# 第21話「上への道」
サテラザールの手紙が届いたのは、朝の配給が終わった頃だった。
手紙といっても、原住種の店で使われる薄い木札に、細い字で三行だけ書かれたものだった。中層の名工グリムニルの工房で、話を聞く用意ができたこと。評判を聞いて決めるのではなく、本人の目で見て決める職人のため、対面が条件であること。そして、武具の芯になり得る素材があれば、持参すること。その三つだった。
木札の隅には、行商人の印が押されていた。華美ではないが、一目で彼のものと分かる印だった。レイヴァスは木札を二度読み、懐の奥の布包みに触れた。数日前に深い通路で採った黒い結晶。その一部が、まだ布に包まれたまま残っていた。採取の分け前として彼の手に残ったものは多くはなかった。掌に載るほどの欠片が三つ。だが、深い場所の素材は量ではなく深さで値が付く。中層の工房で芯に使う品だと、採取の男たちも言っていた。
彼はその日のうちに、市場の外れの茶屋へ足を運んだ。サテラザールは既にそこにいて、いつものように湯の椀を両手で包んでいた。
「届きましたか」
「ああ。話が早いな」
「早いのではなく、段取りが好きなだけですよ。グリムニル殿は、下層からの客をむやみに受けません。壊れた武具の山と、壊れかけた者の相手で、手が離せない方ですから」
男は笑い、対面の日時と場所を記した別の木札を差し出した。中層へ上がる運搬隊に同行すること。その運搬隊への口利きも、既に済ませてあるという。
「ただ、条件があります」
「聞こう」
「運搬隊は原住種の隊です。彼らの荷は、彼らの決めた順序で運ばれる。同行する者は、荷の邪魔をせず、隊の歩幅に合わせること。そして、万一獣が出れば、護衛と共に荷を守ること。上がる者は、客ではなく、手の一つとして数えられます」
「分かっている。無武器だが、手は貸せる」
「ええ。その無武器であることも、正直に伝えてあります。隠して上がるより、初めから知ってもらう方が、後が楽でしょう」
レイヴァスは頷いた。力を封じる腕輪の重さも、格のことも、下層にいる限りは皆が知る範囲のことだった。下層より上の階では、取り立ての量は下層より軽い。だが、軽いことが、そのまま易しいことを意味しないのは、この監獄の常だった。長く中層に暮らす者たちにとって、下層から来る者は、深さの匂いを運んでくる客でもあった。
サテラザールは、彼の懐に目をやった。
「素材は、お持ちですか」
レイヴァスは布包みを取り出し、卓の上で結び目を解いた。黒い結晶の欠片が、茶屋の薄明かりの中で、深い海の底のような色に光った。サテラザールは手を伸ばさず、目だけでその色を確かめた。
「いい色です。深い場所の結晶は、浅い場所のものとは光の返し方が違う。芯にすれば、刃の芯が深さに耐える。……グリムニル殿なら、なおのこと目を留めるでしょう」
「その名工は、どんな男だ」
「ドワーフ族の英雄で、名工と呼ばれる方です。建造にも武具にも通じ、武具の弱点を読む目を持つと聞きます。口数は少なく、決めるのは自分の目で見てから、という方だとか。私が売れるのは、会う機会までです。その先は、あなたと彼の間の話になります」
男は、そこで言葉を切った。売れるものと売れないものを分ける、あの線引きだった。
レイヴァスは、もう一つ尋ねた。
「工房へ行けば、すぐ打ってもらえるわけじゃないのか」
「ええ、違います。あの方は、頼まれたから打つ、という職人ではないそうです。壊れた武具を直す仕事は受けても、新しく打つ相手は選ぶ。手を見て、戦い方を見て、その武具がどこへ行くのかを見てから決める。断られる者も、少なくないと聞きます」
「断られたら、結晶はただの石だな」
「石にはなりませんよ。中層では、あの色の結晶を欲しがる工房は他にもあります。ですが、最初にグリムニル殿の目にかけずに他へ売るのは、順序が違うでしょう。深い素材は、深い目利きに先に見せる。それが、この監獄の作法の一つでもあります」
