# 第31話「赤の縄張り」
報せは、夜のうちに形を変えていた。
朝、レイヴァスが擂鉢の縁の市場へ出ると、いつもより人の出足が遅かった。干し肉を吊るすはずの梁は半分ほど空で、根菜の山は浅く、塩を量る原住種の店主の手元には、客の列ではなく、品を数え直す木札が積まれていた。
「今日の荷は、まだ半分しか着いていない」
顔見知りの売り子が、声を落として言った。
「東の積み替え場で止まっているそうだよ。旗の連中が睨み合って、車が動かせないって」
レイヴァスは、吊るされた肉の列を見上げた。昨日の朝なら、もう買い手の声で満ちていたはずの場所だった。暮らしの乱れは、大きな音を立てない。最初に来るのは、こうした静けさだった。炊き出しを待つ老人たちが、空の椀を抱えたまま、通りの向こうを何度も見ていた。
配給所の前では、列がいつもより長く伸びていた。券があっても、品が届かなければ、紙切れと変わらない。その不安は、誰の口にも上らないまま、列の全員の足元に溜まっていた。
「券はあるんだ。あるんだがな」
列の男が、誰にともなく呟いた。
「昼までに届かなかったら、明日の分まで怪しくなるって、番人が言ってた」
そのとき、列の後ろの方で、別の囁きが流れた。荷の話ではなかった。
「西の脇道で、獅子の衆がやられたってよ。昨夜のことだ」
「誰が」
「ウルフィンの配下の盾持ちだ。深層じゃ名の知れた男だって。死んじゃいねえが、盾を割られて、腕の印まで切り取られたそうだ」
囁きはすぐに列のざわめきに紛れた。だがレイヴァスには、その短いやり取りの方が荷の遅れよりも重く聞こえた。荷なら届けば済む。だが名のある者を狙い、印を奪うような真似は、届いても済む話ではなかった。
レイヴァスは列を離れ、市場の奥へ進んだ。薬草の包みは数えられるほど少なく、治療に使う布を売る店は戸を半分閉ざしていた。荷の滞りは腹だけの問題ではなかった。傷の手当て、明かりの油、子どもらの着替え。一台の荷車が止まるたびに暮らしのどこかが細っていく。その細り方が、まだ争いとは映っていないことが、かえって厄介だった。
ガルフが、荷置き場の陰から姿を現した。銀灰の髪に朝の埃がつき、狼の耳が市場の匂いを拾って忙しく動いていた。
「嗅いだか。いつもの朝の匂いじゃねえ」
「荷が来ていないからか」
「それもある。だが、一番違うのは人の匂いだ。不安と、怒りと、それを隠すための無理な笑い。……それに、今朝は血の匂いの噂まで混じってやがる」
ガルフは短槍を背に負い直し、東の方角へ顎をしゃくった。
「自分の目で見てこい。ドーランの便が通る路だ。お前の五日が、どれだけ細い糸の上にあるか、匂いだけじゃ分からねえ。……ついでに、噂の出どころもな」
誘いは正しかった。レイヴァスは頷き、新しい剣と盾を背に負った。盾の重さが歩くたびに背骨の左へ寄った。まだ体に馴染んでいない証だった。肋の打ち身は、深く息を吸うたびに小さく疼いた。
東の倉へ続く道は、擂鉢の壁を縫うように下っていた。
普段なら荷車の軋みと引き手の掛け声が朝の道を満たしている。だが今日は車の列が途中で途切れていた。空の車が三台、壁際に寄せられて止まり、引き手たちは車の陰で腕を組み、道の先を睨んでいた。
「あそこから先は、赤い連中の預かりだってよ」
引き手の一人が、吐き捨てるように言った。
「荷を預けるなら預けろ。自分で運ぶなら、倉の番人に別の路を聞けってさ。別の路なんざ、どこにあるってんだ」
積み替え場は、道が広がる窪地にあった。岩壁を背に、仕分け棚と雨除けの布屋根と、車を回すための平らな地面が広がっている。その地面の半分に真新しい杭が打たれ、赤い布紐が張られていた。布紐の向こう側では、獣人や魔族、長命種の混ざった兵たちが、驚くほど手際よく仕分けを進めていた。奪うのではなかった。彼らは荷を止めてはいなかった。荷を、自分たちの手を通る形に変えていた。
門と呼べるものはなかった。だが、布紐の切れ目に立つ二人の兵が門そのものだった。一人は鬼人族の女で、背に短い槍を負い、腕に赤い腕章を巻いている。もう一人はドワーフ族の男で、帳面を小脇に抱えていた。どちらも声を荒らげてはいなかった。荷の札を見せた者だけを、布紐の内側へ通していた。
その門の前に、人族の男が立っていた。
年は四十に届くかどうか。痩せて、背の布が擦り切れ、手には荷運びで荒れた掌があった。後ろには、十にもならない子どもが、男の袖を握って隠れるように立っていた。男は二度、頭を下げた。
「運びの仕事でいいんです。重いものでも構いません。何日でも働きますから、どうか、内側の仕事を」
鬼人族の女は、すぐに答えなかった。まず子どもの方へ目をやり、それから男の掌と、痩せた肩とを見た。蔑む目ではなかった。なかったからこそ、次の言葉は冷たく響いた。
