# 第30話「潜行計画」
下層へ戻ったレイヴァスを、最初に見つけたのはガルフの鼻だった。
擂鉢の縁の市場へ出たばかりのところで、銀灰の髪の勇者が、荷車の列の間から顔を上げた。狼の耳がぴくりと動き、鼻が血と獣の匂いを嗅ぎ分けたのだろう。ガルフは腕を組んだまま近づき、レイヴァスの前腕に巻かれた布と、腰の新しい剣とを、順に眺めた。
「帰り道で、早速使ったな」
「ああ。荷車ほどの岩背が二頭。……一頭は若い個体だった」
「で、斬れたのか」
問いは短かったが、その目には戦士の真剣さがあった。レイヴァスは剣を抜き、半分だけ刃を見せた。黒い結晶の芯が、市場の明かりを受けて静かに光った。刃毀れはなかった。ガルフは人差し指の腹で、刃の背の厚みを確かめるように触れ、短く鼻を鳴らした。
「重いな。これだけ厚けりゃ、甲も骨も、ごまかしは利かねえ。振る奴の腕が本物かどうか、そのまま出る剣だ」
「褒めているのか」
「試されたって言ってんだよ。……悪くねえ。受けてから斬るお前の型には、この重さが合ってる。先に斬りに行く剣じゃねえ。相手の力を全部受け止めた後で、終わらせる剣だ」
ガルフは剣から手を離し、次に盾を顎で示した。
「盾の縁、爪の跡が残ってらあ。受け損なった場面があったな」
「一度、角度を誤った。膝をつきかけた」
「正直でいいじゃねえか。武具は新品のうちに恥をかかせておけ。本番で初めて知るより、ずっと安い」
ぶっきらぼうな言い方だったが、それはこの男なりの祝いであり、忠告だった。
ガルフは、ついでだと言って盾も手に取った。片手で面を叩き、縁の返しを指で辿り、革紐の結び目の位置を確かめた。短槍使いの男は、楯使いではない。だが、戦場で楯の後ろに隠れた経験のある者は、楯の良し悪しを体で知っている。
「こっちも重い。だが、重さが真ん中に集まってやがる。端に逃げねえ。……いい仕事だ。打った爺さんは、お前の戦い方をよく見てたんだな」
「ああ。手と型を見てからでなければ打たない、と言われた」
「そりゃそうだ。武具は注文品だ。肉屋で買う干し肉とは違う」
ガルフは盾を返し、最後に一言だけ付け加えた。
「帰り道で二頭斬れたなら、まずは上出来だ。だがな、レイヴァス。その重さに体が慣れるまで、あと何度か血を流すぞ。慣れた頃に、ようやく一人前だ」
レイヴァスは剣を鞘へ戻した。ガルフの評価は、工房で聞いた槌の音とは違う形で、新しい武具を彼の現実へと繋いだ。
傷を診せるために、彼は治療所へ寄った。
イリスは、前腕の布を解きながら、何も言わずに傷口を確かめた。爪の裂傷は浅かったが、肋のあたりの打ち身は、指で軽く押しただけで彼の息を止めた。聖女は眉を寄せ、回復の光を掌に集めた。温かく、絹のように柔らかい光だった。
「骨は折れていません。けれど、今日と明日は、重いものを左で受けないでください。盾の腕でしょう、その左は」
「ああ。……助かる」
「無事に戻ってきたことの方が、助かります」
イリスはそう言って、ふと彼の目を見た。治療所の明かりの中で、彼の瞳は強く輝いていた。四分の一の長命種の血が宿す光。彼女には、人の輝きが光として見える。その目で見れば、彼の光は中層へ行く前と少しも曇っていなかったのだろう。彼女は微かに笑い、光をそっと閉じた。
「あなたの目、変わりませんね。深いところへ行く話をしても、奥へ行くほど、目だけは澄んでいく。不思議な方です」
「褒め言葉として受け取っておく」
「褒めています。……剣も、見せてください。傷のついでではありません。あなたが何を持ち帰ったのか、知っておきたいのです」
彼は剣を抜き、治療所の卓へ置いた。イリスは刃に触れなかった。代わりに、柄に巻かれた革の結び目と、黒い芯の結晶とを、物を見るように静かに見つめた。
「重い剣ですね。けれど、怖い光はしていません。使う人のために打たれた剣は、こういう顔をするのですね」
彼女の言葉に、彼は少しだけ肩の力を抜いた。名工の約束を思い出したからだった。代金は金ではない。深層で見たものを、戻ってきたら話すこと。その約束を果たすには、まず生きて戻らなければならない。イリスの言う通りだった。果たすためには、戻ることが先にあった。
