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英雄の監獄カルナヴェイル  作者: 那貴


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# 第29話「帰り道の獣」

中層を発つ朝、レイヴァスの背には新しい盾があり、腰には新しい剣があった。

 

 厚刃の剣は、鞘に収まっていても重さで存在を主張した。歩くたびに腰の革帯がわずかに沈み、盾の革紐は肩に食い込んだ。慣れた重さではなかった。外の戦場で剣と楯を持っていた頃とも違う。あの頃の武具は戦いの中で体に馴染んでいったものだったが、これはまだ、名工の工房の匂いを残したまま、彼の体に馴染もうとしている途中だった。

 

 同行するのは、原住種の運搬隊だった。荷車は三台。深層から上へ送られる素材と、中層で仕入れられた品とを積み、下層へ降ろす帰りの便である。仕切りを務めるのはトバという男で、言葉数は少ないが、車輪の軋みを聞いただけで荷の偏りを言い当てる、道に慣れた目を持っていた。護衛は二人。槍を持つ者と、短い鉈を持つ者。どちらも余計な口は利かず、歩幅は荷車の速さに寸分違わず合っていた。

 

「重そうだな」

 

 出発のとき、トバがレイヴァスの腰元を見て言った。

 

「ああ。まだ体が覚えていない」

 

「道の半ばで、その重さが嫌になる頃に、獣は来る」

 

 脅しではなく、経験を述べる口調だった。レイヴァスは笑って、革帯を締め直した。

 

 坂を下り始めてからも、彼は何度か立ち止まりそうになった。剣の重さで歩幅が狂い、盾の縁が岩壁の出っ張りに触れて、乾いた音を立てた。そのたびに隊の者は何も言わなかったが、彼自身が苛立った。戦う前に、歩くことから慣れ直さなければならない。彼は盾を持つ左腕の角度を変え、剣の鞘の吊り方を少しだけずらした。ほんの少しの調整で、重さの響き方は変わった。武具とは、戦場だけで使うものではない。こうして道を歩く間にも、体との折り合いをつけていくものだった。

 

 運搬隊の歩き方は、無駄がなかった。急な下りでは荷車の後ろに回って重さを支え、細い場所では声を掛け合って一台ずつ通した。彼らは獣を恐れていないのではなかった。恐れを、作業の手順の中に組み込んでいた。レイヴァスはその背中を見ながら、監獄の営みというものを改めて思った。英雄の物語には決して載らない者たちが、この坂を何度も往復することで、上と下の暮らしは繋がっているのだった。

 

 

 下り道は、上ってきたときよりも静かだった。

 

 中層の明かりが遠ざかるにつれ、通路は次第に闇を取り戻した。運搬隊の者たちは腰に明かりの結晶を吊るし、その淡い光が、蜘蛛の巣のように枝分かれする通路の壁を、行く先だけぼんやりと照らした。車輪の音。荷紐の軋み。時折、遠くの広間から響く水の滴る音。それ以外に、音はなかった。

 

 最初の異変は、中継点を過ぎたあたりで訪れた。

 

 理由は分からなかった。ただ、首の後ろを冷たいものが撫でた気がして、レイヴァスは足を止めずに振り返った。後ろには、来た道が闇の中へ吸い込まれているだけだった。荷車の列も、護衛の背中も、いつも通りだった。風はなかった。なのに、寒気だけが、しばらく背中に残った。

 

 以前に、下層の深い通路を歩いたことがある。採取行の帰路、深い場所から届く、僅かな震えを感じたことがあった。あのときの感覚に、今の寒気はどこか似ていた。似ている、という以上に言えることは何もなかった。床は震えていない。音もない。気配と呼ぶには薄く、獣のものとも、人のものとも、彼には判じられなかった。

 

「どうした」

 

 護衛の一人が、振り返る彼に気づいて声をかけた。

 

「いや。……気のせいだと思う」

 

 そう答えて、彼は歩き続けた。だが、それきりにはならなかった。

 

 

 二度目は、細い通路を抜けた先の広間で、隊が短い休みを取ったときだった。

 

 水筒の水を一口含み、壁際に背を預けたとき、彼はまた振り返っていた。自分でも、なぜ振り返ったのか分からなかった。広間の奥、明かりの届かない闇の底を、目が勝手に探していた。何かが見えたわけではない。何かが聞こえたわけでもない。ただ、視線を向けた先の闇が、ほんの少しだけ、こちらを見返しているような気がした。

 

 レイヴァスは盾の紐を握り直した。新しい革の感触が、掌に現実を返した。考えすぎであれば、それでいい。だが、体が勝手に警戒を解かないのなら、その警戒を無駄にはしない。彼は休みの間、広間の奥に背を向けずに座り続けた。トバがそれを目に留め、何も言わずに、荷車の並びを壁側へ寄せ直した。道に慣れた者は、理由を聞かずに備えることを知っていた。

 

