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英雄の監獄カルナヴェイル  作者: 那貴


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# 第32話「辻の戦い」

衝突は、便の出る三日前の昼に起きた。

 

 レイヴァスは、ドーランと路の細部を詰める約束の前に、自分の目で辻の様子を確かめようと、ガルフと二人、東の積み替え場へ続く道を歩いていた。昼の光は擂鉢の底まで届かず、岩壁の明かりの結晶が薄い白さを与えているだけだった。それでも行き交う荷車の数は朝より増え、人の声も戻りかけていた。睨み合いは続いていても暮らしは止まらない。そのはずだった。

 

 積み替え場の手前、二つの道が交わる辻に差しかかったとき、ガルフの耳が倒れた。

 

「鉄の音だ。……数が多い」

 

 辻の向こうの広場で、荷車が二台、進路を塞ぐように斜めに止まっていた。一台は深層寄りから上がってきた荷で、塩袋と油壺と干し肉の束が積まれている。もう一台は空で、倉の方へ戻るはずの車だった。その二台を挟んで、赤い腕章の兵たちと、三本牙の若い衆とが、得物を手に向き合っていた。

 

 人数は、赤い側が八人。三本牙の側は十一人。以前、倉に近い通路で見た小競り合いとは訳が違った。昼の広場でこれだけの人数が得物を構えれば、もう言い争いでは済まない。周囲では運び手たちが壁際に逃げ、原住種の番人が荷の札を胸に抱えて立ち尽くしていた。

 

「順は、こちらが先だ。場の外まで荷を運んだのは俺たちだ」

 

 赤い腕章の若い兵が言った。獣人族の男で、長棍を構え、腕章の結び目が汗で濃く赤く見えた。

 

「優先は獅子の取り決めだ。何度言わせる」

 

 三本牙の若い衆の先頭が、短槍を突きつけた。獅子に近い血の男で、鬣のような髪が怒りで逆立っていた。

 

「新参が、場を預かるだけならまだしも、順まで書き換えるのか。それに、脇道の件はどう落とし前をつける」

 

「書き換えてねえ。運んだ荷を、先に倉へ入れる。それだけだ。脇道の件なんざ、知らねえ」

 

「印を奪われて、知らねえで済むか」

 

 言い合いの熱は、言葉の正しさとは関係なく上がっていた。荷の順だけの話ではなかった。奪われた印と、傷つけられた名誉が、若い衆の言葉の端々に混じっていた。どちらも退けば、自分の旗の顔が潰れる。そういう退けなさが、得物の柄を握る手に余計な力を込めていた。

 

 最初に動いたのは、荷車だった。

 

 空の車の引き手が騒ぎから逃げようと車を引いた。その車輪が石畳の溝にはまり、車体が大きく傾いだ。積まれていたわけではない。だが傾いた車の陰で誰かの足が滑り、肩がぶつかった。そのぶつかり方が、どちらかの侮辱に読まれた。

 

 短槍が跳ね、長棍がそれを払った。乾いた音が広場に響いた瞬間、辻の戦いは始まっていた。

 

 

 レイヴァスは、荷車と番人の前に出ていた。

 

「車に触れるな。番人に手を出すな」

 

 叫ぶのと同時だった。三本牙の若者の一人が赤い側の兵に突きを放ち、その兵が棍で受け損ねてよろけた。よろけた先が、原住種の番人の立つ壁際だった。レイヴァスは盾を前に出し、二人の間へ体を滑り込ませた。

 

 棍の一撃が、盾の面を叩いた。

 

 重かった。新しい盾は重さが真ん中に集まっている。受けの角度が合えば力は面で逃げる。だが彼の角度は半分だけ遅れていた。衝撃は盾の縁から左腕へ抜け、肋の打ち身へ火花のような痛みとなって走った。膝が沈みかけたのを、彼は歯を食いしばって止めた。

 

「レイヴァス」

 

「大丈夫だ。……下がれ、番人は俺の後ろへ」

 

 彼は盾を戻し、剣を抜いた。厚刃の剣は鞘を出るだけで腕にずしりと来た。振り回す剣ではない。受けて、崩して、終わらせる剣だった。だが広場の戦いは、一対一の型を待ってはくれなかった。

 

