# 第35話「堕ちる者」
治療所の脇の静養の場は、昼でも静かだった。
細長い小部屋が通路に沿って並び、布の仕切りの向こうからは、寝台に横たわる者たちの浅い呼吸だけが聞こえてくる。レイヴァスが水の壺を運んで入ったとき、セリオスは端の寝台に起き上がっていた。膝の上には、自分の武勲歌を書き留めた古い紙束が広げられている。指が文句を辿り、唇が小さく動いた。だが、声は出ていなかった。
「水を持ってきた。粥も、後で届く」
セリオスは顔を上げた。目は数日前に見たときよりも深く窪み、頬の骨が浮き、唇は乾いて割れている。食べているはずなのに、体は細る一方だった。満たされない飢えが、内側から男を削り続けている。
「……レイヴァス。お前の腕輪は、いくつだ」
唐突な問いだった。視線はレイヴァスの顔ではなく、腕に落ちている。
「自分のと、託されたものと、二つだ」
「二つ。……いいな。満ちている者の腕は、重さが違う。見れば分かる。俺の腕はな、もう皮と骨の重さしかしない」
セリオスは自分の腕を持ち上げるようにして見せた。腕輪は痩せた腕の上で、わずかに緩んでいた。その緩みが、何より雄弁だった。格が細れば、輪すら体に合わなくなる。男は笑おうとして、失敗した。
「歌をな、昨夜から思い出せないところがある。三節目の、丘を駆け下りるところだ。あそこが一番、兵たちが沸いたところなのに」
「無理に思い出さなくていい。体が先だ」
「体。……この体が、もう俺の言うことを聞かないんだ。腹が減っているんじゃない。もっと奥だ。奥が、ずっと開いたままだ。何を食っても、何を聞いても、塞がらない」
紙束を握る手が震えた。震えは次第に大きくなり、紙が音を立てた。
「誰かが歌っている声が聞こえると、そっちへ手が伸びる。満ちている者を見ると、胸の奥が疼いて、目が離せない。……いや、言うな。言うな、俺はまだ」
言葉が途切れた。セリオスは額を押さえ、うつむいた。長い沈黙の後、絞り出すような声が漏れた。
「……頼む。イリスを呼んでくれ。あの人の光を見れば、少しはましになる」
レイヴァスは頷き、仕切りの外へ声をかけた。イリスはすぐに来た。掌に絹のような柔らかな光を灯し、セリオスの胸の上にそっとかざす。男の呼吸が、わずかに整った。
「セリオスさん。ゆっくり、息をしてください。今日は私が、長く傍にいます」
「聖女。……すまないな。歌も歌えない男の世話を」
「歌えなくても、あなたはあなたです。光は細っても、まだそこにあります」
穏やかな声だった。だが、次の瞬間、セリオスの体が寝台の上で跳ねた。
目が見開かれる。焦点はどこにも合っていない。彼はイリスの掌の光を、食い入るように見つめた。その顔から、人を思いやる色が、潮が引くように消えていった。
「……その光。……満ちている。……くれ」
「セリオスさん」
「くれ、その光を。少しでいい。少しでいいから、俺の奥へ」
痩せた手が、信じられない速さで伸びた。イリスの腕を掴むのではない。掌の光そのものを掴もうとして、指が光の中へ突っ込まれる。イリスが一歩退き、光を閉じた。途端、セリオスは獣のような声を上げた。言葉の形をしていない、喉の奥から絞り出される叫びだった。
レイヴァスは間に体を入れた。セリオスの手が彼の胸を押し、腕輪のある腕へと滑る。爪が革の留め具を引っ掻いた。
「セリオス。俺だ。分かるか」
「……うるさい。歌が、聞こえない。お前の腕は、……重い。満ちている。なぜ、お前だけ」
