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英雄の監獄カルナヴェイル  作者: 那貴


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# 第36話「大同の旗」

翌朝の広場は、戦いの跡そのままだった。

 

 倒れた荷車が横たわり、引き裂かれた布が泥にまみれ、配給の列を作っていた縄は踏み散らされていた。壁と柱には傷一つない。どれほど激しくぶつかっても、迷宮の石は欠けもしない。だが、治療所の前には担架が並び、洗っては干される包帯の布が、朝の明かりの中で痛々しく揺れていた。

 

 家を失った者もいた。広場の縁の住まいの一つは、逃げ惑う人々と倒れた荷に押し潰され、入り口の幕も支えの棒も折れていた。一家は毛布に包まって壁際に座り、呆然とその有様を見ていた。助かったはずの者たちの顔にも、安堵はなかった。皆、自分の腕輪を、確かめるように何度も触っていた。

 

 レイヴァスは脇腹に新しい布を巻き、倒れた荷の片付けを手伝っていた。左腕はまだ重く、物を抱えるたびに痺れが走る。だが、手を動かしている間だけ、広場の現実は数えられるものの集まりに戻った。担架、水、布、食い物、寝場所。一つずつだ、と彼は自分に言い聞かせた。

 

 そのとき、通路の向こうから、声が届いた。

 

「水は治療所へ先に回して。布は乾いたものから、そこの卓へ。立つ者は荷を運んで、座る者は怪我人の傍にいて。誰も、手を空けたままにしないで」

 

 よく通る声だった。市場のざわめきを貫き、広場の端まで届く。振り返ると、人々が道を開けていた。先頭に立つのは、長身の女性だった。背に大旗を負い、片手には鞘のままの剣を持っている。その後ろには、旗の下の印を付けた者たちが、荷車に水と布と乾いた食料を積んで続いていた。

 

 愚者の大同の者たちだった。

 

「フィオナさんが来た」

 

 傍らの男が呟いた。声には、救いを見た者の安堵が混じっていた。

 

 女性は広場の中央まで進むと、大旗の石突きを地面へ強く突き立てた。旗が高いところで開き、朝の気流を受けて大きくはためく。彼女の声が、再び響く。

 

「大同の旗の下では、派閥の印は預かってもらう。怪我の重さと、子供と年寄りが先。次に、家を失くした人。配る順を争う者は、私のところへ来て」

 

 誰も逆らわなかった。理屈ではなく、声と旗と、その場に立っている姿そのものが、人を動かしていた。

 

 フィオナ・ハートランド。「大旗の勇者」と呼ばれた女だと、レイヴァスは人づてに知っていた。人族と魔族の大戦で、旗を掲げて民を率い、進攻を押しとどめた英雄。その後、民に慕われすぎたことが災いし、国に始末として落とされたのだという。その評判は、目の前で一つずつ裏付けられていった。

 

 フィオナは配給の列の前で、獣人族の若者の腕章を見ても列を変えさせず、人族の老人を先に通した。家を失った一家には、自分たちの荷から出した布を張って仮の仕切りを作らせ、子供には乾いた食料を手渡した。

 

「座れる者は座って。立てる者は、あと三つ荷を運んだら休んでいい。……そこのあなた、顔色が悪い。順番を待たずに治療所へ」

 

 言われた男は、赤い腕章を付けていた。赫の兵団の者だった。男は一瞬戸惑った顔をしたが、フィオナは意に介さず、傍らの若者に肩を貸させた。

 

「旗の下では、誰の者かは聞かない。倒れそうな者を放っておく旗じゃない」

 

 家族を失った老婆の前では、フィオナは膝をついて目線を合わせた。何も言わず、差し出された手を両手で包み、水を一口ずつ飲ませる。老婆の震えが止まるまで、彼女は急がなかった。指揮官の速さと、傍にいる者の遅さとを、この女は場面ごとに使い分けていた。

 

 

 治療所では、イリスが朝から一度も座っていなかった。

 

