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英雄の監獄カルナヴェイル  作者: 那貴


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# 第17話「聖女の祈り」

その日、レイヴァスは治療所の手伝いに来ていた。

 

採取で擦り切れた掌の具合を見せる、というのが表向きの理由だった。だが、軟膏を塗り終えた後も、彼はすぐには帰らなかった。水桶を運び、血のついた布を井戸端ならぬ洗い場へ届け、寝台の脚の緩みを締め直す。戦いの手は、こういう地味な仕事にも案外と向いていたし、何より、イリスの奇跡が使う者から何を削るのかを、彼はまだ近くで見ておきたかった。

 

昼の間にも、治療所は休まなかった。牙に噛まれた腕へ光がかざされ、熱に震える老人の額へ守りの膜が編まれる。イリスは合間に煎じ薬の火加減を見て、寝台の者たちへ順に声をかけた。その声は誰に対しても同じ調子で、派閥の印を持つ者にも、持たない者にも、分け隔てがなかった。

 

「無理をして、熱をぶり返した方がいます。……今日は、採取は休んでください。生きて帰ることも、仕事のうちです」

 

言われた男は苦笑いし、素直に頷いた。この場所では、聖女の言葉は命令ではないのに、命令よりよく通った。剣も持たず、声も荒らげない者が、下層の荒くれどもの体を預かっている。その不思議な均衡を、レイヴァスは桶を運びながら何度も目にした。

 

治療所の布が、慌ただしく捲れたのは、昼の配給が終わったばかりの頃だった。

 

「担架だ。誰か、手を貸せ」

 

叫んだのは、採取隊の男だった。岩壁に沿って並ぶ寝台の間を、血の匂いが一気に押し広げていく。運び込まれたのは獣人の男で、虎に似た耳は泥と血で頭に張り付くように倒れ、尾は担架からはみ出して力なく揺れていた。腹から脇にかけて、原生の獣の牙が深く抉った痕がある。布で押さえても指の間から血が滲み、男の呼吸は浅く、喉の奥でひゅうひゅうと鳴っていた。

 

レイヴァスは、言われる前に担架の端を担いだ。男の体は見た目より重く、傷に触れるたび、獣人の爪が無意識に空を掻いた。受け止めるな、流せ。彼はその力の向きを腕でいなしながら、イリスの待つ仕切りの奥へと男を運んだ。

 

「ここへ。下ろすときは、ゆっくりと。傷のある側を、上にしないでください」

 

イリスの声は騒ぎの中でも乱れなかった。袖をまくり、亜麻色の髪の結い目を確かめるように一度だけ触れると、彼女は寝台の傍らに膝をついた。掌を傷口へかざす前に、まず男の額へ、次に胸へと手を当て、呼吸の浅さを数える。その仕草には、戦場で間合いを測る者に似た、迷いのなさがあった。

 

男の瞼が震え、薄く開いた。濁った瞳がイリスを捉え、次いで、彼女の胸元に下がる唯一神の印を捉えた途端、体が強張った。

 

「……教会の、女か」

 

かすれた声だった。拒絶というより、長く染みついた警戒の色が濃い。助けを求めて運ばれてきたはずの男が、治療の手を前にして、逃げようとするように身をよじった。傷が開き、新しい血が布を染める。

 

「動かないでください。血が、止まらなくなります」

 

「触るな。お前の神は……俺たちの言葉を、聞いたことがない」

 

治療所のざわめきが、ひときわ低くなった。採取隊の者たちが顔を見合わせる。ガルフが、寝台の少し離れたところで腕組みをしていた。銀灰の耳がぴくりと動き、彼は短く言った。

 

「死にたくなければ、暴れるな。神の話は、生きてからしろ」

 

ぶっきらぼうだったが、効いた。獣人の男はガルフの耳と尾を見て、同じ獣人の血を確かめたように、わずかに力を抜いた。だが、その瞳の警戒はイリスから外れない。

 

イリスは、手を引かなかった。かといって、無理に近づきもしなかった。掌を男の胸の上、傷から一寸離れたところで止め、目を合わせたまま、ゆっくりと言った。

 

「神の名で、あなたを縛りはしません。……ただ、血を止めさせてください。それだけで、構いません」

 

沈黙があった。男の呼吸が二つ、三つと過ぎ、やがて、掠れた吐息とともに頷きとも取れない動きがあった。イリスはそれを許しと受け取り、ようやく両手を傷口へかざした。

 

 

光は、最初、蝋燭の炎のように小さかった。

 

掌の中心に集まった白が、震えながら形を保ち、糸のように細く伸びて傷口へ触れる。触れた途端、光は水に落とした油のように広がり、めくれた肉の縁を内側からそっと押し戻していった。レイヴァスは目元が眩むのを感じた。長命種の血を引く彼の感覚は、光の流れを皮膚で捉える。攻撃の棘はない。だが、今日の光は以前見たときより、どこか張り詰めていた。

