# 第34話「鬼哭」
オーガストが下層の広場へ姿を現したのは、昼の配給が終わり、市場が夕方のざわめきへ移る頃だった。
先に気づいたのは音だった。人の声が、波が引くように端から止んでいく。荷を担いだ者たちが足を止め、店先の者たちが顔を上げ、通路の真ん中が、誰の指示もなく空いていった。レイヴァスはガルフとともに積み替え場へ続く坂の途中に立っていたが、その静けさの広がり方で、来る者の大きさを察した。
やがて、通路の折れ目から、男が現れた。
大きかった。身の丈は二間半に近く、肩の幅は大人が両腕を広げても届かないほどだった。赤い皮膚は昼の光の下でも沈んだ色を帯び、額の二本の角は、使い込まれた鉄のように鈍く光っていた。顔にも、腕にも、胸の開いた衣服の向こうにも、古い傷と新しい傷とが重なっていた。傷だらけという言葉が、誇張ではなくただの描写になる体だった。手には特大の金棒が提げられていた。振るうための道具というより、その男が持つことで初めて武器に見えるほどの鉄の塊だった。だが、男はそれを地面へ引きずりもせず、肩に担ぎもせず、ただ片手で静かに提げていた。力の使い方を知る者の持ち方だった。
その傍らを、一歩下がってバラキエが歩いていた。同じ鬼人族だが、団長よりは一回り小さく、穏やかな顔立ちをしている。大戦斧を背に負い、腕には名を記した板束と、配給の数を記す木札とを抱えていた。巨躯の熱の傍らで、冷静に周囲へ目を配る副団長の姿は、レイヴァスが辻で見たときと変わらなかった。熱を止める者は、熱の隣にいる。そういう配置だった。
広場の中央で、オーガストは足を止めた。逃げる者はいなかった。恐れていないからではない。恐れていても、この男の前では、背を向けて走ることの方が危ういと、誰もが本能で知っていたからだった。
そのとき、広場の端から、兵団の者たちが一人の若い獣人の男を引き立ててきた。男の腕の赤い腕章は、半分引きちぎれかけていた。
「昨日の運搬で、獣に怯えて荷を捨て、見張りの仲間を見捨てて逃げた者です。荷は半分失い、仲間は片脚に深手を負いました」
バラキエの報告は淡々としていた。オーガストは男を見下ろし、短く聞いた。
「仲間が倒れる音を、聞いたか」
男は答えられなかった。巨躯の手が伸び、腕章を残らず引き剥がした。
「勝てん相手から引くのは戦だ。だが、荷を捨て、隣の背を捨てて自分だけ引くのは逃げだ。……傷ついた者には、奥の寝場所と二人分の食い物を回せ。こいつは三日、配給を止める。次の運搬では先頭に立て。獣を引きつけ、皆が引く間を稼ぐのが役だ」
囮だった。若い男の顔から血の気が引いても、オーガストは目を逸らさなかった。
「稼げば、腕章は戻す。もう一度逃げれば、その場に置いていく。二度は拾わん。使えん者は、使える場所に置く。それでも使えんなら、切り捨てる。それが傭兵だ」
「団長、それでは」
バラキエが低く口を挟んだが、それきり言葉を飲んだ。団長の背を見上げる目には、熱の進みがまた速くなったことへの案じが、静かに沈んでいた。
集まってきている者たちがいた。獣人族の男たちが数人、耳と尾を緊張に揺らしながらも、目は熱を帯びていた。エルフの女が一人、壁際で腕を組み、値踏みするように団長を見上げていた。魔族の若者が二人、角と翼を折り畳んで、互いに小声で何か言い合っていた。竜人の老人が、鱗の混じった手で杖を握り、静かに列の後ろに立っていた。ドワーフの職人が一人、仕事着のまま、腕の太さを確かめるような目で金棒を見ていた。鬼人族の若者も三人いた。種族はばらばらで、年も、体の大きさも、背負ってきた暮らしも違っていた。共通しているのは、どこにも居場所のなかった者特有の、行き場のない力の匂いだけだった。
