# 第20話「潜る理由」
境界の夜の翌日、レイヴァスは市場の外れの茶屋に呼び出されていた。
茶屋といっても、原住種が営む小さな炊き場の脇に、粗い卓と腰掛けを並べただけの場所だった。湯気の向こうで昼の配給の列が動き、素材貨幣の触れ合う音が遠くに聞こえる。呼び出した相手は、既に腰掛けに座り、湯の入った椀を両手で包んでいた。穏やかな顔立ちの行商人。サテラザールだった。
「やあ、昨夜は騒がしかったそうですね。境界で、赤い腕章の連中と、三本牙の若い衆がやり合ったとか」
「あんたの耳は早いな」
「商いですから」
男は悪びれもせず笑い、空いた腰掛けを掌で示した。遅れてガルフが姿を見せ、卓の影に腰を下ろした。誘ったのはレイヴァスだった。潜る話をするなら、この下層で地に足の着いた暮らしをしている男の耳にも入れておきたかった。ガルフは椀を受け取らず、腕を組んで壁にもたれた。話を聞くだけだ、という顔だった。
サテラザールは、懐から小さな布包みを取り出し、卓の上に置いた。中を開けると、三種類の品が並んだ。一つは深層の素材で作られた貨幣だった。下層のものより一回り大きく、闇の中で淡く光る脈が走っている。もう一つは、古い楯の欠片だった。鉄とも岩ともつかない重みを持ち、縁には大楯に特有の厚い補強の跡があった。最後は、何も書かれていない細長い木札だった。
「まず、これは返しておきましょう。……いえ、返すというのは語弊がありますね。見せるだけです」
男は楯の欠片を、指先でそっと押してレイヴァスの方へ滑らせた。
「覚えていますか。深層のある通路で見つかった、古い大楯に似た盾の欠片。前に、頭だけお話しした件です。拾った者が、奥から自分の名を呼ばれる気がした、という、あの噂の品ですよ」
レイヴァスは欠片に触れなかった。触れれば、また借りが増える気がした。だが目は離せなかった。補強の打ち方、縁の返しの角度。その様式は、外の戦場で何度も見た古い型に似ていた。大楯のオルドヴァンが背負っていた楯の、面影の断片。確証はない。確証はないのに、胸の奥の渇きが、昨夜よりもはっきりと熱を持った。
「今日は、その先の話を売りに来た。……そういうことか」
「半分は」
サテラザールは木札を指で弾いた。
「もう半分は、潜り方そのものの話です。あなたはもう、漠然と下を見ているだけではいられない顔をしている。渇きは、顔と呼吸に出ます。隠しても無駄ですよ、私の前では」
ガルフが、短く鼻を鳴らした。
「人の顔を読むのが商売の男の言うことだ。……で、潜り方は何通りある」
「大まかに言えば、三つ。正道と、迎えと、抜け道です」
男の指が、まず深層の貨幣を押した。
「正道。腕輪を重ねて格を上げ、取り立てに耐える体にしてから降りる。一番確かで、一番難しい。なぜ難しいか。輪は、同意か、死後一時間以内の回収でしか生きないからです。死人の輪を狙うのは論外として、生きている誰かに、自分の格を貸してくれと頼む。これは、命の半分を貸してくれというのと同じです。貸す側はその間、自分の格が薄くなる。深層の取り立ては、下層の比ではない。格の釣り合いが取れていない相手同士では、重ねても焼け石に水です。勇者の輪一つで魔王の坐る深さへ行こうとしても、四十八時間どころか、一日と保たないでしょう」
「四十八時間」
レイヴァスは、その言葉を繰り返した。
「決められた階層より下にいて、格が足りないまま四十八時間を過ぎれば、衰弱が始まる。まず眠れなくなる。次に、音と光に耐えられなくなる。精神が綻び、最後は――」
サテラザールは、そこで言葉を切り、椀に口をつけた。
「聞いた話では、死ぬよりも先に、自分が誰だったかを手放すそうですよ。綺麗な死に方ではない」
茶屋の湯気が、卓の上を横切った。昼の喧噪が、急に遠く感じられた。二階層下への移動は破滅だという言い伝えも、この男の口から聞くと、ただの脅し文句には聞こえなかった。下層から深層へは、一階層。それでも、準備なき者には十分に死出の旅だった。
「二つ目。迎え」
男の指が、木札に移った。
「下の階に協力者がいれば、話は変わります。降りた先で、到着してすぐに、その階の格に合う腕輪を提供してもらう。迎えの輪で体を慣らし、取り立てに呑まれないうちに居場所を作る。派閥が戦力を引き込むときによく使う手で、逆に言えば、迎えられた者は、その派閥に借りを作る。借りは、信頼と縛りを同時に生むものです。輪を返せと言われた日に、あなたは深さの底で裸になる。それを承知で、誰の手を取るか。それが二つ目の難しさです」