作法。その言葉は、以前に聞いた階層の作法という響きと重なった。腕輪の重ね方にも、素材の売り方にも、長くここで生きてきた者たちの決まりがあった。知らない者は、知らないまま損をするのではなく、命を落としかねない。名工を訪ねる旅は、武具を得るためだけでなく、その作法を知るためでもあった。
サテラザールは、付け加えるように言った。
「それから、中層の住人は、下層の住人とは目の色が違います。長く中層にいる英雄や賢人は、静かに暮らす者が多い。深く潜ろうとする者を見ると、懐かしむ者もいれば、目を逸らす者もいる。あなたが何者で、どこへ行くつもりなのか。工房街では、隠しても、歩き方で分かるそうですよ」
「分かるなら、隠さない。だが、語らないこともある」
「ええ、それで結構です。全部を語る者は、信用されませんから」
「代金は」
「対面の口利き料は、前に半分いただいた話の残りで相殺しましょう。ただし、約束は忘れていませんよ」
サテラザールの穏やかな笑みが、わずかに深くなった。
「深層から戻ったら、あなたの話を、最初に私に売ってください。その約束は、まだ生きています」
「覚えている」
「結構。それでは、明日の朝、東の上り口で。運搬隊は夜明けと共に出ます。遅れれば、置いていかれますよ。原住種の隊は、時間に正確ですから」
茶屋を出た後、レイヴァスは治療所へ向かった。
中層へ上がることを、イリスに伝えるためだった。上がるといっても、戻ってくる旅ではある。だが、下層を離れる以上、知らせずに出るのは筋が違う気がした。治療所の入り口では、昼の光の届かない下層らしい薄明かりの中、白い布に薬草の匂いが染みていた。
イリスは奥の台で、包帯を巻き直していた。彼の姿を見ると、手を止め、静かに立った。
「中層へ上がることになった」
レイヴァスは木札の内容を短く伝えた。名工を訪ねること。素材を持っていくこと。運搬隊に同行すること。
イリスは黙って聞き、やがて彼の掌に目を落とした。
「手を見せてください」
彼は右の掌を差し出した。数日前に負った火傷の痕と、獣の牙で開いた傷の跡が、まだ薄く残っていた。回復は進んでいたが、無理をすれば開く深さだった。
「上りの道でも、獣は出ます。掌は、受ける型の要です。無理に受ければ、また開きますよ」
「分かっている。だが、行かなければ武具は得られない」
「分かっています」
イリスは微笑み、彼の掌に新しい布を当て、慣れた手つきで巻いた。強くもなく、緩くもなく、戦う手の動きを妨げない巻き方だった。
「では、これは餞別です。……痛みが出たら、隠さないでくださいね。隠す人は、治療所では一番困る患者ですから」
「善処する」
「善処では困ります」
彼女は落ち着いた声で言い、だが目は笑っていた。その静かな強さが、聖女と呼ばれる所以なのかもしれないと、レイヴァスは思った。
外では、ガルフが待っていた。治療所の壁にもたれ、短槍を脇に立てかけ、腕を組んでいた。話は既に届いていたのだろう。狼族の耳は、地の話も人の話もよく拾う。
「上がるんだってな」
「ああ」
「名工のじいさんは、頑固だって話だ。下手な口先じゃ、刃は打たねえだろうよ」
「口先で頼むつもりはない。素材と、この手を見てもらう」
ガルフは鼻を鳴らした。
「そうだな。……上は、下より明るい。だが、明るい場所ほど、落ちてきた者の顔はよく見える。気をつけな」
忠告はぶっきらぼうだったが、悪意はなかった。ガルフは短槍を取り、踵を返しかけて、思い直したように言葉を継いだ。
「戻ってきたら、酒の代わりに湯でも奢れ。上がる前の話と、降りる前の話は、別物だからな」
そのとき、通路の影から、もう一つの声がした。
「……見送りとは、物好きなことよ」
ルナーリアだった。
居住区の縁の柱に背を預け、いつからそこにいたのか、腕を組んで立っていた。月の客人と呼ばれる美貌は、下層の薄明かりの中でも人目を引いた。だが、周囲の者は遠巻きに見るだけで、近づこうとはしなかった。他種族から崇められる女と、同じ長命の血を持つ者たちとの間にある溝は、下層の誰もが知ることであり、誰も口にしないことでもあった。
「あんたも見送りか」
レイヴァスが言うと、彼女は肩をすくめた。
「見送る理由なんてないわ。通りかかっただけよ」
