目を合わせ、列へ割って入ろうとした。

 

 そのときだった。

 

 通路の奥から、地を震わす足音が響いた。

 

 

 オーガストが現れた。

 

 身の丈はバラキエよりもさらに大きく、傷だらけの巨躯に赤い皮膚、額には二本の角。見た目は四十代の後半で、肩には特大の金棒を担いでいた。だが、その日、彼の傍らにいたのは、足を引きずる細身のエルフの男だった。兵団の腕章を着け、顔色は土のようだった。人垣は、声もなく割れた。

 

 押し合っていた者たちも、手を止めた。団長自らが立つ重さが、若者たちの熱を冷ましたかに見えた。だが、オーガストは小競り合いの方をほとんど見なかった。彼は傍らの男を一瞥しただけだった。

 

「バラキエ。こいつは、昨日の便で何をした」

 

「供給路の脇で原生獣を引く囮に付いていましたが、合図の前に持ち場を捨てました。代わりに残った者が重傷を負い、荷も一つ失いました」

 

 男が震える声で言った。

 

「団長、足を挫いて……。荷運びなら、まだできます。どうか、別の役を」

 

「足は折れたか」

 

「いえ、そこまでは」

 

「なら、走れるな」

 

 オーガストの声には、怒りらしい熱がなかった。だからこそ、言い渡される言葉が、処分として響いた。

 

「次の便でも囮をやれ。今度は合図まで引け。引けなければ、そこで終わりだ。兵団は、二度逃げる者を拾わねえ」

 

 男の顔から、さらに血の気が引いた。囮は、獣の目と牙を自分へ向けさせ、荷を通すまでの時間を稼ぐ役だった。一度捨てた持ち場へ、逃げれば切り捨てると言われた上で、もう一度立たされるのだった。

 

「武器は預けろ。囮に刃物は要らねえ。足と声だけあればいい」

 

 バラキエが手を伸ばし、男の腰の短剣を受け取った。抵抗はなかった。男は引きずる足で通路の脇へ下がった。誰も口を挟まなかった。使えるかどうかで席が決まるという言葉が、その場で形になっていた。

 

 それからオーガストは、ようやく押し合いの跡を見た。金棒は肩に担がれたまま、一度も振るわれなかった。だが、レイヴァスには、その方が重かった。一言で人を囮の席へ落とし、拾わないと切り捨てる男だった。

 

「若えのは、熱くなるな。熱くなっていいのは、俺が合図したときだけだ。……そこの魔族。副団長の声が聞こえなかったな」

 

 魔族の若者が、顔を強張らせた。

 

「今夜の食い扶持はなしだ。明日の路開けでは、先に立て。それで文句があるなら、腕章を置いて出ていけ」

 

「団長」

 

 バラキエが静かに言い、頭を下げた。魔族の若者は唇を噛み、やがて小さく頷いた。不利益への罰だった。冷たく、逃げ場がなかった。

 

「旗の面子で死ぬな。死ぬなら、使い道のある死に方をしろ。……荷を片付けろ。裂けた袋は、兵団の取り分から補う。荷受けには損をさせるな」

 

 兵団の者たちが動き始めた。獣人の若者は、ウルフィンの視線を受けて唇を噛み、倒れた材木を起こし始めた。小競り合いは、それで終わった。刃が抜かれることも、血が流れることもなかった。だが、広場にいた誰もが、団長という男の格を、その身で知ることになった。受け入れた有能な者には大きく構え、使えないと見れば、その場で席を剥ぐ。その両方が、同じ男の中にあった。

 

 レイヴァスが目を離せなかったのは、肩の金棒ではなく、囮へ回された男の背中だった。あの言い渡しは、盾でも腕でも受け切れるものではなかった。

 

 

 勧誘の言葉を口にしたのは最後までバラキエで、オーガストは少し離れて腕を組み、眺めるに留まった。その沈黙が、副団長への信頼の証に見えた。

 

 ガルフは二人を見比べ、それから、はっきりと言った。

 

「断る」

 

「獅子にも、兵団にも入らねえ。……理由は、前と変わらねえ。血の名だけで信じられる席にも、力があるからって並べられる席にも、俺は座れねえ。俺を信じるなら、俺を見て信じてくれ。それは、どっちの旗にもできねえ頼みだって、分かってる」