オーガストは、その者たちを一人ずつ見渡した。見下ろす目ではなかった。値段をつける目でもなかった。戦場で兵を見る目だった。使えるか、使えないかではなく、どこへ置けば生きるかを見る目だった。
「名乗れ、とは言わん」
声は、低く、広場の壁にぶつかって戻ってくるほどによく通った。大声ではなかった。だが、広場の端の子どもにまで届く声だった。
「ここへ来た者は、皆、どこかで要らんと言われた者だ。種族に、故郷に、主に、仲間に。理由は聞かん。俺も聞かれたことがない。……いや、嘘だ。聞かれたことは山ほどある。聞いたうえで、捨てられた」
笑いが、どこからか漏れた。苦い笑いだった。オーガスト自身も、唇の端をわずかに上げた。それは優しさの笑みではなかった。同じ傷を持つ者同士だけが交わせる、乱暴な合図だった。
「赫の兵団は、拾う場所だ。強き者を拾う。居場所のない者を拾う。種族で決めん。角があろうと、耳があろうと、鱗があろうと、翼が折れていようと、関係ない。見るところは一つだ。立てるかどうかだ。自分の足で立ち、隣の者の背を預かり、預かられた背を落とさない。それができる者は、誰でも入れる」
獣人の男の一人が、拳を握りしめた。エルフの女の腕組みが、わずかに緩んだ。言葉が届いている顔だった。レイヴァスは、広場の空気が変わっていくのを感じた。恐れだけで固まっていた空気に、別の熱が混じり始めていた。拾う、という言葉は、捨てられた経験のある者には、救いであると同時に、束縛でもある。
「ただし」
オーガストの声が、一つ沈んだ。
「人族と、巨人族は入れん」
ざわめきが、波のように広がった。だが、男はそれを手で制しもしなかった。ざわめきが収まるまで待ち、続けた。
「理由を飾らん。俺は、人間の旗の下で戦ったことがある。世界で一番大きな傭兵団を率いて、人間と巨人の戦争で、人間の側に立った。巨人は俺を裏切り者と呼び、石を投げた。それはいい。敵の恨みは、戦のうちだ」
金棒を提げた手に、わずかに力が入った。鉄の柄が、掌の中で軋んだ。
「だが、人間は違った。戦が傾いたとき、奴らは補給線を断ち、退路を塞ぎ、俺の団を敵の真ん中に置いて、自分たちだけ引いた。捨て駒、という言葉がある。あれは言葉じゃない。実際にやられた者だけが知る、地面の冷たさだ。団は壊滅した。生きて帰った者は、数えるほどだった。……俺は、その地面の冷たさを忘れん。忘れたことにして、一緒に飯は食えん。それだけだ」
広場は静まり返った。憎悪一色の演説ではなかった。むしろ、男は怒りを言葉の奥に沈め、沈めたまま話していた。だからこそ、言葉に重さがあった。恨みを抱えたまま、拾う場所を作った者は、そう多くはない。その違いを、集まった者たちは肌で感じていた。
「俺を恨むなら恨め。人族を入れんことで、損をするのは兵団も同じだ。それでも、線は線だ。曲げたら、拾った者たちへの嘘になる」
そのとき、広場の端から、一人の男が進み出た。
人族だった。年は三十に届かないほどで、背には使い込まれた剣を負い、手には自分の腕輪を握るようにしていた。採取帰りの格好だったが、足取りは真っ直ぐだった。男は集まった者たちの列の前まで来て、オーガストを見上げた。巨躯の前では、誰もが小さく見える。だが、男は目を逸らさなかった。
「団長。……俺は、上の集落で居場所がなくなった。派閥にも入れず、一人で採取をしている。強さには自信がある。種族で断るのは、兵団の言う、力で見るという話と違うんじゃないか」
