# 第33話「ほつれる光」
治療所脇の静養の小部屋は、昼でも薄暗かった。
天井のひびから漏れる明かりの結晶の光が、壁のくぼみに置かれた水差しを照らしている。レイヴァスが布をくぐって入ると、黴と薬草と、長く寝た者の熱の匂いが鼻をついた。セリオスは狭い寝台に横たわったまま、目を開けていた。だが、その目が天井を見ているのか、もっと遠くを見ているのか、傍からは判別がつかなかった。
レイヴァスが中層から戻ってから、まだ数日しか経っていない。その数日の間に、男の衰えは目に見えて深まっていた。頬はさらに窪み、首の筋が浮き、寝台の布を握る手は、骨と皮ばかりになっていた。以前はそれでも上体を起こして粥を口に運ぶことができた。今は、イリスが匙を運ばなければ、食事そのものが進まなかった。
「レイヴァスか」
掠れた声だった。喉の奥で空気が擦れる音が混じっている。
「ああ。様子を見に来た」
「様子も何も、見ての通りだ」
セリオスは笑おうとしたが、咳に変わった。浅く、乾いた咳だった。レイヴァスは水差しから椀へ水を注ぎ、男の頭の下へ手を回して、わずかに持ち上げた。椀の縁に唇が触れ、水が一口だけ喉を下った。それだけで、男の額には汗が滲んだ。一口の水を飲むことが、今の彼には戦の後の行軍ほどの労になっていた。
傍らではイリスが盆の上の布を畳んでいた。彼女の動きはいつも通り静かだったが、盆の端に置かれた歌の紙束へ、ときどき目を落としていた。紙束は男の枕元から少し離れた場所へ移されていた。本人が、もう自分では届かない場所へ置いてくれと頼んだのだと、レイヴァスは入る前に聞いていた。近くにあれば手を伸ばし続け、届かない自分を確かめ続けてしまうからだという。
「今朝は、起き上がれましたか」
イリスが穏やかに問うた。
「起き上がったつもりだった。だが、体は寝台に残っていた」
セリオスは自嘲するように言った。
「頭の中では、もう立っているんだ。槍庫へ行って、穂先を選んで、庭で二、三度振る。……だが、目を開けると、まだここだ。体が、頭に付いてこない。いや、逆か。頭の方が、置いていかれているのかもしれない」
レイヴァスは寝台の脇の低い腰掛けに腰を下ろした。男の手が、布の上をゆっくりと這った。何かを探す手つきだった。
「槍の重さが、分からなくなってきた」
「重さが」
「ああ。目を閉じて、思い出そうとするんだ。俺の槍は、柄の真ん中より少し先に重心があった。突くときは、重さが腕を連れていってくれた。だがこの頃は、その重さが思い出せない。軽かった気もするし、石のように重かった気もする。……自分の手で十五年も握ってきた物の重さが、分からないんだ」
男の指が、空を掴んで閉じた。そこにあるはずの柄は、なかった。
「怖いのは、痛みじゃない。減っていくことでもない。輪郭が、薄くなることだ。俺はどんな男だった。どんな声で笑って、どんな顔で怒った。兵の前で何を言った。……そういうものが、端から霧に溶けていく」
イリスは畳んだ布を置き、寝台の傍らに膝をついた。掌に小さな光を集め、男の胸の上へそっとかざした。回復の光ではない。内側の冷えを押さえ、呼吸を楽にするための、支える光だった。だが、その光でさえ、以前より届きにくくなっているようにレイヴァスには見えた。光が男の体に触れる手前で、目に見えない何かに吸われ、薄まっていくような気がした。
「光は、どう見える」
レイヴァスが小声で問うと、イリスはしばらく黙って光の行方を見つめ、それから静かに答えた。
「あの方の光は、もともと槍の穂先のようでした。鋭く、真っ直ぐで、澄んでいたんです。善い輝きは絹のように柔らかく、苛烈な輝きや悪名は棘のように突き刺して見えますが、あの方のは武器そのものの光でした。……今は、その光が先から細り、糸がほつれるように解けていきます。解けた先は、もう戻りません。束だったものが、一本、一本、離れていく。取り立てに抗う力が弱まり、光そのものが失われていっているんです」
「まだ、灯っているのか」
「灯っています」
イリスは迷わずに言った。だが、その声は以前ほど張ってはいなかった。確信を口にすることと、確信を持ち続けるために力を使うこととは、別になっていた。
「真ん中には、まだ芯があります。細くても、真っ直ぐな一筋が。それがある限り、あの方は、あの方です。……ただ、その周りを支えていたものが、日に日に少なくなっているのは、隠せません」
セリオスが、目を閉じたまま笑った。聞こえていたのだろう。
「槍の穂先、か。……穂先だけ残って、柄が朽ちていく槍だな。突くことも、支えることもできん」
「そんな言い方は」
「いいんだ、聖女。あんたの目が正直なのは、助かる。慰めで光が見えるようにはならんだろう」