 右から、赤い側の魔族の兵が短剣で斬りかかった。盾の死角から、下から掬うような嫌らしい軌道だった。レイヴァスの目は軌道を捉えた。だが体が目の速さに追いつかなかった。彼は盾を無理に下げ、短剣を縁で受けたものの、体勢が左へ流れ、背が荷車の枠にぶつかった。その拍子に左の脇腹へ棍の先が掠め、革の上着の下で肉が鈍く潰れる感触があった。新しい傷は深くなかったが、息が一瞬詰まった。

 

 それでも、相手の踏み込みは読めていた。二歩目が深すぎた。前のめりになった肩と、浮きかけた踵。レイヴァスは退かなかった。剣の腹で相手の短剣を持つ腕を下から押し上げ、刃の線を空へ外す。空いた懐へ半歩踏み込み、剣の柄頭を鳩尾へ短く打ち込んだ。兵の息が止まり、上体が折れたところへ、今度は柄頭を顎の下へ突き上げる。頭が跳ね、目が虚空を泳いだ。膝が崩れ、短剣が石畳へ落ちる。倒れる相手を、彼は荷車の枠へもたれさせて止めた。殺してはいない。だが、しばらく戦える体でもなかった。

 

 崩しは決まった。だが彼の肩にも限界に近い軋みが残り、脇腹の熱が呼吸のたびに広がった。稽古場の半拍の遅れは、実戦では傷になって返ってくる。そのことを、彼は思い知った。

 

 ガルフは、反対側で戦っていた。

 

 狼の勇者は短槍を短く持ち、突くのではなく、払い、止め、間合いを割るために使っていた。三本牙の若者が二人同時に槍を向けたとき、ガルフは後ろへ跳ばず、槍の穂先の間へ体をねじ込んだ。爪の生えた手で一人の槍を掴み、もう一人の足元へ短槍の石突きを打ち込んだ。二人とも倒れはしなかったが構えが崩れ、互いの槍が絡んだ。

 

「同じ獣人の槍で、身内を串刺しにする気かよ」

 

 ガルフの叱声は、低く腹に響く唸りだった。彼は遠吠えを使わなかった。あの力は格下の者の戦意を奪う。だが相手を間違えれば、逃げ場を失った者の刃が番人や運び手へ向かう。ガルフは力の使いどころを間違えない男だった。

 

「ガルフ。お前は、どちらの味方だ」

 

 三本牙の若者の一人が、血走った目で叫んだ。

 

「獣人なら、獅子の側に立て」

 

「俺は、種族で立つなって言ってんだろうが」

 

 ガルフは短槍を返し、若者の突きを穂先で受け流した。そのまま槍の柄を掴み、引き寄せるのではなく押し戻した。

 

「お前らの喧嘩に、荷と番人を巻き込むな。それだけだ。それが分からねえなら、相手は赤い連中じゃねえ、俺だ」

 

 戦いは、広がりかけていた。

 

 赤い側の兵の一人が、倒れた仲間を見て熱くなり、長棍を大きく振りかぶった。その一撃はレイヴァスの盾の正面に来た。今度は角度が合った。彼は足裏で石畳を掴み、盾の面で力を真っ直ぐ受けた。だが受けて終わりにはしなかった。棍の勢いが死ぬ前に、彼は棍に沿って半歩滑り込み、左手の盾で相手の前腕を荷車の枠へ押し付けた。右手は剣を捨てずに逆手へ持ち替え、相手の手首を掴んで引き捻る。肘が不自然な向きに極まり、兵の顔が歪んだ。レイヴァスは自分の体重を沈め、相手の崩れた体を膝ごと石畳へ連れていった。倒れた背へ膝を当て、極めた腕をそのままに全体重で押さえ込む。兵が暴れるたび、自分の肋も悲鳴を上げた。それでも彼は離さなかった。

 

「棍を離せ。離せば、腕は折らずに済む」

 

 指が開き、長棍が転がった。彼はすぐに押さえを解き、後ろへ下がった。兵は腕を抱えてうずくまり、もう立ち上がって戦う気力はなかった。徒手に近い距離でも、彼の型は崩れなかった。相手の力を受け、重心を外し、極めるところで極める。それが彼の戦いだった。

 

 だが、型が通じない相手もいた。

 