「あんたは、その協力者を紹介できるのか」
「できる場合と、できない場合があります。今のあなたに紹介できるのは、深層の入り口近くまで荷を運ぶ隊商の伝手と、その隊商に顔の利く中継ぎの老人まで。奥の派閥の誰かを、今すぐ引き合わせることはできません。……万能の鍵を売る商人は、信用しない方がいい。私も、売らないことにしています」
出し惜しみではなく、線引きだとレイヴァスには見えた。この男は、売れるものと売れないものを、笑顔のままきっちりと分けている。彼は、その線引きに、かえって話の確かさを感じた。
「三つ目は、抜け道です」
サテラザールの声が、わずかに低くなった。
「食料の供給路。深層まで届けられ、そこから上へ配られる荷の流れ。その流れを逆に辿れば、階層の門を通らずに潜れる区間がある、と言われています。もう一つ、原住種の循環路。店と相場と、生活の基盤を担う彼らが使う、配給とは別の通り道です。どちらも、存在の匂いは濃い。ですが、詳しい道順を私は知らない。知っていても、この卓では口にしない。原住種の路を荒らせば、誰の命綱も残らない。それに、門を通らない潜り方は、迎えも正道もなしに深さへ落ちるということです。四十八時間の刻限は、抜け道を使った者にも、等しくかかります」
つまり、道はあっても、命の担保にはならない。潜る方法と、潜って生きる方法は、別のものだった。レイヴァスは卓の上の三つの品を見比べた。格を上げる輪の重さ。迎えの借りの重さ。そして、道だけがあって助けのない、抜け道の軽さ。そのどれもが、奈落への道のりの遠さを、以前よりも具体的に示していた。
値段の話になったのは、それからだった。
「今日の話の対価は」
レイヴァスが問うと、サテラザールは深層の貨幣を一枚だけつまみ上げ、光に透かした。
「素材貨幣で言えば、これ三枚分。あなたの今の手持ちでは、痛いけれど払えない額ではないでしょう。ですが、それだけでは足りない。……前に申し上げた借り、覚えていますか。あれとは別に、もう一つ条件を付けさせてください」
「聞こう」
「あなたが深層へ降りて、もし戻って来られたなら、そのとき見たものを、私にだけ先に話すこと。値段は、そのときに決めます。深い場所の話は、深い場所の素材と同じで、潜った者だけが持って帰れる貨幣ですから」
ガルフが、壁から身を起こした。
「話を売る約束で、話を買うのか。ややこしい商いだ」
「情報屋とは、そういう商いですよ、銀狼殿」
サテラザールは、臆せず笑った。だが、その笑みの奥で、レイヴァスの反応を読む目だけは休んでいなかった。
「ただし、忠告を一つ。無料の忠告です」
「珍しいな」
「借りで格を上げる者は、借りた先の物語に引っ張られます。赫の兵団が、昨夜みたいなやり方で縄張りを広げているのも、根は同じことでしょう。彼らは荷を運び、恩を売り、席を要求する。恩は、輪と同じで、重ねれば重ねるほど身動きが取れなくなる。……どこの旗の恩を着て潜るかは、慎重に選ぶことです。潜る理由が、潜った先で他人に決められるようでは、意味がない」
昨夜の赤い腕章が、レイヴァスの脳裏に蘇った。規律ある兵、理のある要求、引くときの速さ。あの兵団のやり方と、今の忠告が、静かに重なった。男がなぜこの忠告を無料でくれるのかは分からなかった。恩を売る行為そのものかもしれない。それでも、言葉の内容は正しかった。
レイヴァスは、懐から素材貨幣を取り出し、下層のものと、採取で得た深めの素材の欠片とを数えて卓に並べた。約束の半分を今払い、残りは話の確かさを見てから払う。条件として、隊商の伝手の名は今日聞くこと。サテラザールは一つ一つを確かめ、やがて頷いた。
「成立です。伝手の名は――帰りの荷を仕切る、ドーラン。下層の倉の、左から二番目の番台にいる老人です。私の名を出せば、話だけは聞いてくれる。ただし、彼に会う前に、あなたの方で用意すべきものがある」
「何だ」
「装備と、知恵です。今のあなたは無武器でしょう。受けて崩す型が本領でも、深層の獣は、下層の比ではない。牙の長さも、群れの数も段違いで、深みに棲み続けて姿の変わった個体もいる。素手で潜るのは、勇気ではなく、準備不足の別名です。それと、階層の作法を知る者の助言。腕輪の重ね方一つでも、古い決まりを知る者と知らない者では、命の残り方が違います」
