# 第22話「蜘蛛の巣を上る」
上り口を入ってすぐの通路は、下層のものと変わらなかった。
湿った岩肌、青白く光る苔、足下に残る古い担ぎ跡。原住種の運搬隊は、言葉少なに列を進めた。背負い枠の紐が軋む音と、担ぎ棒の先が岩に触れる乾いた音だけが、規則正しく続いた。レイヴァスは列の後方に付き、護衛の男たちと歩幅を合わせた。
だが、最初の曲がり角を過ぎたあたりから、通路の様子が少しずつ変わり始めた。
壁に、明かりが増えた。下層では所々にしかなかった灯火の窪みが、上りの通路では等間隔に掘られ、その多くに火が保たれていた。誰かが定期的に油を足し、芯を切っている証拠だった。火の揺らぎが壁の凹凸を照らし、担ぎ手たちの影を長く引いた。明かりがあるということは、その明かりを守る営みがあるということだった。下層の採取場へ向かう通路の、目印が途絶えれば闇に吞まれる心細さとは、まるで違った。
「上りの道は、荷の道だ」
護衛の一人、背の高い男が言った。名はベルドといった。下層と中層を何度も往復しているという。
「荷が止まれば、中層の飯も、下層への配給も止まる。だから明かりは絶やさねえ。中継点ごとに番がいて、火と水と、寝場所の隅を守っている」
言われてみれば、通路の要所ごとに、岩を削って平らにした小広間があった。そこには水の入った樽と、積まれた薪と、休む者のための粗い敷物があった。下層から上がる者と、中層から下りる者が、そこで短く言葉を交わし、すれ違った。下りる者の中には、壊れた武具を背負った戦士もいれば、空の背負い枠を担いだ原住種もいた。行き交う人々の顔には、下層の市場ほどの喧噪はなかったが、代わりに、長く同じ道を行き来する者特有の、互いの顔を覚えた挨拶があった。
空気も変わった。下層の重く湿った匂いが、上るにつれて薄くなり、代わりに乾いた岩の匂いと、遠くから流れてくる煙の匂いが混じり始めた。鍛冶の煙なのか、炊き場の煙なのかは、まだ分からなかった。だが、上に人の暮らしの中心があることは、その匂いだけで伝わった。レイヴァスの腕輪が、脈に合わせて微かに熱を持った。取り立ての熱だったが、下層で感じる重さより、わずかに軽かった。階が上がれば、取り立ては緩む。その分だけ、身体の奥の渇きは、かえってはっきりと感じられた。
彼は懐の黒い結晶の重さを確かめた。歩くたびに布の中で小さく当たる感触が、上る理由を思い出させた。
中継点を二つ過ぎ、三つ目が見える手前で、隊が止まった。
先頭の年長の原住種が、担ぎ棒を下ろさずに片手を上げた。列が、訓練されたように足を止める。ベルドが鼻を鳴らし、前方の闇へ目を凝らした。
「獣だ。……壁の匂いがする」
レイヴァスにも、やがて聞こえた。岩を引っ掻くような、細く鋭い音。それが一つではなく、幾つも重なっていた。明かりの届く範囲の縁で、壁の影がわずかに動いた。天井に近い壁面に、黒い影が張り付いていた。
壁這いの獣だった。
下層の深い通路で見たものと同種だったが、ここの個体は一回り小さく、その分、数が多かった。壁と天井を伝い、前方の通路を塞ぐように、七、八頭が散らばっていた。中央の岩の張り出しには、ひときわ大きな一頭がいた。肩から背にかけて、黒く硬い鱗が連なり、明かりを受けて鈍く光った。通路の幅は、荷を担いだ者が二人並べるほどしかない。その幅を、あの鱗の獣が塞げば、隊は進めなかった。
「荷を寄せろ。壁側に詰めろ」
年長の原住種の声は低く、慌てていなかった。担ぎ手たちが素早く動き、荷を一箇所に寄せ、その周りに身を寄せた。原住種を守ることは、どの派閥にとっても暗黙の禁を守ることであり、同時に、自分たちの命綱である流通を守ることだった。護衛たちが前に出た。ベルドは長い柄の槍を構え、もう一人の護衛、若い女戦士セラは短い刃を抜いて腰を落とした。
「レイヴァス、あんたは荷の前だ」
ベルドが言った。
「刃がなくても戦える口だろう。近づいたやつは頼む。鱗の頭だけは、一人で無理をするな」
「分かった。群れは俺も捌く。頭については、あんたたちが刺す場所を作る」
「頼む」
最初に動いたのは、天井の二頭だった。