 三本牙の側から、熊族の大男が盾を構えて突っ込んできた。厚い革鎧に身を包み、その突進は小さな荷車のようだった。レイヴァスは足元を読んだ。前足の踏み込みに合わせて重心を外そうと、盾を斜めに当て、相手の進む先へ体をずらした。崩しは、四半分しか決まらなかった。大男の下半身は岩のように重く、傾いだのは上体だけで、すぐに踏み止まった。次の瞬間、大男の肩が盾へ叩き込まれた。角度が崩れ、衝撃が左腕から肋へまともに抜けた。レイヴァスの体は荷車の車輪へ押し付けられ、膝が折れかけた。重さと厚みに正面から付き合えば、彼の体が先に壊れる。相性の壁は、歴然としていた。

 

 そこへガルフの短槍の柄が横から割り込み、大男の盾の縁を叩いて進路を逸らした。

 

「無理すんな。そいつは、お前の型の外だ」

 

 レイヴァスは息を吐き、盾を構え直した。左腕の痺れは指先まで残り、剣を持つ右手の握りも汗で滑り始めていた。

 

 このままでは、誰かが死ぬ。倒れた者を踏む足、興奮で狙いの外れた刃、油壺の割れる音。どれか一つが引き金になって、倉と配給所では血を流さないという長年の線が破れる。レイヴァスは、その線の上に自分が立っていることを知っていた。だが彼の声だけでは、十一と八の熱は止まらなかった。

 

 

 戦いの音が、ふいに、半分になった。

 

 積み替え場の方から、地を踏む重い足音が近づいていた。一歩ごとに石畳の埃が小さく跳ねた。広場の入口に現れた影は、人の背丈の常識をやすやすと裏切っていた。

 

 鬼人族の男だった。身の丈は八尺に近く、赤みがかった皮膚に、額から二本の角が伸びている。だが、その顔立ちは戦いの場に現れた者とは思えないほど穏やかだった。目尻は下がり、口元には怒りの色がない。三十代の前半に見える顔で、彼は広場の全員を順にゆっくりと見渡した。

 

 肩に担がれた大戦斧は、男の体格に合わせた異様な大きさだった。柄は太く、刃は荷車の車輪ほどもある。だが彼は、その斧を振り上げなかった。広場の真ん中まで進むと、斧の石突きを石畳へ、とん、と置いた。その小さな音が、なぜか鉄のぶつかる音よりも大きく響いた。

 

「そこまでだ」

 

 声は低く、よく通った。怒鳴ってはいなかった。怒鳴る必要のない声だった。

 

「赫の兵団は、得物を下ろせ。……今だ」

 

 赤い側の兵たちが、一斉に止まった。熱くなっていた若い獣人の兵も長棍を下ろし、半歩下がった。叱られたからではない。その男の声には、従うことが当たり前だという積み重ねられた何かがあった。レイヴァスは、その一瞬の整い方に、以前通路で見た規律を思い出した。あの規律の源が、ここにいた。

 

「バラキエ副団長」

 

 赤い側の年かさの兵が、小さく頭を下げた。

 

「場の順を、獅子の若い衆が」

 

「言い分は後だ」

 

 バラキエと呼ばれた男は穏やかに言った。その穏やかさは、若い兵の熱を冷水のように静かに冷ました。

 

「倒れた者は起こせ。割れた壺があるなら、数を数えろ。戦いの最中に荷の数を忘れた兵は、兵団の名を口にするな」

 

 兵たちはすぐさま動き出した。倒れた者へ手を貸し、傾いた車を起こし、油壺の数を読み上げる声が、戦いの後の広場に不思議なほど日常の響きを取り戻させた。

 

 バラキエは、次に三本牙の側へ向き直った。大戦斧はまだ石畳に置かれたままだった。武器を置いたまま相手に向き合う。その姿勢そのものが、言葉だった。

 

「獅子の若い衆。言い分は聞く。だが、聞くのは得物を収めてからだ。……あんたらの長は、倉の前で血を流すなと、若い者に教えてはいないのか」

 

 三本牙の先頭の男が唇を噛んだ。その一言は侮辱ではなかった。元締め自身の決めた線を、そのまま返されただけだった。男は短槍を下ろし、後ろの若い衆へも手で下げる合図を送った。十一人の得物が、ばらばらと、しかし確かに下がった。