力は痩せた体に似合わないほど強かった。だが、それは鍛えた者の力ではなかった。失われていくものの端を掴もうと、最後の何かを絞り出すような、壊れかけた力だった。レイヴァスはその腕を受け止め、崩そうとして止めた。骨が折れそうなほど、相手の腕は細かったのだ。
その躊躇の隙に、セリオスは寝台から転がり落ちた。四つ這いになり、それから壁際に立てかけてあった槍へ手を伸ばした。手入れの行き届いた、彼の槍だった。イリスが声を上げる。
「いけません、それは」
槍を掴んだ男の動きは、別人だった。起き上がる勢いのまま槍を回し、仕切りの布を引き裂いて、小部屋の外へ躍り出る。通路にいた介添えの女が悲鳴を上げた。レイヴァスは入り口の壁に立てかけてあった盾を掴み、厚刃の剣を引き抜いて追った。
治療所の前の広場は、既に混乱の只中だった。混乱の真ん中にいたのは、セリオス一人だった。
槍を構えた男が広場へ躍り出た途端、配給を待つ列は崩れ、荷を担いだ者たちが一斉に路地へ逃げた。荷車が横転し、布と乾いた食料が石の上に散らばる。子供を抱えた女が転び、老人が倒れた荷の陰に取り残された。誰もが、槍の穂先の届く範囲から離れようとしていた。その恐怖の速さが、倒れる者と踏まれる者を生んでいた。
セリオスはその真ん中で、槍を構えていた。
構えは美しかった。それが、たまらなく悲しかった。足運び、腰の据わり、穂先の静けさ。何十年も戦場で磨かれた型が、衰えた体を無理やりに英雄の形へ戻していた。穂先が、レイヴァスを捉える。
「……満ちている者から、もらう。歌を、……取り戻す」
槍が来た。
速い。衰弱していた男の突きではなかった。風を切る、疾風の槍そのものの突きだった。レイヴァスは盾を斜めに当て、穂先を受け流した。衝撃が左腕を内側から殴る。盾の重さが真ん中に集まり、辛うじて面が割れずに済んだ。二度目、三度目。連突きが盾を刻み、彼の足を一歩ずつ後ろへ追い込む。厚刃の剣で払おうとすれば、その分だけ懐が開く。速さでは、まだこの男に敵わなかった。
「レイヴァス、そいつ、目がもう」
声と共に、銀灰の髪が横合いから割り入った。ガルフだった。短槍がセリオスの槍の柄を叩き、軌道を逸らす。狼の耳は広場のあらゆる音を拾い、鼻は血と恐怖の匂いの中で、逃げ遅れた者の位置を嗅ぎ分けていた。
「治療所の前を空けるぞ。このままじゃ、怪我人が外へ溢れる」
「言葉が通じない。……だが、殺すな」
「分かっている。手加減が一番きつい戦いだ」
ガルフは短槍を低く構え、倒れた荷の陰に隠れていた子供を片手で引き起こして後ろへ放った。セリオスの槍がその背を狙い、ガルフは身を捻って穂先を爪で逸らす。肩口に血が滲んだ。それでも彼は、倒すためではなく道を開くために槍を回し続けた。逃げる者たちのための道だった。
レイヴァスは盾で老人を庇いながら、剣を横に薙いだ。刃ではなく腹で、セリオスの腕を叩くためだった。だが、男は紙のように身を翻し、槍の石突きでレイヴァスの脇腹を打った。熱い痛みが広がり、布が重くなる。受けて崩す型は、一対一でこそ冴える。相手が衰えを忘れた速さで懐へ入り続ければ、受ける順番すら定まらない。彼は盾を振って間合いを作り直した。まだ万全ではない。剣も盾も体の一部になるには、もう幾度かの戦いが要る。その代償を、今ここで血で払っていた。
セリオスの目は、レイヴァスの腕輪へ、繰り返し落ちた。
「なぜ、お前は持っている。なぜ、俺は失くした。……返せ。俺の分まで、お前が持っているんだろう」
「これは、託されたものだ。お前の歌とは違う」
「違うものか。光は、光だ。……くれ。くれれば、俺はまだ」