 やがて隊は再び歩き出した。下層は近づいていた。空気の匂いが変わり始め、上から下へ流れる風に、市場の煙と人の営みの気配が混じり始めた。あと半日も歩けば、見慣れた擂鉢の縁に出るはずだった。

 

 そのとき、後方の闇で、小石の崩れる音がした。

 

 今度は、気のせいではなかった。

 

 

 音は一度きりではなかった。小石の音に続いて、岩肌を爪が引っ掻く音。荷車の影で、護衛が槍を構えた。トバが低く短く笛のような声を発すると、運搬の者たちは一斉に車を止め、荷の陰へ身を寄せた。訓練された動きだった。獣は、この道の日常の一部なのだ。

 

「大きいぞ」

 

 槍の護衛が言った。

 

 闇の中から現れたのは、岩のような背を持つ四足の獣だった。体躯は荷車ほどもあり、背から肩にかけて、灰色の甲が幾重にも重なっていた。頭は低く、顎の力が逞しい。鼻面を地面に擦るようにして、荷の匂いと人の匂いとを嗅ぎ分けている。その歩き方には迷いがなかった。腹を空かせた獣が、獲物の列を見つけた歩き方だった。

 

 レイヴァスは、その甲に見覚えがあった。同種の獣と、下層の通路で相まみえたことがある。あのとき彼は無手だった。拳で受け、関節で崩し、体勢を奪って追い払うのが精一杯で、仕留めることはできなかった。甲は厚く、拳の衝撃は表面で散り、牙のある頭部には近づく隙がなかった。崩すことはできても、終わらせることができなかった。それが、素手の限界だった。

 

 彼は一歩前に出て、通路の中央に立った。獣と荷車の列の間。盾を構え、剣を抜く。

 

 抜いた瞬間、重さが腕に来た。グリムニルの打った厚刃は、彼の知るどの剣よりも重かった。だが、その重さは頼りなくはなかった。黒い結晶を芯に据えた刃は、明かりの結晶の光を受けて、鈍く、しかし深く光った。彼が求めたのは、軽さではない。受けて、崩して、その先で終わらせるための重さだった。

 

「来い」

 

 獣が地を蹴った。

 

 

 突進は、まっすぐだった。

 

 岩の塊が迫るような圧力に、レイヴァスは逃げず、半歩だけ体をずらして盾を斜めに立てた。甲に覆われた頭部が盾に触れた瞬間、腕全体に、骨の芯まで響く衝撃が走った。新しい盾は、その衝撃を割らなかった。厚い面が圧を受け止め、斜めに流し、彼の足は岩肌を半歩だけ滑って踏みとどまった。工房で聞いた槌の音が、戦いの最中に蘇った。壊れない。それが、この盾の最初の答えだった。

 

 だが、代償もすぐ来た。衝撃の反動で左肩が悲鳴を上げ、慣れない盾の重さが、彼の体勢をわずかに遅らせた。獣の爪が盾の縁を掠め、彼の前腕に浅い裂傷を走らせた。熱い痛み。血の匂い。彼は舌打ちの代わりに息を吐き、距離を取り直した。

 

 倒れたわけではない獣は、すぐに体勢を立て直し、今度は突進せずに大きく回り込み始めた。甲に守られた巨体が、通路の壁際を擦りながら距離を測る。その動きは臆病さではなく、獲物を仕留め慣れた獣の慎重さだった。爪が岩肌を弾き、尾の先が壁を打って、薄い粉塵を巻き上げた。レイヴァスは盾を低く構え、獣の目ではなく、肩と前脚の動きを見た。攻めの気配は、目よりも先に体に出る。長命種の血が教えるその読みだけは、武器を持っても変わらなかった。

 

 獣の爪が横薙ぎに来た。彼は盾で受けた。面で受けたはずの衝撃が、腕の中で斜めに暴れ、彼は思わず膝をつきかけた。新しい盾は強い。だが、強いことと、使いこなすことは別だった。受けの角度が半分ずれれば、衝撃は逃げずに体へ返る。彼は歯を食いしばって立ち直り、獣が爪を引く一瞬に、盾の縁でその脚を押し返した。巨体がよろめいた。そのよろめきは小さかったが、彼には十分だった。戦いの流れが、どちらへ傾くかは、こうした小さな崩れの積み重ねで決まるのだった。

 

 獣は二度目を狙って頭を下げた。彼は今度は待った。受けて崩す。それが彼の型だった。突進の勢いが最大になる寸前、彼は盾で正面から受けず、側面へ体を流しながら盾の縁を獣の肩口へ当てた。体重と勢いの交わる点がずれる。巨体がわずかに傾ぎ、前脚が岩肌を滑らせた。

 

 その隙に、彼は剣を振った。

 

 最初の一太刀は、浅かった。狙った前脚の付け根に刃は届いたが、甲の縁に弾かれ、火花のような結晶の欠片が散った。重い刃の振り回しに、彼の体がまだ追いついていなかった。振りの戻りが遅れ、獣の顎が彼の脇を掠める。革の上着が裂け、肋のあたりに鈍い痛みが走った。

 