 

「大丈夫です。息を、ゆっくり。私の声に合わせて、数えてください」

 

男の荒い呼吸が、イリスの声の間合いに少しずつ寄せられていく。光は血の勢いを堰き止め、やがて止血の膜のように傷口を覆った。採取隊の男が、ほっと息を吐く。しかし、イリスの表情は緩まなかった。

 

「牙に、穢れが残っています。……このまま閉じれば、中で腐ります」

 

彼女は目を閉じ、祈りの言葉を紡ぎ始めた。唯一神アステイアの名。慈悲を請う古い句。穢れを退けるための定型が、静かな水の流れのように続いていく。光の質が変わった。温かさの中に、清い冷たさが混じる。傷口から黒ずんだものが泡のように浮かび上がり、光に触れるたび、煙を上げて消えていった。

 

浄化は、穏やかなだけの行いではなかった。黒いものが押し出されるたび、男の体が弓なりに反り、爪が寝台の布を引き裂いた。レイヴァスは肩を、ガルフが脚側を押さえた。男の力は獣人の膂力で、衰えた体でも並の男二人では揺れるほどだった。レイヴァスは力任せにねじ伏せず、暴れる力の向きを受け、逃がし、傷口が開かぬ角度へ体を導き続けた。

 

「もう少しです。……もう少しだけ、堪えてください」

 

イリスの額に汗が浮かんだ。祈りの声は乱れないのに、掌の光が一度、目に見えて細った。自分の内側から何かを汲み出して注いでいるのが、レイヴァスにも分かった。奇跡は、天から無尽蔵に降るものではない。使う者の集中と、体力と、信仰の芯を、静かに削りながら形になるものだった。

 

黒い泡が途切れた、と思った瞬間だった。傷の奥で、何かが脈打った。光の膜の下、脇腹の奥から黒い筋が新たに這い上がり、止まりかけた血に混じって広がっていく。獣の牙は一本ではなかったのだろう。深く残ったもう一つの穢れが、浄化に押し負けまいとするように、内側から傷を食い破ろうとしていた。

 

「まだ、奥に残っています。……離さないでください」

 

イリスの声が、初めてわずかに張り詰めた。彼女は祈りの句を変えた。穢れを退ける定型ではなく、守りのための、より古い祈りだった。光が二重になった。内側では浄化の清い冷たさが黒い筋を追い、外側では結界の膜が傷口を包んで、穢れの逃げ道と血の出口を同時に塞ぐ。二つの奇跡を同時に編む負担は大きく、彼女の肩が目に見えて震え始めた。

 

レイヴァスは男の肩を押さえながら、もう一方の手で、よろけたイリスの肘を支えた。細い腕だった。触れたところから、彼女の体の熱が下がっているのが分かる。汲み出すものの深さが、その冷たさに表れていた。

 

「無理をするな、とは言わない。……だが、倒れるな」

 

「はい。……倒れません。あと少し、ですから」

 

彼女は目を閉じたまま、微かに笑った。黒い筋が、光の二重の圧に押されて、少しずつ、少しずつ後退していく。男の爪が最後に一度大きく布を掻き、やがて、墨のような雫が一筋、傷口から押し出されて、光の中で消えた。男の体から力が抜け、荒かった呼吸が、深く、遅くなっていく。

 

「……峠は、越えました」

 

イリスはそう言って、初めて小さく息を吐いた。だが、彼女はすぐに次の手を打った。指先で傷の縁を確認し、光を薄く広げて腹全体を覆い、内側に残った熱を沈めていく。守りの薄い膜が編まれる気配があった。外からの穢れを寄せつけず、内側の治りを促す、彼女の結界だった。

 

採取隊の男が、恐る恐る尋ねた。

 

「助かるのか」

 

「今日のところは。けれど、油断はできません。三日は動かさず、熱が出れば、夜でも私を呼んでください」

 

 

治療の後始末は、地味で長かった。

 

血に汚れた布を替え、水で傷の周りを拭い、薬草を煎じた湯を少しずつ飲ませる。イリスはその全てを、種族や身分で手を変えることなく行った。獣人の男は、熱の出てきた目で彼女の手元を見つめていた。警戒は消えていない。だが、そこには戸惑いが混じっていた。

 

「……なぜだ」

 

「何が、でしょう」

 

「教会の者は、俺たちを人とは呼ばなかった。穢れた血だと言って、村の外に追い、祈りの言葉すら、獣に向けるものじゃないと……。なのに、お前は」

 

イリスは手を止めなかった。だが、その横顔がわずかに曇るのを、レイヴァスは見た。

 

「言葉は、使う者の心を映します。……同じ祈りでも、誰かを追うために唱えれば、それは祈りではなくなります」

 

「お前の神は、それを許したのか」

 