男の呼吸が、少し乱れた。イリスは光の位置をずらし、呼吸に合わせて掌をゆっくりと上下させた。やがて呼吸は落ち着いたが、男の顔の疲れは深まるばかりだった。
小部屋の外では、治療所の昼のざわめきが続いていた。包帯を巻く音、水を汲む音、痛みを訴える者の声に聖女の仲間が応える声。だが、小部屋の中だけは、音が吸い込まれるように静かだった。レイヴァスは、粥の椀が傍らの台に置かれているのを見た。半分ほど減って、それ以上は進んでいなかった。
「食えていないのか」
「食っている。口に入れて、飲み込んでもいる。だが、減るんだ」
セリオスが言った。
「前にも言ったな。穴の空いた桶だ。今は、その穴が大きくなっている。朝に粥を食べても、昼にはもう底が見える。腹の話じゃない。胸の奥、背骨の裏あたりに、冷たい空洞がある。そこへ、全部持っていかれる。眠れば眠るほど、減る気さえする」
「取り立てか」
「そうだろうな。一日分払って、夜が明ける。だが、入ってくる分がない。歌われていた頃は、誰かがどこかで歌うたびに、ほんの少しずつ、俺の足場が固まった。今は、固めるものがない。ただ、削れるだけだ」
男は目を開け、レイヴァスの腕を見た。その視線に、レイヴァスは覚えがあった。見舞い人の腕輪を渇くように見る目だ。以前より、その熱は露わになっていた。隠す力が、男の中から減っていた。
「……すまん。また、見てしまった」
セリオスは目を逸らした。声が震えた。
「欲しいわけじゃない。あんたの輪が欲しいんじゃないんだ。ただ、満ちているものを見ると、こっちの空洞が疼く。羨むだけじゃないんだ。腹の底では妬んでもいる。あんたの光を分けてもらえたら、奪えたら、どれだけ楽かと考える一瞬がある。飢えってのは、そういうものだ。理屈で黙らせられない。……情けない。人の物語を羨むなんて、槍使いのすることじゃない」
「羨むこと自体は、罪じゃない」
レイヴァスは言った。
「輪に手を伸ばしていない。それで十分だ」
「今は、だ。明日もそう言えるかは、分からん」
その正直さが、かえって重かった。セリオスは自分の中の変化を、誰よりも正確に見ていた。だからこそ、恐れも正確だった。衰弱は体だけを奪うのではない。自分が自分でなくなる過程を、意識の側から見続けさせる。それが、この綻びの最も残酷なところだった。
イリスが、そっと口を挟んだ。
「手を伸ばしたくなったら、その前に私を呼んでください。夜中でも、です。飢えは、一人で抱えると、別の声に聞こえてきます。誰かと話している間は、少しだけ遠ざかりますから」
「別の声、か」
セリオスは呟いた。その言い方に、何か引っかかるものがあったが、彼はそれ以上は言わなかった。
レイヴァスは自分の腕輪に目を落とした。二重になった輪が、薄暗い光の中で鈍く光っていた。自分の光のことを、彼は考えずにはいられなかった。イリスが見た、絹と棘のせめぎ合う光。領民の敬慕と、剣聖殺しの悪名。どちらも、今はまだ外で語られている。だが、どちらか一方が途切れたらどうなるのか。敬慕が先に擦り切れれば、棘だけが残る。悪名が形を変えれば、足場そのものが崩れる。セリオスのように一つの歌に支えられた光ではない分、崩れ方さえ読めなかった。
「俺の光も、定まっていない」
レイヴァスは、ぽつりと言った。
「お前は、診てもらっているんだろう」
「ああ。絹のような光と、突き刺すような光が、明滅しているそうだ。褒められたものじゃない」
「だが、二つある」
セリオスが言った。
「一つの歌が止めば終わる俺と違う。……羨ましい、とは言わん。引き裂かれる苦しさは、俺には分からんからな。ただ、一つ言える。どちらの物語も、外の人間の口次第だということだ。俺たちは、ここに閉じ込められて、向こうの口の開き方で細ったり太ったりする。人形の糸みたいなものだな」
「糸なら、切ることもできるはずだ」
「切って、どうする。糸が切れた人形は、立てなくなる。……少なくとも、今の俺はそうだ」
会話は、そこで途切れた。男の瞼が重く下り、浅い眠りの気配が訪れた。だが、眠りは休息には見えなかった。眠っている間も、取り立ては止まらない。目を閉じることは、減っていく自分から目を逸らすことでしかなかった。
昼を過ぎて、レイヴァスは治療所の受付の側で、別のざわめきに気づいた。
水を汲みに来た女が、イリスの仲間に小声で何か尋ねていた。自分の夫の名が、外でまだ語られているかどうかを確かめる術はないか、という問いだった。傍らでは、採取帰りの男が、故郷への便りを出す値段を何度も聞き直していた。以前なら笑い飛ばされたであろう値段に、真剣な顔で配給券を数えている。便りは品物を運ぶだけではなかった。自分の名を、外の誰かの記憶へもう一度置いてくるための、細い綱でもあった。