「人族は、入れない。仕事もだ。外の列で、原住種の番人に聞いてくれ」
「前は、ここの運びをしていました。棚の場所も、車の回し方も分かります。給金は半分でいい。いえ、配給だけでも」
「決まりだ」
ドワーフ族の男が、帳面から目を離さずに言った。その声にも、怒りはなかった。
「団長が決めた線だ。あんたが何者でも、曲がらない。曲がれば、ここにいる全員の腹が立つ。……諦めてくれ」
男は、しばらく布紐を見つめていた。怒鳴ることも、土下座をすることもなかった。やがて子どもの手を握り直し、小さく頭を下げて、列の外へ下がっていった。子どもの足音が、石畳の上でやけに大きく聞こえた。
レイヴァスは、その後ろ姿を見送ったまま、動けなかった。
入団ではない。ただの日雇いの仕事だった。それでも引かれた線は同じだった。あの男の何が悪いのか。運び方を知り、手があり、働く気がある。それでも人族であることだけで、布一本の内側へ入れない。人族と巨人族以外なら誰でも受け入れる。その言葉の裏側は、こういう顔をしていた。受け入れないという線は、外側に置かれた者には、何の言い訳も残さなかった。
「お前も、同じことを考えてる顔だな」
ガルフが、低く言った。
「俺は、四分の三が人族だ」
「耳を見れば、混ざってることは分かる。だがな、レイヴァス。あの線の引き方をする連中は、耳の尖り具合で人を量らねえ。何族の血が濃いかじゃない。お前を人族と呼ぶかどうかは、向こうが決めるんだ」
レイヴァスは自分の耳に触れた。人間に近く、わずかに尖る耳。外の世界ではそのわずかさゆえに迫害され、ここではそのわずかさが通用するかどうかすら分からない。彼は剣聖殺しの悪名で落とされた男だった。人族の英雄として語られ、人族の罪人として落とされた。その彼が赤い布紐の前に立てば、どう呼ばれるのか。考えずに済ませるには、目の前の男の背中があまりに近かった。
「……気分は悪いが、あの兵どもを悪党とは呼べねえな」
ガルフが、布紐の内側を見ながら言った。
「荷は回してる。略奪もしてねえ。追い返し方も、殴って追うよりはましだ。だから厄介なんだよ。悪いことをしてねえ連中が、線を引いてる。元締めの連中だって、同じことを別の形でやってきたんだからな」
「それと、さっきの噂だ。本当らしいぜ」
帰り道にかかって、ガルフが口を開いた。
「今朝、治療所の方へ担がれていく獣人の男を見た者がいる。狙いは物じゃねえ。男の力と、獅子の名だ」
レイヴァスの足がわずかに遅れた。積み替え場の占拠は路と荷を巡る話だった。だが名のある者を狙い、印を切り取るような真似は別の話だった。やられた側が黙って済ませられるはずがなかった。
昼を過ぎた頃、市場の外れの茶屋で、サテラザールが待っていた。
行商人は、いつものように湯の椀を両手で包み、穏やかな顔で二人を迎えた。だが、卓の上には茶の他に、小さな木札が三枚、裏向きに置かれていた。
「見てきましたか、東の場を」
「ああ。……荷は止まっていない。だが、通す手が変わっていた」
「よく見ていますね。その通りです。赫の兵団は場を壊してはいない。むしろ前より仕分けは速いと、運び手の中には言う者もいます」
サテラザールは木札を一枚、表に返した。そこには、積み替え場の名が刻まれていた。
「彼らが管理下に置いたのは、その一場です。けれど大事なのは数じゃない。その場が東の倉と深層寄りの路とを繋ぐ喉元にあることです。あそこを通る荷は下層の東側の配給のおよそ三つに一つ。今日のような滞りがあと二日も続けば、店の棚ではなく、住人の椀の中身が変わります」
ガルフの耳が、ぴくりと動いた。
「三本牙は、黙って見てんのかよ」
「黙ってはいません。若い衆が場の周りに集まっています。あの場は昔からの取り決めで獅子の荷が優先される場所だった。兵団は深層寄りから荷を運んできた実績を盾に、優先の順を書き換えようとしている。どちらも倉の前で血を流す気はない。だからこそ睨み合いが長引くんです」
サテラザールは、二枚目の木札を返した。そこには、ドーランの便が使う路の印があった。
「あなたの便は、その路を使います。便そのものは原住種の管理ですから、旗の争いで止めることは本来はできない。……本来は、です。今は場の出入りを兵団が握り、周りを三本牙が囲んでいる。番人が止めるなと言っても、車の前に人が立てば車は止まります」
レイヴァスは五日という数え方を頭の中でやり直した。報せを受けたのが昨夜。便が出るのは五日後と聞いた。だが一夜明ければ残りは四日になる。荷をまとめ、体を慣らすはずだった四日は、今や路が塞がれるかどうかを見極めるための四日に変わろうとしていた。
「便が一日延びれば、どうなる」