 レイヴァスが見たとき、彼女は三人目の負傷者の傷を洗い終えたところだった。亜麻色の髪は乱れ、目の下には疲れの影が濃い。それでも掌の光は揺らがず、絹のような柔らかさで傷口を包んでいく。

 

「イリス。少し休め。顔が白い」

 

「まだ、待っている方がいます。……あちらのお婆様は、夜の間に熱が上がったそうです。先に診なければ」

 

「倒れたら、診る者が一人減る」

 

「分かっています。けれど、今止めたら、その一人のために待つ人が、もっと長く待つことになります」

 

 落ち着いた口調だったが、その奥には譲らない芯があった。

 

 そこへフィオナが、布と水を抱えて入ってきた。

 

「聖女様、ご苦労さま。布と水と、運び手が四人。大同から借りていって。返すときは、洗って乾かしてからでいい」

 

「ありがとうございます。とても、助かります」

 

「それと、交代で休む仕組みを作ったわ。あなたの治療は、真似できるものじゃない。だからこそ、洗う、運ぶ、支えるは、全部こっちで持つ。あなたは診ることだけに力を使って」

 

 イリスは少し驚いた顔をして、それから小さく頷いた。フィオナは治療所の入り口に小さい旗印を立て、運び手たちへ次々に指示を出す。治療所の流れは、目に見えて滞らなくなっていった。

 

 昼近く、イリスの手が、一瞬だけ震えた。光が細くなり、彼女は目を閉じて息を整えた。フィオナは何も言わず、椅子を一つ、彼女の後ろへ置いた。イリスはそれでも立ったまま、次の負傷者を迎えた。

 

 

 責任の話が始まったのは、配給の列が落ち着いてからだった。

 

 三本牙に近い店の男が、声を潜めたつもりで、しかし周囲に聞かせる調子で言った。

 

「そもそも、赫が供給の道に圧力をかけて、均衡を壊したのが始まりだ。あちこちで小競り合いが起きて、住人が怯えて暮らしていた矢先の出来事だぞ」

 

 列の向こうで、赤い腕章の若者が顔を上げた。

 

「旧い元締めの支配こそ、腐っていたんじゃないか。道も倉も、自分たちの都合で押さえてきたのはどっちだ。……セリオスが落ちたのは、誰かの圧力のせいじゃない。語られなくなれば誰でも落ちる、この仕組みのせいだ」

 

「仕組みを言い訳に、縄張りを広げるのか」

 

「あんたたちは、仕組みを盾に座り続けてきただけだ」

 

 声が少しずつ熱を帯び、列がざわついた。レイヴァスが間に割って入るより早く、フィオナの声が飛んだ。

 

「そこまで」

 

 一言で、場が止まった。

 

「言い分は、後でいくらでも聞く。どちらの言い分も、今日ここで決着はつかない。……でもね、目の前の列は、決着より先に進めなきゃいけないの。水を待つ子供の前で、旗の話はしない。それが、大同のやり方」

 

 二人の男は、それぞれ不満げに目を伏せたが、列は静かに動き出した。彼女は正しさを押しつけなかった。ただ、今なすべきことの順番を示し、その順番に人を乗せた。

 

 レイヴァスは、その様子を見ながら思った。ヴォルフの威厳とも、オーガストの苛烈さとも違う。フィオナの力は、人を従わせるのではなく、人が自分で立てる場所を作る力だった。

 

 片付けの合間に、フィオナがレイヴァスの傍へ来た。脇腹の布を見て、眉を寄せる。

 

「剣聖殺し、ね。噂の割に、人の荷を運んでばかりいるじゃない」

 

「今日は、そっちが本業だ」

 

「いい本業だと思うわ。……私もね、国では旗を持たされて、最後は旗ごと始末された。旗なんて、持つ者を守ってはくれないの。守るのは、旗の下に集まってくれた人たちよ。だから私は、ここでも旗を立てる。誰かが集まれる場所がなければ、人は一番弱いときに、ばらばらになってしまうから」

 

 彼女はそれだけ言うと、また列の方へ戻っていった。過去を嘆く調子は微塵もなかった。

 

 

 昼を過ぎた頃、治療所の奥の寝台を巡って、別の客が訪れた。

 