彼女の視線は、彼の顔にも、巻かれた掌にも留まらなかった。通路の先を見る目だった。
「無武器で、運搬隊の荷まで背負って上がるのよ。……好きにすればいいわ。止める理由も、助ける理由もないのよ」
「ああ」
「深い素材は、深い場所の記憶を持っているのよ。名工なら、その分だけ口も開くんじゃないかしら。武具の話は、武具だけの話じゃないわ」
それだけ言うと、彼女は柱から背を離し、歩幅一つ変えずに市場の雑踏へ姿を消した。振り返ることはなかった。
ガルフが、低く言った。
「あの女は、いつもああだ。言いたいことだけ置いて、さっさと消える」
イリスは静かに、二人の背中と、去っていく女の後ろ姿を見比べていたが、何も言わなかった。ただ、レイヴァスの掌の布の結び目を、最後にもう一度だけ確かめた。
その夜、レイヴァスは住まいの窪みで荷を整えた。
布に包んだ黒い結晶を、素材貨幣と分け、身体に近い側へ収めた。水筒と、数日分の配給券、寝るための薄い毛布。治療所で巻いてもらった布がずれないよう、掌を何度か開いては閉じた。託された腕輪は、いつものように懐の奥にあった。その重さは、今日も変わらなかった。
彼は岩の上に、上りの順序を思い描いた。運搬隊に付いて上がる。中層の工房で、名工の目にかけられる。武具が得られれば、下層へ戻り、次の準備へ移る。潜るための準備が、まず上がることから始まる逆さの手順は、もはや奇妙には思えなかった。この監獄では、食料は深い場所から上へ流れ、人はその流れに逆らって下へ行く。流れの向きを、身をもって確かめる旅になるだろう。
ふと、彼は黒い結晶をもう一度取り出し、掌の上で光に翳した。数日前の広間を思い出す。鑿の音、壁這いの獣の爪、崩れた柱の根元にあった規則正しい削り跡。あの跡のことは、誰にもまだ話していなかった。今は持っていく素材の方が先だった。だが、名工がこの結晶の出所を尋ねれば、どこまで答えるべきかは、工房に着いてから決めることになるだろう。素材の重さは、量ではない。どこで、どうやって採れたかという経緯まで含めて、値が付くものだった。
結晶を布に戻すとき、彼の瞳が薄明かりを強く返した。四分の一の血が混じる瞳は、暗い場所ほど光を拾う。中層では、その輝きが下層以上に目立つかもしれない。ガルフの言った、明るい場所ほど顔がよく見えるという言葉が蘇った。それでも、瞳を隠して上がるつもりはなかった。隠すことは、怯えることと紙一重だった。
夜が更けても、下層の空気は変わらなかった。だが、明日の朝、彼はその空気の外へ一歩出る。東の上り口。擂鉢状の穴を、蜘蛛の巣のように巡る通路の、一本の糸を上へ辿る旅だった。
翌朝、まだ明かりの弱いうちに、レイヴァスは窪みを出た。掌の布は乾いていた。懐の結晶が、歩くたびに小さく音を立てた。見送りの言葉は、既に昨日もらっていた。だから、彼は振り返らなかった。
東の上り口には、原住種の運搬隊が既に列を作っていた。荷車ではなく、背負い枠と担ぎ棒で荷を運ぶ隊だった。食料の袋、素材の箱、水の樽。小柄な体躯に似合わぬ重さを、彼らは慣れた手際で均等に分けていた。隊の先頭に立つ年長の原住種が、レイヴァスの姿を見て、短く頷いた。
「サテラザールの口利きの男だな。名は」
「レイヴァス」
「荷は持たない。だが、自分の水と食料は自分で持て。獣が出れば、護衛の邪魔をするな。隊の列を乱すな。それが守れるなら、付いて来い」
「分かった」
護衛の男たちが、数人、列の脇に立っていた。革鎧に短い刃、背には長い柄の武器。彼らはレイヴァスの腕輪と、武器のない腰元を一瞥し、それ以上は何も聞かなかった。無武器の男が手として数えられるかどうかは、道中で分かることだった。
年長の原住種が担ぎ棒を肩に当て、号令ともつかない短い声を上げた。隊が、静かに動き出した。
レイヴァスは列の後方に付いた。背後では下層の居住区の明かりが遠ざかり、前方では、上へ続く通路の闇が、僅かに明るさを孕んで開けていた。彼は懐の結晶の重さを確かめ、一歩を踏み出した。
潜るための、最初の上りが始まった。