問いが、静かに深く刺さった。イリスは湯の入った椀を持ったまま、しばらく答えなかった。治療所の外では市場のざわめきが戻り始め、別の寝台では老人が咳き込んでいた。

 

「私は……今も、答えを探しています」

 

ようやく出た声は、小さかった。

 

「ですが、答えが見つかるまで手を止めれば、目の前の血は流れ続けます。だから私は、まず止めるんです。神のためではなく……いえ、神のため、なのかもしれません。私にはまだ、それも分かりません」

 

男の視線が、イリスの腕に留まった。彼女の腕輪だった。聖者の格を示す刻印のある、その輪を、男は熱の目で見つめていた。

 

「……お前も、ここに落とされた口か」

 

「はい」

 

「神の寵児が、なぜ」

 

「教えを説いて、疎まれたからです。……それだけのことです」

 

軽く言ったつもりなのだろう。だがレイヴァスには、その「それだけ」の裏に、押し込まれたものの重さが見えた気がした。イリスは椀を置き、濡らした布で男の額を冷やしながら、ぽつりと続けた。

 

「外にいた頃、私は、傷ついた方に手をかざすことが神の御心だと思っていました。今も、半分はそう思っています。残りの半分は……誰のためにこの力があるのかを、まだ考えている途中です」

 

「考える聖女か。……教会の連中は、考える前に石を投げる」

 

「石を投げたのは、人です。神ではありません」

 

言ってから、イリスは自分の言葉に驚いたように、わずかに目を見開いた。だが、取り消しはしなかった。男も、それを咎めなかった。むしろ、熱の向こうで、かすかに口の端を歪めた。笑ったのかもしれなかった。

 

「……面白い女だ。死なずに済んだら、礼の代わりに、俺の村の話をしてやる。お前の教会が、記録から消した村の話だ」

 

「はい。そのときは、ぜひ」

 

イリスは静かに頷いた。その頷きには、聞くことを恐れながら、それでも聞かなければならないと決めた者の、覚悟の色があった。

 

男はそれ以上問わなかった。熱に浮かされた瞳が、ゆっくりと閉じていく。だが眠りに落ちる間際、その唇がかすかに動き、レイヴァスは耳を澄ました。

 

 

ガルフが先に、仕切りの外へ出た。レイヴァスも水の桶を替えようと腰を浮かせかけたときだった。

 

「……知っている」

 

男のうわごとだった。熱に浮かされた声は、さっきまでの警戒とも、問いとも違う、遠い響きを持っていた。

 

「その祈りの声……。昔、聞いた。……檻の外で、誰かが泣きながら唱えていた。氏族の火が、空まで届いた夜に」

 

イリスの手が、止まった。

 

椀を持つ指に、かすかな震えが走る。祈りの言葉が、彼女の唇の上で、一瞬だけ淀んだ。アステイアの名を呼ぶ声に、答えのない空への呼びかけの色が、かつてレイヴァスが見たときよりも濃く滲んだ。

 

男は、もう眠っていた。寝息は穏やかで、傷口を覆う光の膜が、薄く明滅している。うわごとの意味を知る者は、この場には、あるいは一人しかいなかったのかもしれない。

 

イリスは何も言わず、椀を置き、男の額に掌を当てた。再び祈りが紡がれる。今度は最後まで淀みなく、澄んで、静かだった。けれどレイヴァスは見てしまったのだ。その祈りの最中、彼女の閉じた瞼の縁に、光ではないものが一度だけ滲み、袖で拭われる前に消えたのを。

 

治療所を出ると、ガルフが壁にもたれて待っていた。

 

「……あの男、どこの氏族か知らねえが」

 

彼はそれだけ言い、耳を伏せて黙した。だが、数歩歩いてから、付け足すように言った。

 

「獣人の間で、教会の聖女ってのは、災いの前触れみたいに言われることがある。聖女が来た村は、後で兵が来る、ってな。……あの女が、それを知らないはずはない」

 

「知っていて、なお手を伸ばす、ということか」

 

「ああ。だから、厄介なんだ。敵にも、味方にも、しきれない」

 

ガルフの言葉は、非難ではなかった。種族という括りを信じきれない男が、括りの外で人を救い続ける女に向けた、測りかねるような眼差しだった。レイヴァスは、それ以上を聞かなかった。言わなかったことの重さが、言葉よりも残った。

 

治療所の布の向こうでは、聖女の祈りがまだ続いている。誰かの血を止め、穢れを祓い、答えの出ない問いを抱えたまま、それでも澄んで響く声だった。ただ、その声の奥で、一瞬だけ淀んだ祈りの響きが、レイヴァスの耳には残り続けていた。あの夜、檻の外で泣きながら唱えられたという祈りと、今日の祈りが、どこで重なるのか。答えを持つ者は布の向こうにいる。だが今はまだ、問うべき時ではないのだろう。


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