「肋の打ち身は、息をするたびに響くでしょう。今夜は無理をせず、明日から少しずつ体を動かしてください。剣の重さに体を慣らすのも、大事な準備のはずです」
「ああ。ガルフにも似たようなことを言われた」
「皆、同じことを心配しているのですよ」
イリスは穏やかに言い、巻き直した布の結び目を整えた。その手つきには、治療所で大勢の者を診てきた者の確かさがあった。
そのとき、治療所の入り口の布が揺れた。
ルナーリアだった。薬草の包みを受け取りに来ていたらしい。彼女はレイヴァスの姿と、卓の剣とを一目で捉え、足を止めた。月の客人の視線は、剣の上で一度だけ止まった。
「……ふん」
「それだけか」
「ドワーフの仕事よ。飾りがなくて、重くて、遅いのよ。魔法で焼く前に三度は振らないと、当たらないんじゃないかしら」
素っ気ない言葉だった。彼女は薬草の包みを受け取ると、足を止めた理由が剣だけだったように、視線をもう一度だけ剣へ戻した。戻った視線は、男へではなく、芯の黒い結晶へ向いていた。
「あんたの型には、合っているんじゃないかしら。……合っているかどうかは、深いところの獣が決めることよ」
「肝に銘じておく」
「銘じなくていいわ。覚えるかどうかは、あんたの体次第よ」
彼女はそれだけ言って、布をくぐって出て行った。残された言葉は冷たかったが、嘘はなかった。この監獄で生き延びてきた者の言葉の重さが、そこにはあった。
その夜、レイヴァスは住まいの窪みに、ガルフとイリスを呼んだ。
平たい岩の上に、彼は持ち物を並べた。新しい剣と盾。素材貨幣と配給券。採取の袋、水筒、明かりの結晶。そして、布に包んだ先達の腕輪。以前にも、彼は同じように持ち物を並べて考えたことがあった。あの頃は、足りないものを数えるだけだった。今夜は違った。一つずつに、次の一手が付いていた。
「まず、武具は揃った。次は輪だ」
彼は布を解き、二つの腕輪を岩の上に置いた。一つは彼自身のもの。もう一つは、先達から託されたものだった。
「俺の輪と、託された輪。これで二重になる。だが、深層の取り立てに耐えるには、それだけでは足りないと聞いている。四十八時間の刻限もある」
「迎えの輪が要る、って話だったな」
ガルフが言った。
「ああ。深層側で、到着してすぐに輪を貸してくれる協力者がいれば、体を慣らせる。いなければ、四十八時間以内に、這ってでも下層へ戻るしかない」
「俺の輪は貸せねえよ」
ガルフは、はっきりと言った。
「貸せば俺の格が薄くなる。ここで暮らす分には耐えられても、お前が戻るまでの間、俺は無防備に近くなる。それに、俺は潜らねえと決めた男だ。輪だけ深さへ行かせるのは、決め方に反する」
「分かっている。頼むつもりはない」
「……その代わり、戻りの段取りなら手伝える。お前が出た時刻、戻るはずの時刻。それをこっちで数えておく。四十八時間を過ぎても姿がなければ、通路の入り口まで迎えに出る。そこまでだ」
それは、潜らない男が差し出せる、最大限の手だった。レイヴァスは頷いた。
イリスが、静かに口を開いた。
「私からも、渡せるものがあります。輪ではありません。けれど、深い場所では、傷と衰弱が命を奪います。出発の前に、回復の薬と、眠りを助ける薬草を用意します。それと、刻限を数えるための刻み香。香が一本燃え尽きるのが、およそ半日です。四本持てば、四十八時間を体で数えられます」
「ありがたい」
「約束してください。香が三本目に入っても先へ進めそうにないときは、戻ること。果たしたいことがあるのは分かります。けれど、戻ってこなければ、果たすこともできないのです」
落ち着いた声だった。だが、その奥の真剣さは、誰の言葉よりも重かった。彼は頷いた。撤退の線を引くこと。それもまた、計画の一部だった。
話は、そこから細部へ入った。
食料は、便の荷に紛れさせる分と、自分の背に負う分とに分ける。水は下層のものを持ち込むのではなく、深層側の水場の在り処を、ドーランから聞いておく。明かりの結晶は予備を含めて三つ。縄は一巻き。深層の入り口に着いたら、まず荷受けの老人と会い、迎えの輪の交渉をする。交渉がまとまらなければ、その場で引き返す判断をする。まとまれば、入り口近くの中継ぎの場に身を置き、取り立ての具合を確かめながら、一日ずつ奥への足場を作る。