男は、椀を置いた。
「上へ、上がることです。下層の上は中層。そこには、武具を見極める目を持った名工がいるという話を、あなたも聞いたことがあるでしょう。潜るための準備は、皮肉なことに、一度上がることから始まる場合もある」
中層。名工グリムニル。ドワーフの英雄で、武具の弱点と性能を読み解く目を持つという男。レイヴァスは、その名をまだ直接は知らなかったが、採取場の古参の口から、腕の立つ職人として何度か聞いていた。深く潜るために、まず上がる。その逆さの手順が、妙にこの監獄の理屈に合っている気がした。食料は下から上へ流れ、人はその流れに逆らって下へ潜る。準備もまた、流れの向きを確かめるところから始まるのかもしれなかった。
茶屋を出ると、昼下がりの市場は、昨夜の境界の騒ぎなど知らない顔で賑わっていた。だが、倉の方角では、赤い印の荷が昨日より一つ増えているのが、レイヴァスの目に留まった。均衡は動いている。同時に、自分の足元でも、何かが動き始めていた。
ガルフが、並んで歩きながら言った。
「俺は潜らねえよ」
ぶっきらぼうな声だった。
「言っておくが、止めはしねえ。ただ、俺の居場所はここだ。下に用があるわけじゃねえし、誰かに託されたものでもねえ。……種族の旗にも、深さの誘いにも、俺は首を突っ込まねえ。それが俺の決め方だ」
「ああ」
「お前は、違うんだろうな」
レイヴァスは答えなかった。答える代わりに、懐の奥の布包みに触れた。託された腕輪が、布越しに確かな重さで掌に返った。潜る者と、潜らない者。同じ下層で飯を食い、同じ境界の夜を越えても、足の向きは違っていた。だがガルフの言葉には、引き止める熱も、冷たい突き放しもなかった。自分の決め方を語る男は、他人の決め方を奪わない。それが、この無所属の勇者の誠実さだった。
「一つだけ聞く。……何のために、そこまでして潜る」
市場の喧噪の中で、ガルフの声だけが低く届いた。
レイヴァスは、しばらく歩いてから答えた。
「託されたものがある。果たさなければ、俺の物語はここで止まる。それと――」
彼は擂鉢の底の方角へ、目を落とした。見えるのは市場の屋根と、通路の影と、その先の闇だけだった。
「奥が、呼んでいる気がするんだ。気のせいで済ませられるうちは、済ませてきた。だが、もう済まない」
渇き。その言葉は口に出さなかった。だがガルフは、狼の耳を小さく伏せ、それ以上は何も聞かなかった。
その夜、レイヴァスは住まいの窪みで、卓の代わりの平たい岩の上に、持ち物を一つずつ並べた。
素材貨幣。配給券の束。採取で使う粗い袋と、水筒。そして、布に包んだ先達の腕輪。
彼は指で、岩の上に見えない線を引いた。下層。深層。奈落。三つの深さの間に、足りないものを書き込むように、彼は考えを巡らせた。格が足りない。だから、輪をどうするか決めなければならない。迎えの当ては半分だけある。隊商のドーラン。その名は、今日買った確かな一歩だった。道は、供給路と循環路という匂いだけがある。装備がない。だから、まず中層へ上がり、名工を訪ね、武具と知恵を得る。潜るための第一歩が、上へ上がることであるという逆さの手順を、彼は静かに受け入れた。
漠然とした渇きは、もう渇きの顔をしていなかった。
それは、順序を持ち、不足を数え、対価を払う覚悟を伴った、計画の形を取り始めていた。呼ぶ声に身を任せて闇へ転げ落ちるのと、足場を確かめながら自ら降りていくのとでは、同じ深さでも意味が違う。彼は後者を選んだ。託けを果たすためだけではない。彼自身が、その奥にあるものを、この目で確かめるために。
腕輪が、脈に合わせて微かに熱を持った。取り立ての熱だった。その熱の向こうで、今日見た楯の欠片の冷たさと、奥から名を呼ばれるという噂とが、静かに重なった。大楯の男は、その通路の先へ進んだ。彼もまた、同じ路を辿ることになるだろう。ただし、闇雲にではない。一歩の値段を、自分の手で量りながら。
レイヴァスは持ち物を袋に収め、布包みの腕輪を懐の奥へ戻した。
明日、中層への坂道を確かめる。名工の居場所を聞き、上がるための手続きを知る。潜る理由は、もう胸の中にある。足りないのは、理由ではなく、準備だった。
闇の中で、彼は目を閉じた。下から吹く風が、布の入り口を小さく揺らした。その風の奥に、今夜は呼び声ではなく、自分の足音の先の響きを聞いた気がした。深淵はまだ遠い。だが、遠さの測り方は、今日から変わっていた。