槍が低く薙がれ、レイヴァスの足元を襲った。彼は跳んで避け、着地の拍子に盾の縁を下から突き上げた。セリオスの顎先を掠め、男の頭が跳ねる。一瞬、動きが止まった。レイヴァスはその隙に懐へ入り、剣の柄を鳩尾へ打ち込もうとした。だが、男は止まったままではなかった。体を沈め、槍の柄を横へ払って彼の腕を弾き、そのまま後ろへ疾く退いた。急所を一つ掠めた程度では、落ちた英雄の足は止まらなかった。
治療所の入り口では、イリスが立っていた。
彼女は戦わない。その代わり、両手を掲げ、守りの光を広げていた。絹のような光の膜が治療所の前を覆い、運び込まれる負傷者と、逃げ込んだ子供や老人たちを内側に抱える。セリオスがそちらへ目を向けると、膜の揺らぎに合わせて、彼の喉が小さく鳴った。
「中へ。下がって、怪我人を奥へ。子供は私の傍から離れないでください」
落ち着いた声が、逃げ惑う人々の足を止めた。膜の内側に、小さな秩序が生まれる。介添えの者たちが負傷者を寝台へ運び、女たちが子供を抱き寄せた。だが、光を保つイリスの額には汗が浮かび、その光は使うほどに彼女自身の体力を削っていった。
セリオスの穂先が、その光を狙った。
彼は満ちているものに惹かれていた。柔らかな光の膜は、飢えた目には大きな輝きそのものに見えたのだろう。槍が唸りを上げて突き込まれる。光の膜が大きく凹み、イリスが小さく呻いた。
「させるか」
レイヴァスは駆けた。脇腹の痛みを踏み潰し、盾を前に突き出して穂先の横に体ごとぶつかる。金属の悲鳴。左腕の感覚が痺れて消えた。彼はそれでも盾を離さず、剣を下から跳ね上げて槍の柄を弾いた。セリオスがたたらを踏む。その顔に、一瞬だけ、元の男の困惑が戻った。
「……俺は、何を」
「セリオス。槍を下ろせ。まだ戻れる」
返事はなかった。困惑はすぐに、深い飢えの色に塗り潰された。男は槍を引き、身を翻した。その速さで、膜の外に倒れていた住人の腕へ手を伸ばす。住人が悲鳴を上げる。腕輪は、同意もなく外せるものではない。だが、飢えた指は留め具を千切ろうとしていた。
ガルフの短槍が飛び、二人の間に突き立った。
「そこまでだ、槍使い。これ以上は、英雄のやることじゃねえ」
セリオスは顔を上げた。その目に、ガルフへの認識はなかった。ただ、満ちている者への渇きだけがあった。槍が閃き、ガルフの肩口を深く掠める。血が飛んだ。ガルフは舌打ちし、牙を剥いて穂先を逸らして距離を取った。
「速え。痩せた分だけ、余計に速くなってやがる」
そのとき、どこからか風が来た。
広場の端の布が一斉に翻り、散らばった乾いた葉と埃が、セリオスの目を覆うように巻き上がった。男が目を細めた一瞬、穂先が僅かに逸れる。続いて、石の上に水が広がった。倒れた水壺の水ではなかった。広い範囲に薄く伸びた水が、セリオスの足元を滑らせ、その疾さの継ぎ目を一拍だけ奪ったのだ。誰の仕業かは、分からなかった。広場のどこを見回しても、魔法を使う者の姿はなかった。
レイヴァスは、その一拍を逃さなかった。
盾を捨てはしなかった。だが、重心を落とし、突き込まれる槍の柄を盾の面で受けながら内側へ滑り込んだ。力の流れが、彼の掌に伝わる。押す力、引く力、その境目にある僅かな緩み。彼は柄を掴み、体重を預けるように身を沈めて、男の足運びを崩した。セリオスが踏ん張る。その踏ん張りの上に、レイヴァスは剣の柄を重ね、人中の下、顎の付け根へ短く打ち込んだ。続いて、開いた鳩尾へ柄の尻をもう一度。男の体が大きく揺れ、膝が折れかけた。