「最初から奈落を目指すな、ということだな」
ガルフが言った。
「ああ。一足飛びには行けない。深層で生き延びる足場を作るのが、最初の仕事だ。その先は、足場ができてから考える」
「当たり前の話だが、その当たり前を守れねえ奴が、一番よく死ぬ」
レイヴァスは岩の上に指で線を引いた。下層、深層、その奥。以前に引いた線と同じだったが、今度は線の上に、人の名と品の名と、刻限の数が並んでいた。ドーラン。荷受けの老人。刻み香四本。護衛としての同行。漠然とした憧れは、数えられるものの集まりへと変わっていた。
道案内の話は、翌日に持ち越されたはずだった。
だが、その夜のうちに、住まいの入り口を叩く者があった。穏やかな顔立ちの行商人。サテラザールだった。男は懐から木札を取り出し、岩の上に置いた。
「ドーランから返事がありましたよ。次の供給便に、護衛として同行するなら、深層の入り口までの道案内を引き受けると。荷受けの老人にも、あなたの話は通してある。迎えの輪の交渉も、まずは話だけなら、と」
「条件は」
「いつもの通りです。深層から戻ったら、見たものを最初に私へ。グリムニルへの約束と競合しますが、順番の工夫は、あなたの腕次第でしょう」
男は笑った。だが、その笑顔はすぐに引き締まった。
「ただし、急いだ方がいい。もう一つ、報せを持ってきました。今夜は無料です。……いえ、無料だと思わない方がいいかもしれませんね」
「何があった」
「赤い腕章ですよ。赫の兵団が、東の倉へ続く道の縄張りを、また広げたそうです。荷の積み替え場を一つ、自分たちの管理下に置いたとか。三本牙の若い衆と、睨み合いが続いていると聞きます」
ガルフの耳が、ぴんと立った。
「積み替え場だと。……そりゃあ、供給路の喉元じゃねえか」
「ええ。ドーランの便が使う路でもあります。道が旗の争いに巻き込まれれば、便そのものが止まるかもしれない。潜るにしても、戻るにしても、路が生きているうちでなければ、計画は机の上の話になります」
レイヴァスは、岩の上の品々を見渡した。剣と盾。半分だけ揃った輪。刻み香の約束。ドーランの返事。そして、動き始めた赤い腕章の報せ。漠然とした潜行は、もうなかった。そこにあるのは、日付を持ち、期限を持ち、妨げる者まで姿を見せ始めた、一つの計画だった。
「便はいつ出る」
「五日後です。その朝までに、返事をください」
サテラザールは木札を置いたまま、夜の市場へ消えた。
残された三人は、しばらく何も言わなかった。
やがてガルフが立ち上がり、入り口の布に手をかけた。
「五日か。……短えな。だが、長けりゃいいってものでもねえ。旗の争いは、待っちゃくれねえ」
「イリス、薬と香の支度は、明日から頼めるか」
「ええ。治療所の分を分けます。刻み香は、燃やして確かめてから渡しますね」
二人が去った後、レイヴァスは一人で岩の上の品々を片付けた。五日の使い方を、頭の中で割り振った。明日は体を慣らし、イリスの支度を受け取る。明後日はドーランに会い、水場と中継ぎの場の話を聞く。残りの日は、荷をまとめ、戻りの刻限を皆で確かめ合う。どの一日にも、無駄はなかった。どの一日を欠いても、計画は穴の開いた桶になる。
遠くで、市場のざわめきが続いていた。そのざわめきの向こうで、下層の均衡が、音を立てずに傾き始めている。レイヴァスは新しい剣の柄に手を置いた。五日。その短い猶予の中で、彼は残りの準備を終わらせなければならなかった。深さへの道は、待ってはくれない。争いの火が路を塞ぐ前に、彼は潜らなければならなかった。
託けの腕輪が、岩の上で、微かに熱を持った気がした。
彼は布包みを懐へ戻し、明かりを落とした。眠りは浅いだろうと思った。だが、闇の中で目を閉じたとき、以前のような得体の知れない渇きだけが胸を騒がせることはなかった。代わりにあったのは、五日後の朝の光景だった。荷を背負い、剣と盾を携え、供給便の列に混じって下へ向かう自分の姿。その姿は、まだ危うく、まだ未完成だったが、確かに足で立っていた。計画とは、そういうものなのだろうと彼は思った。恐怖を消すものではなく、恐怖を数えられる形に変えるものなのだと。