 小柄な若者だった。二十代ほどの姿で、肌は日を浴びたような褐色をしている。角も翼もなく、身なりは地味で、誰の印も付けていない。だが、歩き方に隙がなかった。フィオナの前に立つと、若者は深く、型通りに頭を下げた。

 

「フィオナ・ハートランド殿。私はボガートと申します。深層より、宵の風の使いとして参りました」

 

 広場の端のざわめきが、僅かに変わった。宵の風。魔王ルベルキスタの旗の名だった。

 

「側近は、私一人でございます。以後は、宵の風からの話は、すべて私を通すものとお考えください」

 

「伝令が一人で、こんな騒ぎの跡へ来るの」

 

 フィオナは旗の柄に手を置いたまま、若者をまっすぐに見た。

 

「用件は、物資の話ではないのだろうね」

 

「ございません。身柄と、名誉の話でございます」

 

 ボガートの視線が、治療所の奥へ一瞬だけ向いた。そこには、昨日の騒ぎで脇を槍に掠められ、高熱に浮かされている魔族の男が寝かされていた。人族の子供を槍の軌道から引き離し、自分が代わりに傷を受けた男だった。ところが朝のうちに、妙な噂が広がっていた。魔族が何かしたから、槍使いがああなったのではないか、という囁きだった。

 

「あの者は、魔族の者です。傷が癒えるまで、どこの派閥の者にも、尋ね問う名目で寝台から動かさないでいただきたい。癒えた後も、迎えは宵の風から出します。それまで、大同の旗の下で、ただの負傷者として預かっていただきたいのです」

 

「それは、要求」

 

「お願いと、取引でございます」

 

 ボガートは懐から小さな黒い札を取り出し、両手でフィオナへ差し出した。その指先が、札を摘む形のまま僅かに伸びた。伸びた部分だけが、透けるように青みを帯びる。手の甲も、腕も、褐色のままだった。札がフィオナの手へ渡ると、指は人の形へ戻り、青みも消えた。粘液の体を、人型に収めている者だと、その一瞬で分かった。

 

「この札を持つ使者は、深層の魔族の住まいまで、宵の風の客人として通します。昨日の出来事を目撃した魔族の者たちの言葉は、私が集めてお渡ししましょう。……その代わり、と申しては失礼ですが」

 

 若者は、穏やかな顔のまま続けた。

 

「あの男が子供を庇ったことを、旗の下で確かに語っていただきたいのです。魔族が騒ぎを招いたという囁きを、放っておくわけには参りません。あれは、ルベルキスタ様のお耳にも、既に入っております」

 

 魔王の名が出た途端、傍で聞いていた者たちの背が伸びた。伝令の言葉は柔らかかったが、その背後には、深層で何百年も名を保ち続ける王の重さがあった。

 

 フィオナは、黒い札を一度見て、ボガートへ返した。

 

「札は預からないわ。恩の形が残ると、旗が傾くから。……でもね、傷ついた者を、尋ね問うために寝台から引きずり出すような真似は、この旗の下では元々しないの。魔族でも、人族でも、同じこと。あの人は、癒えるまでここにいる。迎えが来たら、本人の口から行き先を聞いてから決める」

 

「それで、十分でございます」

 

「噂の方は、目撃した者の話を私も聞く。子供を庇ったのが本当なら、夕方の配給のときに、私の口から皆へ言う。本当でないことは言わない。それが大同の旗の信用よ。あんたの王にも、そう伝えて」

 

 ボガートは、もう一度深く頭を下げた。

 

「承りました。……その信用があるからこそ、参ったのでございます」

 

 彼はそれ以上、広場に留まらなかった。用件だけを済ませ、治療所の奥へも入らず、来たときと同じ足取りで通路の雑踏へ消えた。気づけば、姿がなかった。伝令として来て、見定めも済ませて帰る者だった。

 

 

 夕方、広場の片付けが一段落した頃だった。

 

 レイヴァスは、水の壺を下げて市場の方へ向かい、柱の陰で足を止めた。

 