 

「順の話は、番人を交えて、今ここで決める」

 

 バラキエは壁際の原住種の番人を招いた。番人は荷の札を抱えたまま、おずおずと前に出た。

 

「深層寄りの荷は今日中に倉へ入れなければ油が傷む。獅子の荷は明日の朝の配給に使う。……なら、今日は深層寄りを先に通し、獅子の荷は今夜のうちにこの場の棚へ先に置く。棚の場所は、獅子の取り分を割らない。違うか」

 

 番人は札をめくり、短く頷いた。その頷きが双方の顔を立てた。赤い側は今日の荷を通す実を取り、三本牙の側は取り分を割られない名を取った。どちらも全ては取れなかった。だからこそ、場は収まった。

 

「次に得物を抜くときは、相手の旗を見る前に、自分の足元を見ろ。お前らの足元にあるのは、縄張りじゃない。荷だ。荷を守れない旗に、付いていく者はいない」

 

 最後の言葉は自軍の若者へ向けて言われたものだった。だがその響きは、三本牙の若い衆の胸にも届いていた。先頭の男は苦い顔のまま、短槍を背へ回した。

 

「今日のところは、それでいい。だが、場の預かりは」

 

「場の話は、場の話として、上がする。俺たちは、ここでは荷の話だけをする」

 

 バラキエは、そこで初めてレイヴァスの方へ目を向けた。剣聖殺しの男を、その目は値踏みするでもなく、恐れるでもなく、ただ一人の戦い手として見た。

 

「あんたが、荷と番人を守ってくれたそうだな。……礼を言う。だが、次は気をつけろ。どちらの旗の者でもない人間が真ん中に立つと、両方から矢が飛ぶ。今日は俺が止めた。次も止められるとは限らない」

 

 人間。その呼ばれ方に、レイヴァスの胸が小さく疼いた。耳の尖りも血の混ざり方も、この巨躯の男は数えなかった。彼はレイヴァスを人間と呼んだ。それは非難ではなかった。ただの事実として置かれた言葉だった。だが以前、門前で人族の男が断られる姿を見たばかりの彼には、その一語が赤い布紐と同じ重さで響いた。

 

「あんたは」

 

「バラキエ。赫の兵団で副団長をしている。……元の副団長が亡くなるときに、次はお前が止め役になれと言われてな。団長の熱を止めるのも、若い衆の熱を止めるのも、俺の仕事だ」

 

 彼は大戦斧を持ち上げ、肩へ担ぎ直した。その動きに無駄な力みはなかった。振れば広場の戦いなど一振りで終わるだろう。だが彼は最後まで、その斧を振らなかった。振らないことで場を収める。その器の大きさが、この男の本当の強さだった。

 

 広場では荷車が動き始めていた。深層寄りの荷が倉の方へ進み、獅子の荷が棚へ運ばれる。運び手たちの声が戻り、番人の読み上げる数が石畳に響いた。戦いの痕跡は、割れた油壺一つと、双方の腫れた頬と、レイヴァスの脇腹の熱だけだった。

 

 ガルフが、レイヴァスの横で低く言った。

 

「あれが止め役か。……団長があれより熱いって話なら、会いたくねえような、会っておくべきような」

 

「次は、こうはいかない、ということだな」

 

「ああ。今日は、あの男が間に合った。だが、間に合わない日が来る。お前の便が出る日までに来るかどうかは、運次第だな」

 

 レイヴァスは剣を鞘へ戻した。右手の握りはまだ震えていた。新しい剣と盾は今日も彼を守り、今日も彼に代償を払わせた。慣れるまで、あと何度か血を流す。その言葉の通りだった。

 

 辻を離れる前に、彼は一度だけ広場を振り返った。バラキエはまだそこに立っていた。全員を見渡せる場所に大きな影を落として立っていた。睨み合いは解けた。荷は動き出した。だがその静けさは平和の静けさではなかった。一人の男の器で辛うじて保たれた、薄い氷のような静けさだった。

 

 氷の下では熱がまだ燻っていた。便の出る日まで、あと三日。その三日のどこかで、氷が割れる音がする。レイヴァスには、もう、その予感しかなかった。


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