爪音を消し、真下の担ぎ手めがけて落ちてきた。ベルドの槍が一頭を空中で払い、岩壁へ叩き付けた。壁はびくともせず、獣だけが弾かれて地面に転がった。もう一頭はレイヴァスの前に落ちた。爪が彼の胸元を薙ぐ。彼は半歩沈み、伸びた前脚の関節に掌を添えて勢いを斜めへ流し、着地の重心が前へ泳いだところへ身体を寄せた。顎の下に当たる窪みへ掌底を打ち上げ、続けて頭の横、耳の付け根に近い窪みへ拳の付け根を叩き込む。獣の首が跳ね、身体から力が抜けた。それでも四肢が岩を掻いたため、彼は倒れた体躯の上へ膝と体重を預け、首根を押さえ込んだまま動かなくなるまで待った。刃は要らなかった。
連携は、思ったより早く形になった。
だが、群れは一頭ではない。壁の左右から、三頭が同時に滑り降りてきた。爪が岩を掻き、火花のような粉が散った。ベルドが槍を横に薙ぎ、一頭の進路を断ち、セラが荷の陰から飛び出して二頭目と切り結んだ。三頭目が、その隙を縫って荷へ迫った。
レイヴァスは荷の前から動いた。獣の突進を正面で受けず、内側へ一歩潜り、伸びた前脚を両腕で抱え込んだ。受けて、崩す。走る勢いのまま関節が引かれ、獣の重心が大きく傾いた。彼は脚を離さず、自分の体重を預けて獣と共に地面へ倒れ込んだ。セラが叫んだ。
「そっちは任せた」
彼は倒れた獣の横へ回り、前脚の関節を胸と腕で極めたまま、上から全体重を落とした。関節が軋み、獣が暴れて彼の腕を爪で引っ掻いた。革の袖が裂け、浅い血の線が走った。痛みは鋭かったが、彼は極めを緩めなかった。頭が持ち上がった一瞬、空いた掌で顎の下を打ち上げ、頭の横の窪みへ肘を落とす。二度目で獣の力が抜け、岩を掻いていた爪が止まった。荷へ届く前に、素手で止め切っていた。
そのとき、中央の大きな一頭が、岩の張り出しから身を乗り出した。
鱗の獣だった。小型の群れを従える頭格で、息をするたびに鱗と鱗が擦れて、鉄のような音を立てた。ベルドの槍がその肩を突いたが、槍先は硬い鱗に滑り、火花を散らして弾かれた。
「やっぱり硬え。腹か関節だ」
「群れを先に減らすぞ。頭は、俺が受ける」
レイヴァスが言った。その言葉に、ベルドが一瞬だけ目を剥いた。
「無茶だ。あの鱗、お前の掌じゃ砕けねえぞ」
「砕くんじゃない。崩すんだ。……だが、あの頭を仕留めるのはあんたらだ。俺の合図で刺せ」
大きな獣が、頭を下げた。突進の構えだった。通路が狭い分、逃げ場はなかった。後ろは荷と原住種の担ぎ手たちだった。レイヴァスは列の前へ出て、両足を岩に置いた。掌の布が、握るたびに軋んだ。イリスの巻いた布だった。彼女の言葉が蘇る。痛みが出たら、隠さないでくださいね。その約束は、今は後回しだった。
突進が来た。
巨体が通路の幅いっぱいに迫り、鱗の擦れる音が壁に反響した。レイヴァスは最後の一歩で身体を内側へ滑らせ、獣の前脚の付け根に両掌を打ち当てた。何百貫もの勢いが腕を通り、足下へ流れた。膝が軋み、肩に鈍い痛みが走った。獣の体勢が、わずかに傾いた。だが、この大型に限っては、それだけだった。厚い鱗は掌の力を吸い、首の太さは肘の一撃を受けても揺らぎは小さく、顎に当たる窪みにも手が届かなかった。小型なら、崩した勢いのまま関節を極め、急所へ打ち込んで終わらせることができた。だが、この重さと鱗をまとった相手は違った。崩すことはできても、素手だけでは仕留め切れない。その限界が、掌の痺れと共にはっきりと伝わった。命を終わらせる刃がなければ、この大型は、何度でも立ち上がる。
「今だ」
彼の声に、ベルドが側面から槍を突いた。だが、槍先は傾いた体勢の鱗に再び滑った。セラが反対側から走り、関節を狙ったが、獣が暴れて彼女を壁際へ押し戻した。天井から、残りの小型が二頭、戦いの隙を狙って荷へ降りた。
隊の列が、僅かに乱れた。原住種の一人が荷を抱えたまま転びかけ、年長の者がその枠を支えた。レイヴァスは大型から目を離せなかった。離せば、その牙が自分の喉へ来る。だが、荷の方で悲鳴に近い声が上がった。小型の一頭が担ぎ手の肩へ爪をかけていた。
「セラ、荷だ」
ベルドが叫び、セラが向きを変えた。彼女の刃が小型の脚を切り、その隙に担ぎ手が荷の下へ潜って難を逃れた。だが、その分、大型への備えが薄くなった。大型が再び頭を下げ、二度目の突進の気配を見せた。
レイヴァスの掌は痺れ、布の下で傷が開いた感触があった。温かいものが指の間へ滲んだ。彼は歯を食いしばり、突進の軌道を読み直した。今度は受けるだけでは足りない。崩す角度を、刺す者のために作らなければならなかった。獣の右前脚は、先ほどの衝突で僅かに運びが遅れていた。関節の内側。その一点に、彼は賭けた。