 

 ウルフィンの目が、わずかに細まった。

 

「部隊も、自由も、輪も要らない、と言うのか」

 

「要らねえとは言わねえ。欲しいもんもある。だが、欲しいからって、背負ってるものを旗の色に染めるわけにはいかねえんだ。母との約束を、俺はまだ果たし終えちゃいねえ」

 

 バラキエが穏やかに問うた。

 

「兵団は、種族であなたを見てはいません。それでも、ですか」

 

「だからこそ、きついんだよ」

 

 ガルフは苦く笑った。

 

「あんたの言い方は、刺さる。種じゃねえ、力で見る。その言葉が嘘じゃねえことも、あの荷運びの様子を見りゃ分かる。……だがな、力で見るってのも、一つの括りだ。力が足りなくなった日、俺はどうなる。その日まで、俺は俺の足で立っていたい」

 

 

 以前の断りとは、空気がまるで違った。あのときウルフィンは、筋の通った断り方だと受け止め、穏やかに坂道を下りていった。今は違った。ウルフィンはすぐに頷かず、バラキエもすぐに引き下がらなかった。二人の視線が、ガルフの上で重なり、やがて互いへ移った。

 

「ガルフ。……今回は、断られたままでは済まないかもしれない」

 

 ウルフィンが、静かに言った。

 

「ヴォルフは、本拠を守るために、お前を数に入れている。お前がどちらの側にも立たないなら、その数え方そのものを、変えなければならなくなる。無所属であることが、中立として通る時代は、終わりかけている」

 

「兵団も同じ考えです」

 

 バラキエが続けた。

 

「断りを責めるつもりはありません。ですが、来たる衝突のとき、あなたの槍がどちらの側にもないことを、両陣営が放っておけるかどうか。それは、あなたの意思だけでは決まらなくなります」

 

 それは脅し文句の形をしていなかった。だからこそ、圧だった。旗を持たないという選択そのものが、やがて許されなくなるのだった。

 

 オーガストが、初めて口を開いた。

 

「ガルフ。……気が変わったら、赤い腕章のところへ来い。来なければ来ないで、俺はお前を責めねえ。だが、戦が始まった後で、どっちの旗の下にもいねえ奴は、どっちからも狙われる。月の客人ルナーリアですら、セレスティナにもルベルキスタにも目をかけられ、無所属でいられる幅は狭まっている。それだけは、覚えておけ」

 

 彼はそれだけ言って、背を向けた。バラキエが一礼し、後に続いた。兵団の者たちは、散らかった荷と倒れた材木まで片付けてから通路の奥へ去っていった。

 

 ウルフィンもまた、坂道の方へ歩き出した。供の若者たちが、まだ悔しさを滲ませながら後に続いた。坂道の闇に身が半分溶けたところで、彼は一度だけ振り返った。

 

「返事は、今日のものとして長へ伝える。だが、戦況が変われば、また上がってくる。そのときは、今日よりも良い条件は出せないかもしれない。……それでも、お前の断り方に逃げがなかったことは、併せて伝える」

 

 

 広場に残されたのは、レイヴァスとガルフの二人だけだった。

 

 積み替え場では、荷受けの者たちが恐る恐る仕事を再開していた。だが、供給便の路がいつ塞がるかは、誰にも分からなかった。

 

 ガルフは短槍を担ぎ、坂道を睨んでいた。

 

「駒だな」

 

「何がだ」

 

「俺だよ。獅子にとっても、兵団にとっても、欲しいのは俺の気持ちじゃねえ。境に立つ槍が一本、どっちを向くかだ。……分かってたことだが、面と向かって数えられると、腹が立つ」

 

 レイヴァスは何も言えなかった。友が駒として奪い合われる構図を、傍らで見ているしかなかった。

 

「行くぞ。便の路が生きてるうちに、ドーランに会わねえと。お前の潜行まで、旗の争いに巻き込まれて潰えたら、笑えねえ」

 

 ガルフは歩き出した。その背中が、以前よりも少しだけ立つ場所を失いかけているように、レイヴァスには見えた。無所属がまだ許されるうちに、彼らは路を確かめなければならなかった。


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