治療所の隅では、若い囚人が自分の腕輪を布で磨いていた。磨いたところで格が上がるわけではない。それでも、手を止められなかったのだろう。磨く仕草そのものが、不安への応答になっていた。
空気は、変わり始めていた。セリオスの衰弱は、もはや一人の男の不幸ではなかった。下層の住人の多くが、薄々気づいていたのだ。外で語られなくなれば、誰でもああなる。派閥に属していようと、無所属だろうと、剣が強かろうと弱かろうと、関係がない。歌が止み、噂が途切れ、名が人の口から落ちた瞬間から、取り立てだけが残る。その理は、あまりに静かで、あまりに公平で、だからこそ逃げ場がなかった。
「この頃、似た相談が増えました」
イリスが、レイヴァスの傍らで小さく言った。
「自分の光を見てほしい、という方が。……私に見えるのは、今の光の様子だけです。外で何が起きているかまでは、分からないのに。それでも、人は確かめたくなるんですね。自分の足場が、まだあるかどうかを」
「答えて、どうなる」
「安心する方もいます。不安になる方もいます。どちらでも、私は正直に伝えるしかありません。嘘の安心は、綻びを早めるだけですから」
彼女の疲れは、目の下に薄く影を落としていた。セリオス一人の世話だけではない。増えていく相談、減らない患者、そして見えすぎる目。聖女の力は、戦う力ではない分、こういう日々に少しずつ削られていく。それでも彼女は、治療所を離れなかった。弱者を診ることが、彼女自身の物語であり、足場でもあるのだと、レイヴァスには分かっていた。
「無理をするな、とは言わない。だが、倒れるな」
「ええ。倒れません。……倒れたら、診る者がいなくなりますから」
イリスは微かに笑った。笑顔の奥に、祈りのときと同じ芯があった。諦めない、という彼女の言葉は、セリオスにだけ向けられたものではなかった。治療所へ来るすべての者へ、そして自分自身へ向けられた言葉でもあった。
夕方近く、レイヴァスはもう一度、小部屋へ顔を出した。
セリオスは起きていた。いや、眠れなかった、という方が正しかったのだろう。彼は枕元の壁に片手を当て、指先で壁の冷たさを確かめるようにしていた。歌の紙束は、昼と同じ場所にあった。彼はもう、紙に手を伸ばそうとはしていなかった。
「文句がな。また、一つ出てこなくなった」
レイヴァスが入ったことに気づき、男が言った。
「三節目の、丘を越える場面だ。昨日までは言えた。今朝からは、口の先まで来て、消える。覚えているはずのものが、口の中でほどける。……歌う者がいなくなれば、歌はこうやって死ぬんだな。俺の中でまで、死にかけている」
「書き留めてある」
「紙は残る。だが、紙の上の文句は、俺の声じゃない。俺の息で歌われてこそ、俺の歌だった。……まあ、いい。紙まで消えたわけじゃない」
彼は壁に当てた手を下ろし、天井を見上げた。しばらく沈黙が続いた。治療所の音も、夕方には少し遠くなっていた。水場の音、遠くの市場のざわめき、そして縦穴の壁を伝う、かすかな風の音。
そのとき、セリオスの耳が、わずかに動いた。
レイヴァスは初め、気のせいだと思った。だが、男の顔から、確かに表情が抜け落ちた。目は開いたまま、焦点は天井のどこにも合っていなかった。代わりに、頭がほんの少しだけ傾いた。音を聞き分けようとする者の傾き方だった。耳を澄ます方向は、決まっていた。治療所の壁の向こう、下層の通路が折れて、さらに深い方へ下っていく方角だった。
「セリオス」
呼びかけに、男はすぐには答えなかった。数えるほどの間があって、彼は乾いた唇を動かした。
「……今、何か」
「何も聞こえない」
「そうか。……俺にも、聞こえたわけじゃない。ただ」
男の手が、布を弱く握った。
「静かすぎると、奥の空洞が、向こうへ引っ張られるような気がするんだ。深い方へ。……気のせいだ。飢えた男の、気のせいだよ」
彼はそう言って目を閉じた。だが、閉じた瞼の下でも、耳だけはしばらく、深い方角へ向いたままだった。レイヴァスは腰掛けから立ち上がれずに、その横顔を見守った。受けて崩す型では、受け止めるべきものが何もなかった。攻めてこない綻びは、剣でも盾でも受けられない。ただ、人の輪郭が少しずつ薄くなり、その薄くなった場所へ、どこか遠くの静けさが入り込んでくる。それを、彼はどうすることもできなかった。
小部屋を出ると、夕方の通路はもう冷えていた。レイヴァスは治療所の布を下ろし、背後の小部屋を一度だけ振り返った。中からは、何の音もしなかった。歌も、咳も、寝返りの音さえも。その無音が、昼のどの言葉よりも長く、彼の耳に残った。