広場の視線が、一斉に集まった。問いは、筋が通っていた。だからこそ、危うかった。レイヴァスの隣で、ガルフの耳がぴんと立った。
オーガストは、男をしばらく見下ろしていた。怒鳴りもしなければ、笑いもしなかった。やがて、彼はゆっくりと首を振った。
「違う、とは言わん。お前の言う通りだ」
「なら」
「だが、入れん」
声は穏やかですらあった。だが、そこには一片の揺らぎもなかった。
「お前が悪いんじゃない。お前個人に、恨みもない。だが、俺は人族と飯を食う場所を、自分の団とは呼ばん。それが俺の線だ。お前の力を疑ってはいない。……だからこそ、はっきり言う。よそへ行け。無駄に待たせる方が、残酷だ」
男の握った手が、震えた。屈辱と、納得できない思いとが、その顔に浮かんでは消えた。何か言い返そうとして、口を開き、結局閉じた。金棒の男の言葉には、言い返せる隙がなかった。冷たかった。だが、その冷たさは、嘘をつかない冷たさだった。希望を持たせて引き留め、後で捨てる冷たさとは、質が違っていた。
バラキエが、そのとき静かに歩み出た。彼は板束の中から一枚の木札を取り、人族の男の前に差し出した。
「東の積み替え場の先に、種族を問わない採取の組がある。そこの頭の名と、紹介の印だ。団には入れられないが、行き先まで断つつもりはない。……頭には、私から話を通しておく」
男は木札を見つめ、やがて受け取った。礼も言わずに背を向けて歩き出したが、その足取りは、来たときよりはわずかに定まっていた。断ることと、切り捨てることは違う。その違いを、副団長は実務で示していた。団長の線を守りながら、線の外へ出た者を路頭に迷わせない。それが、この兵団がただの怒りの集まりで終わらない理由なのだと、レイヴァスは思った。
オーガストは、そのやり取りを咎めなかった。むしろ、当然のこととして見ていた。熱を持つ男と、熱を実務へ変える男。その二人が揃って、初めて兵団は形になっていた。
演説は、そこからまた続いた。
「入った者には、分け隔てをせん」
オーガストは集まった者たちへ向き直った。
「食い物は、働きに応じて分ける。寝場所は、傷ついた者を先に奥へ置く。戦では、種族で後ろへ下げることはせん。強い者は前に立つ。それだけだ。そして、入った者の背は、俺が預かる。俺の団を捨て駒にする真似は、誰にもさせん。二度とだ」
最後の言葉に、込められたものの重さは、誰の耳にも届いた。二度と、という言葉は、過去へ向けられた言葉だった。その過去を知らない者でも、言葉の重さだけは受け取れた。竜人の老人が、ゆっくりと頭を下げた。獣人の男たちは、互いに顔を見合わせ、それから一歩ずつ、列へ進み出た。エルフの女はまだ腕を組んでいたが、その場を離れようとはしなかった。残る、という選択の途中だった。
バラキエが、進み出た者たちの名と種族と、できる仕事とを、板へ次々に記していった。声は穏やかで、手際は速かった。戦える者、荷を運べる者、見張りのできる者、料理のできる者。兵団は戦うだけの集まりではない。暮らしそのものを抱える集まりだということが、その受け付けの光景だけで伝わってきた。
ガルフが、レイヴァスの傍らで小さく息を吐いた。
「……種族じゃなく、力で見ると言い切る場所が、本当にあるとはな」
「どう見る」
レイヴァスが問うと、ガルフは腕を組み直し、広場から目を離さなかった。
「一族って言葉は、重い。生まれただけで背負わされて、背負っただけで許されることもある。だが、あの男の場所は違う。生まれは関係ねえ。立てるかどうか、だけだ。……乱暴だが、嘘はねえ」