 男が一人、立っていた。外見は四十代ほど。顔立ちは穏やかだが、一度見ても、後で思い出せないような顔だった。彼は小さな帳面を広げ、羽根筆を走らせている。記録屋だった。下層の出来事を帳面に記録して回っている男で、市場でも時折その姿を見かけた。

 

 記録屋は、騒ぎの後の広場に立って、静かに書き続けていた。倒れた荷車の位置。治療所の担架の数。彼の視線はゆっくりと広場を巡り、筆は迷いなく動く。まるで、昨日ここにいて、一部始終を見ていた者のようだった。その静けさが、不気味だった。

 

「……昨日のことか」

 

 レイヴァスが声をかけると、記録屋は顔を上げ、穏やかに頷いた。

 

「ええ。セリオスのこと、彼に傷つけられた者たちのこと、負傷者の数も。……槍が治療所へ向いたのは、日が傾く少し前、でしたね」

 

 時刻まで、正確だった。戦いの間、レイヴァスは彼の姿を見ていない。それなのに、男の言葉は、細部まで昨日の光景と重なっていた。

 

「あんた、どこで見ていた」

 

「あちこちで、ですよ。人から聞いたことも、書き留めています。記録は、集めるものですから」

 

 それ以上のことは言わず、記録屋は帳面を閉じた。中の文字は、ちらりと見えただけでも、細かく整っていた。人の名、場所、出来事。監獄の日々が、誰かの手で静かに写し取られ続けている。その事実に、レイヴァスは言いようのない薄ら寒さを覚えた。

 

「なぜ、そこまで詳しく」

 

「忘れられるのは、恐ろしいことですから。……セリオスのように、ね」

 

 記録屋は、それだけ言って、市場の雑踏へ溶けるように去った。足音も、気配も、驚くほど残らなかった。

 

 レイヴァスはしばらく、その背が消えた方角を見ていた。今は確かめる術がなかった。

 

 

 夜、治療所の明かりは遅くまで消えなかった。

 

 イリスは最後の負傷者の包帯を巻き終え、ようやく椅子に座った。座った途端、疲れが一度に押し寄せたように、肩が小さく落ちた。魔族の男の熱は夕方に少し引き、フィオナは約束通り、配給の列の前で、彼が子供を庇って傷ついたことを皆へ告げた。囁きは消えたわけではなかったが、旗の下では、もう声に出す者はいなかった。

 

 昼の間に、フィオナの立てた仕組みは広場全体へ広がっていた。仮の寝場所には、家を失った者たちの名を書いた木札が並び、炊き出しの鍋の前では、大同の者と無所属の住人が一緒に椀を配っていた。昨日、あれほど怯えて逃げ惑った広場に、小さいながらも、暮らしの形が戻り始めていた。

 

「……今日一日で、腕輪に触れる人を、何人も見ました。昨日のことが、皆を怖がらせています。自分も語られなくなる日が来るのではないか、と」

 

「ああ。広場の空気が、昨日までと違う」

 

「それでも、フィオナさんの旗の下では、皆、並んでいました。怖くても、人は並べるんですね」

 

「あの旗は、大したものだ。……あの女も、大した女だ。落とされた場所で、もう一度人を集めている」

 

 治療所の外では、大同の者たちが夜の見回りと、家を失った者たちの寝場所の支度を続けていた。大旗は広場の中央に立てられたまま、夜の気流に小さく揺れていた。その下には、毛布を分け合う者、明日の配給の相談をする者、静かに泣く者を宥める者の姿があった。

 

 だが、広場を離れた路地では、話し声の調子が違っていた。誰が落ちたのか。次は誰なのか。自分の歌は、物語は、外でまだ語られているのか。下層の誰もが、昨日まで口にしなかった問いを、囁くように確かめ合っていた。均衡の綻びは、昨日の一日で、誰の目にも見えるものになったのだった。

 

 レイヴァスは夜空のない天井を見上げ、セリオスが消えた深い通路の方角へ耳を澄ました。何も聞こえなかった。下層の空気は、もう元には戻らない。そのことだけは、広場の誰もが、言葉にしないまま知っていた。


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