二度目の突進。
彼は今度は正面から逃げず、突進の勢いの芯に身体を預けるように近づき、右前脚の関節へ掌底を叩き込んだ。続けて肘を落とし、体捌きで脚の内側へ回り込んだ。獣の重心が大きく崩れ、巨体が通路の壁側へ傾いた。壁はその重さを受けても、欠けることすらなかった。だが、傾いたことで、腹と脚の付け根の、鱗の薄い継ぎ目が露わになった。
「ベルド、付け根だ」
ベルドの槍が、今度は滑らなかった。長い柄の槍が継ぎ目へ深く入り、獣が通路全体を震わせる咆哮を上げた。セラが間髪入れずに駆け寄り、開いた傷口へ短い刃を突き入れ、体重をかけて押し切った。二人の刃が、ようやく獣の命の芯へ届いた。
巨体が、ゆっくりと横倒しになった。鱗の擦れる音が止み、代わりに荒い息が数度漏れて、やがて途絶えた。残りの小型は、頭を失うと一斉に竦み、二頭が壁を這って闇へ退き、残りは護衛の槍に追われて通路の脇の影へ消えた。
戦いは、終わった。
静けさが戻ると、代償が一つずつ顔を出した。
レイヴァスの掌の布は血で染まり、指先の感覚は鈍かった。袖の裂け目からは浅い傷が幾筋も走り、肩には大型の勢いを受けた鈍痛が残っていた。無傷ではなかった。だが、立って歩ける程度ではあった。ベルドは槍の穂先を確かめながら、荒い息で言った。
「助かった。……素手で群れを捌いて、あの頭まで受けるやつは初めて見た」
「頭を仕留めたのは、あんたらの刃だ。あの大きさと鱗じゃ、俺だけでは何度でも立った」
「分かってる。だからこそ、だ」
ベルドは、倒れた獣と、無事だった荷の山を見比べ、短く頷いた。セラは刃の血を布で拭いながら、レイヴァスの掌を一瞥した。
「その手、中層に着いたら見せた方がいい。工房街の近くに、治療のできる場所がある」
「覚えておく」
原住種の担ぎ手たちに、死者はいなかった。肩に爪を受けた一人が浅い傷を負い、荷の一部、水の樽の一つに爪痕が付いただけだった。年長の原住種は、荷の無事を一つずつ確かめ、倒れた獣には近づかず、隊の者に短く指示を出した。獣の鱗と牙は、後続の処理の者に任せるのだという。運搬隊の仕事は、荷を届けることであり、戦いの跡で足を止めないことが、そのまま次の荷の安全に繋がっていた。
隊は、短い休息の後、再び列を作った。レイヴァスは血の滲んだ掌を懐の布で押さえ、列の後方へ戻った。掌の痛みは、大型と向き合ったときの限界を、改めて彼に突きつけていた。小さな群れなら素手でも足りた。だが、あの重さと鱗には、受ける手だけでは届かないところがある。刃と、それを支える何かが要る。その何かを求めて上がる旅であることを、彼は痺れた指先で再確認した。
最後の坂は、緩やかで、長かった。
明かりの数が更に増え、通路の両脇に、人の住む窪みや、荷の一時置き場が現れ始めた。行き交う人々の数も増えた。中層の衣服は、下層のものより色が多く、素材も厚かった。子供の声がどこかで響き、すぐに通路の曲がり角へ消えた。暮らしの音だった。下層の居住区にも暮らしはあったが、中層のそれは、深さへの備えよりも、日々の営みの積み重ねが前面に出ている気がした。
やがて、前方の闇が開けた。
大きな広間だった。天井が高く、幾筋もの明かりが蜘蛛の巣状に巡る通路の結節点を照らしていた。広間の周囲には居住区の入り口が並び、食料の配給所、素材を扱う店、そして、奥へ続く別の通路の入り口が見えた。運搬隊の担ぎ手たちが、慣れた足取りで荷の受け渡し場へ進み、年長の原住種が受け取りの者と短く言葉を交わした。長い上りの終わりだった。
レイヴァスは広間の縁に立ち、懐の結晶の重さを確かめた。掌の痛みと、肩の鈍さと、ここまで運んできた素材の重さ。その全部を抱えて、彼は中層へ着いたのだと思った。
そのとき、風に乗って、音が届いた。
金属を打つ音だった。一つではなく、幾つも重なっていた。規則正しい音、荒い音、止んでは始まる音。広間の奥、工房街の方角から、絶え間なく聞こえてくる槌の音だった。下層では聞いたことのない、暮らしの真ん中に鍛冶がある土地の音だった。
彼は、その音の方へ、目を細めた。音の一つ一つが、まだ見ぬ工房の姿を、闇の向こうから運んでくるようだった。
名工の工房は、あの音のどこかにある。血の滲んだ掌を押さえながら、レイヴァスは槌の音を聞き続けた。