彼は倒れかけた男の腕を掴み、関節の向きに沿って引き、槍を握る手を石の上へ押さえ込もうとした。あと少しで、武器だけは奪えた。だが、セリオスは押さえ込まれる寸前に、折れたはずの姿勢から信じられない力で身を捻った。痩せた肩が関節の締めをすり抜け、槍の石突きがレイヴァスの傷口を抉る。痛みに視界が白み、締めが緩んだ。その緩みを、男は見逃さなかった。
槍が抜き上げられ、レイヴァスは後ろへ転がった。ガルフが割って入り、短槍と爪で穂先を二度弾く。その間に、水はまた広がった。今度は、セリオスと治療所の間に、薄い水の帯が伸びていた。風がその表面を波立たせ、光の膜の揺らぎを映して返す。男は水の帯の向こうで立ち止まり、イリスの光と、レイヴァスの腕輪とを、交互に見比べた。羨みと妬みと、抑えの利かない渇きが、その顔でせめぎ合っていた。
「……なぜ、そっちばかり。なぜ、俺には」
呟きは、誰へ向けられたものでもなかった。
騒ぎは、長くは続かなかった。続いたのは、その後の静けさだった。
セリオスは、水の帯を前に足を止めたまま、やがて槍を引いた。一歩、二歩と後ろへ下がる。その目は最後まで光の方を向いていたが、足は別の方へ向いていた。居住区を抜け、奈落の方角へ下っていく、深い通路の方だった。誰に呼ばれたのでもない。だが、男の足取りには迷いがなかった。失った光を求める足が、光のある場所ではなく、暗い方へ、深い方へと向かっていく。その矛盾が、レイヴァスの胸に重く残った。
「逃げるぞ」
ガルフが駆け出しかけて、止まった。倒れた荷車の下で、住人の男が脚を挟まれて呻いていたのだ。ガルフは舌打ちし、荷車へ肩を入れた。レイヴァスもまた、脇腹を押さえて振り返る。追えば、ここに残る者を見捨てることになる。ここに残れば、男は行く。その二つは、同時に選べなかった。
一瞬の判断の間に、セリオスの背は通路の闇へ滑り込んだ。槍の穂先が最後に明かりを返し、それきり、姿は消えた。速さを誇った男の逃げ足は、追う者の足音が届く前に、深い方角の静けさへ溶けていった。
「くそ。……行かせるのか」
「今は、こっちだ。住人を死なせるわけにはいかない」
レイヴァスは荷車の反対側へ手をかけ、ガルフと共に力を込めた。車が僅かに浮き、介添えの者たちが男を引き出す。水の帯は、いつの間にか石の溝へ引き、跡形もなく消えていた。風も止んでいた。誰が助けたのか、と傍らの女が呟いた。レイヴァスは答えなかった。風と水をあれほど細く使う者を、下層で一人だけ知っていた。ルナーリアだ。だが、その名を口にできる根拠は、どこにもなかった。姿は、最初から最後まで、どこにもなかったのだ。
騒ぎが収まったのは、日が傾きかける頃だった。
広場には、散らばった荷と、倒れたままの荷車と、煙でも埃でもない、戦いの後の重い気配が残されていた。人々は光の膜の内側から、恐る恐る顔を出す。イリスは膜を解き、その場に座り込んだ。掌の光は消え、肩が小さく上下している。ガルフの肩の傷は、布で縛っても血が滲んだ。
レイヴァスは、深い通路の方角を長く見つめていた。
殺せなかった。いや、殺さなかったのか、殺すしかなかったのか、それすら分からないまま、男は闇へ行った。少し前まで歌を思い出そうと震えていた手が、今日は人の腕輪を千切ろうとし、聖女の光を掴もうとした。その男を、彼は止め切れなかった。剣聖を殺した手が、一人の落ちる者を、救うことも、終わらせることもできなかったのだ。
「……セリオス」
闇の向こうで、歌はもう聞こえなかった。聞こえるのは、負傷者の呻きと、子供の泣き声と、片付けを始める人々の押し殺したようなざわめきだけだった。下層の夕方の空気の中に、取り返しのつかない何かの匂いが、静かに混じり始めていた。