「延びるだけなら、まだいい。争いが大きくなれば、便は別の路へ回されるか、その週自体が飛びます。そうなれば、次の便は十日以上先です。あなたの刻み香も、薬も、支度は全部、用意した者の手元で古びていく」
言葉は穏やかだったが容赦がなかった。彼は三枚目の木札をゆっくりと表に返した。そこに刻まれていたのは、獅子の印だった。
「……もう一つ。こちらの火は、荷よりも厄介です」
「西の脇道の話か」
「ええ。昨夜、深層から下層へ上がってきた獣人の男が、脇道で何者かに襲われました。ウルフィンの配下で、名は下層でも知られている盾持ちです。命に別状はないそうですが、盾は割られ、腕に巻いた獅子の印は切り取られて、持ち去られたとか」
ガルフが、低く唸った。
「荷は奪われちゃいねえんだろう」
「ええ。荷にも金にも手は付いていない。だからこそ質が悪い。狙われたのは男の戦う力と旗の名誉です。誰の仕業かはまだ決まった話ではない。ですが獅子の側は兵団の仕業と受け取っている。ヴォルフの耳にも既に入っている頃でしょう。これは荷の順の話では済まない」
「それだけじゃねえんだろう」
ガルフの問いに、サテラザールは小さく頷いた。
「引き抜きの話も出ています。ギンの下で市場の取引を担ってきた顔役たちに、兵団の側から声がかかっていると。分け前は今の倍、深層寄りの路の安全も請け負う、と。応じた者がいるかどうかまでは私の耳にも届いていない。ですが声をかけられたこと自体がもう噂になっている。……戦力を奪い、取引の手を奪い、名を傷つける。今回の火は補給の路だけに付いているわけではないんです」
レイヴァスは獅子の印の木札を見つめた。場を押さえる。者を狙う。顔役に声をかける。三つは別々の出来事に見えて、向いている先は同じだった。元締めの足元そのものだった。睨み合いが長引くほど、それが若い衆の腹の中で混ざり合い、やがて荷の順などという小さな理由では収まらない熱になっていく。
「焦るな、とは言いません。焦るべき局面です。ただ、焦って旗の争いに首を突っ込むのと、路の様子を正しく知ることは、別の話です。……今日のところは、まだ睨み合いです。得物を抜いたという話は、私の耳には届いていない」
「届いていない、ということは」
「抜けば、私の耳には届きます。届いていない今は、まだ話の席の余地がある、ということです」
ガルフが、鼻を鳴らした。
「お前の耳は当てになる。だがな、若い衆の血の気はお前の耳より速いときがあるんだよ。あの場の匂い、俺は嗅いだ。獅子の若い連中、腹に火を溜めてやがる。しかも今度は荷だけじゃねえ。やられた仲間の分まで背負ってやがる。赤い連中は規律がある分、火の付けどころが分からねえ。それが一番危ねえ」
「ええ。だから、あなた方も気をつけてください。路を見に行くのなら、荷の流れだけを見て、人の流れには逆らわないこと。特に、剣聖殺しの名は、ああいう場では重すぎます。守るつもりの一歩が、どちらの旗にも、口実を与えかねない」
レイヴァスは背の剣の重みを感じた。守るために打ってもらった剣と盾だった。だが旗の争いの渦中では、守るという行為そのものがどちらか一方への加担に読まれる。その読み違い一つで彼の五日は路もろとも潰れる。あの夜、倉に近い通路で巻き込まれたときから、この下層では旗のない者の善意ほど高くつくものはないと教えられていた。
帰り道、ガルフの耳が東の方角へ向いた。
「……今日は、まだだ。だが、明日も明後日も、まだだと言えるかどうかは分からねえ」
レイヴァスは住まいの窪みへ戻り、岩の上に支度を広げた。刻み香の束、薬の包み、縄、明かりの結晶。昨日並べたときには順調に進む計画の品々に見えたものが、今日は崩れかけた路の上に置かれた品々に変わっていた。全部揃っても路がなければ何にもならない。それだけではなかった。路の先では名のある者が狙われ、顔役が揺さぶられていた。彼が潜ろうとする深さは、荷の順を争うだけの場所ではなかったのだ。
彼は剣を手に取り、夕方の光の中でゆっくりと受けの型を繰り返した。盾を構えるたびに肋が疼き、剣を戻すたびに肩が軋んだ。それでも昨日よりは半拍、体が先に動いた。
稽古を終え、彼はドーランへの返事の木札を握った。出発は四日後。その四日の間に睨み合いが解けるのか、それとも得物が抜かれるのか。どちらに転んでも彼は待つことしかできない。待つという行為がこれほど重いものだとは、潜る計画を立てる前には思ってもいなかった。
遠くで市場の閉めを知らせる鐘が鳴った。いつも通りの音だった。だがその音の向こうに、赤い布紐の張られた積み替え場と、門前を下がっていく人族の男の背中と、印を奪われた盾持ちの話とが重なって見えた。均衡の綻びはもう遠くの話ではなかった。住人の椀の中に、門前の線の中に、そして彼自身の四日の残り時間の中に、静かに入り込んでいた。