ガルフ自身、種族だけの信頼関係に疑問を持つ男だった。同族だから信じられる、という理屈の危うさを、身をもって知っている。その彼にとって、オーガストの言葉は、乱暴な分だけ正直に聞こえたのだろう。ガルフの目は、しばらく広場から離れなかった。
やがて、受け付けが一段落し、集まった者たちがバラキエの案内で奥の通路へ動き始めたときだった。
オーガストの視線が、動いた。
広場を横切り、坂の途中に立つレイヴァスを、まっすぐに捉えた。レイヴァスは、その視線から目を逸らさなかった。逸らせば、何かが決まってしまう気がした。
巨躯の男は、金棒を提げたまま、一歩だけこちらへ踏み出した。距離はまだ遠い。だが、その一歩で、広場の空気は再び張り詰めた。バラキエの手が止まり、ガルフの肩に力が入るのが、隣にいても分かった。
「お前が、剣聖殺しか」
声は、広場全体へ向けられたものではなかった。レイヴァス一人へ向けられた、低く、静かな問いだった。
「ああ」
「四分の三が人族、だったな」
「そうだ」
「惜しいな」
オーガストは、それだけ言った。惜しい、という言葉には、幾つもの意味が重なっていた。力は買う。だが、線の内側には入れない。入れる気もない。そういう宣告だった。同時に、人族というだけで男の力そのものまで否定はしない、裏返しの評価でもあった。その評価の仕方が、この男の器だった。怒りと評価を、混ぜずに別々に置くことができる男だった。
「お前の剣の話は聞いている。受けて崩す型、だったな。……いい型だ。捨て駒にされたことのある者は、来たものを全部受け止めるしか、生きる道がなかったからな」
レイヴァスは、すぐには答えなかった。男の言葉は、彼の戦い方を、彼自身とは違う場所から言い当てていた。領地の民を守るために受け続けた戦いと、戦場に置き去りにされた男の戦いとが、型という一点で重なっていた。その重なりが、かえって二人の間の距離を際立たせた。似ているからこそ、同じ場所には立てない者がいる。
「あんたの団には、入るつもりはない」
レイヴァスは言った。
「だが、住人の道を塞ぐなら、話は別だ」
「道か」
オーガストは、鼻の奥で笑った。怒りの笑いではなかった。
「道は、使う者のものだ。塞ぐつもりはない。だが、俺の者たちが通る道を、よその旗に明け渡すつもりもない。……邪魔をしなければ、剣を交える理由はない。邪魔をすれば、別だ」
「そのときは、受け止める」
「そうだろうな」
男は、金棒を軽く持ち直した。戦いの構えではなかった。ただ、話は終わった、という合図だった。彼は背を向け、奥の通路へ歩き出した。その背は、傷だらけで、大きくて、どこか、捨てられた者たち全員の背を一人で背負っているように見えた。バラキエが小走りに追い、明日の配給の割り振りを小声で確認していた。巨躯は頷き、通路の闇へ消えた。
広場のざわめきが、少しずつ戻ってきた。だが、戻ってきたざわめきは、男が来る前とは質が違っていた。新しい列に加わった者たちの熱、断られた者の残した沈黙、そして剣聖殺しと鬼哭が言葉を交わしたという事実が、口から口へ広がり始めていた。
ガルフが、ぽつりと言った。
「恐ろしい男だな。……だが、悪党の目じゃなかった」
「ああ」
レイヴァスは、男の消えた通路を見つめたまま答えた。
「あれは、拾う側の目だ。拾われたことのない者の目でもある」
夕方の明かりが、縦穴の壁を赤く染めていた。赤い腕章の兵団は、下層の暮らしの真ん中へ、確かに根を下ろし始めていた。その根が、住人を支えるものになるのか、均衡を崩すものになるのかは、まだ誰にも分からなかった。ただ一つ確かなのは、あの巨躯が立つ場所では、もう誰も、目を逸らして通り過ぎることはできないということだった。