 彼は後ろへ跳んだ。息を整え、剣の握りを短く持ち直す。重さに振られるのではない。重さを、勢いの先に置くのだ。工房でグリムニルが言っていた。刃の重さは、腕で支えるものではなく、体全体で運ぶものだ、と。

 

 獣が三度、地を蹴った。

 

 今度は、盾が正しく働いた。彼は足場を固め、腰を落とし、突進を盾の面で受け切った。衝撃は両足を通じて地面へ抜け、岩肌に彼の靴底が食い込んだ。獣の頭が盾に押し付けられた一瞬、その巨体の勢いが止まる。彼は盾を押し返さなかった。押し込むように半歩進み、獣の重心を前へ崩した。前脚が折れるように沈む。甲に覆われていない、顎の下の柔らかい部分が、彼の目の前に晒された。

 

 剣が閃いた。

 

 厚刃は、音もなくその柔らかさへ吸い込まれ、骨に当たって止まった。彼は全体重を柄へ預け、刃を押し切った。獣の体が大きく震え、断末魔の息が彼の顔を打った。巨体が横へ倒れ、通路に重い音が響いた。岩の粉と血の匂いが、明かりの中で渦を巻いた。

 

 終わらせることができた。

 

 素手では、追い払うことしかできなかった相手を。受けて、崩して、最後の一押しで命を断つところまで、彼の戦いは届くようになっていた。剣を持つ手が、微かに震えていた。武者震いではなかった。重い刃を三度振り切った腕の、素直な疲労だった。

 

 

 戦いは、それで終わらなかった。

 

 倒れた獣の影から、小型の二頭目が飛び出した。若い個体だった。荷車へ一直線に走る。槍の護衛が迎え撃ち、穂先がその肩を穿ったが、勢いは止まらない。レイヴァスは盾を投げ捨てなかった。それが新しい自分の戦い方だった。彼は横から駆け込み、盾の縁で若い獣の頭を殴りつけるように受けた。衝撃で左腕の痺れが増した。だが獣の突進は逸れ、荷車の車輪の脇へ頭を打ち付けたところへ、護衛の鉈が首筋へ落ちた。

 

 獣は二度、三度と跳ね、やがて動かなくなった。

 

 広間に、静けさが戻った。運搬の者たちから、安堵の息が漏れた。トバは手早く負傷の有無を確かめ、荷の無事を点検した。車輪の一つに罅が入っていた。走れないほどの罅ではないが、速さは出せない。代償は、そういう形でも残った。

 

 運搬の者たちが、倒れた獣から使える素材を手早く分け始めた。甲の欠片、爪、血の混じらない肉の一部。無駄にしないのが、この地底の作法だった。レイヴァスも求められて、甲の一枚を受け取った。戦いの証であり、下層へ持ち帰れば素材貨幣にもなる。だが彼は、それ以上に、刃毀れ一つない剣の腹を見つめていた。厚い甲に弾かれ、骨に押し込まれても、刃は欠けていなかった。名工の仕事は、戦いの後にも答えを返した。

 

 護衛の一人が、布で彼の前腕の傷を巻いた。手当ては粗かったが的確だった。肋の痛みは、深く息をすれば響いた。彼はそれを、戦いの値段として受け取った。安くはない。だが、荷車も人も、失わずに済んだのだから、払う価値のある値段だった。

 

「あんたが前で受けてくれなければ、車の一台はやられていた」

 

 トバが言った。

 

「俺だけの手柄じゃない。槍がなければ、二頭目は荷に届いていた」

 

「謙遜はいい。……その剣、よく斬れるじゃねえか」

 

 彼は血に濡れた刃を見下ろした。拭わなければ、錆と汚れが残る。彼は布を取り出し、戦いの後の所作として、丁寧に刃を拭った。重さにも、長さにも、まだ体は慣れていない。肩は痛み、前腕の傷は血を滲ませ、肋は息をするたびに鈍く疼いた。無敵になったわけではない。ただ、戦いの終わらせ方を、一つ手に入れた。それだけの、しかし大きな変化だった。

 

 

 隊は再び歩き出した。速度は落ちたが、足並みは乱れなかった。

 

 下層の明かりが遠くに見え始めた頃、レイヴァスは、もう一度だけ振り返った。

 

 理由は分からなかった。戦いは終わった。獣は倒した。だというのに、首の後ろの寒気は、まだ消えていなかった。来た道の闇は静まり返り、何も動かなかった。彼はしばらくその闇を見つめ、それから前を向いた。今は、帰ることが先だった。荷を届け、傷を診せ、待っている者たちに顔を見せる。その先のことは、下層に着いてから考えればいい。

 

 擂鉢の縁の明かりが、少しずつ大きくなっていった。市場のざわめき、炊き場の煙の匂い、下層の営みの音。懐かしいと呼ぶには短い月日だったが、彼の足は、その明かりを目指して確かに速まっていた。

 

 帰ってきたのだ。新しい剣と盾と、それらが連れてきた新しい戦い方とともに。


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