# 第18話「格の綻び」
その男を、レイヴァスは市場の外れで初めてまともに見た。
年は四十を半ばほど。人族の男で、背は高く、かつて槍を振るったであろう肩の張りはまだ残っていた。だが、頬はこけ、目の下には濃い隈がある。名をセリオスといった。外の世界では「疾風の槍」と呼ばれた者だ。王国の騎兵の先頭に立ち、丘を駆け下りるように戦場を割った男。彼の武勲は歌になり、酒場で、祝祭で、戦の前の兵たちの間で、長く歌われてきたという。
セリオスが監獄へ落とされた理由を、レイヴァスは市場の噂で聞いていた。退却命令に背き、置き去りにされかけた味方の歩兵隊を救うために、単身、敵の騎兵へ突撃したのだという。王国の軍律はそれを許さず、救われた兵たちの嘆願も届かなかった。だが、その出来事こそが、彼の歌の最後の一節になっていた。命令に背いてでも人を救った槍。その一節がある限り、彼はただの軍律違反者ではなく、兵たちの英雄でいられたのだった。
その男が、情報屋の前に立っていた。
「届きましたよ、故郷からの便りが。……高い買い物でしたが、あなたは常連ですから」
サテラザールはいつもの穏やかな笑みで、小さな包みを差し出した。行商の荷の陰で、声は周囲に漏れない調子に落とされている。レイヴァスは店先で素材を売るついでに、その様子を横目で見ていた。男の感情を読む情報屋は、相手の顔を見ながら、言葉を選ぶように間を置いた。
「先に言っておきます。良い報せでは、ありません」
セリオスは包みを受け取り、封を切った。中には故郷の知人からの手紙と、祝祭の次第を書き写した紙が入っているらしかった。読み進めるにつれ、男の顔から、少しずつ色が抜けていった。
「……歌が、ない」
「今年の勝利祭では、あなたの武勲歌は外されたそうです。若い英雄が新たに立って、その者の歌が、代わりに」
「銅像は」
「倉に移されたと、聞いています。壊されはしなかった。……それが、せめてもの」
サテラザールは、慰めにもならない慰めを、静かに置いた。彼は感情を読む。だからこそ、今のセリオスに何を言えば傷が浅く済むかも、よく分かっていたはずだった。それでも、報せそのものを柔らげる術は、情報屋にもなかった。
セリオスはしばらく、手紙を握ったまま立っていた。市場の喧騒が、彼一人を置いて遠のいていくように見えた。
「十五年だ。十五年、歌われ続けてきた歌だぞ。それが、一年で……」
「国があなたを貶めているわけではない、と思いますよ。若い英雄を立てる必要が、向こうにもあったのでしょう。ですが」
情報屋は、初めて笑みを薄くした。
「理由がどうあれ、語られなくなったという事実は、ここでは重い。……体調の変化があれば、早めに治療所へ」
異変は、思ったより早く訪れた。
三日後の昼、レイヴァスが治療所へ水を運んだとき、セリオスは一番端の寝台に横たわっていた。市場の外れで見たときよりも、さらに頬がこけている。配給のパンは枕元に半分残され、代わりに、彼は何度も水を求めたという。
「食べてはいるんです。ですが、満たされないと」
イリスが、小さな声でレイヴァスに言った。彼女の掌の光は、セリオスの胸の上で弱々しく明滅していた。傷を治す光ではない。衰えた体の内側を、そっと支えるような光だった。
「傷でも、病でもないのか」
「違います。これは……格の綻びです」
イリスは、言葉を選ぶように、セリオスの周囲を見つめた。彼女にしか見えない光が、そこにあるのだろう。
「あの方の光は、槍の穂先みたいでした。鋭くて、真っ直ぐで、風を切るような光。ですが今は……先から、細っています。糸がほつれるように、端から解けて、揺らいでいるんです。色も、澱んできました」
「報せのせいか」
「外で語られなくなれば、ここにいる体にも、届きます。取り立ては、この階層の分だけ、毎日容赦なく行われます。これまでは、語られる輝きがそれを上回っていた。ですが今は、入ってくるものより、出ていくものの方が、多くなってしまったんです」
レイヴァスは、自分の腕の腕輪を見た。取り立ては、音もなく、痛みもなく行われる。寝ている間も、働いている間も、等しく。だからこそ、綻びは静かに、そして確実に広がっていくのだった。
セリオスが目を開けた。焦点の合わない目が天井をさまよい、やがてイリスを捉えた。
「聖女。……腹が、減っている」
「先ほど、粥を召し上がったばかりですよ」
「分かっている。分かっているが、減っているんだ。腹じゃない。もっと奥が……。例えるなら、穴の空いた桶だ。水を注いでも、注いでも、底から抜けていく」
男の手が、布団の上を彷徨い、何かを掴もうとして空を掻いた。
「歌を、思い出そうとするんだ。若い頃の戦のことを。だが、思い出せば思い出すほど、……今の俺が、薄くなる」
イリスは彼の手を、両手でそっと包んだ。光が指先から滲み、手の震えを静かに沈めていく。
「大丈夫です。今日は、私が傍にいます。ゆっくり、息をしてください」
「……すまない。情けない話だ。槍を持てば、百人を相手にしても震えなかった男が、歌一つ止んだくらいで」
「歌は、あなたにとって、ただの歌ではありません。あなたが誰かに与えてきたものの、形そのものです。それが揺らぐのは、足場が揺らぐのと同じことです。情けなくなど、ありません」
セリオスの目尻に、涙が一筋、伝った。彼はそれを拭おうともせず、やがて浅い眠りに落ちていった。眠りの中でも、その唇は小さく動いていた。歌の文句を、無意識に辿っているように。
翌日、レイヴァスはイリスに頼まれ、セリオスの荷を宿舎から運んだ。小さな包みだった。手入れの行き届いた槍の穂先の布、折り畳まれた軍装の名残、そして、歌の文句を書き留めた古い紙束。彼はその紙束を、枕元に置くよう強く望んだ。
「忘れたら、俺は本当に、ただの抜け殻になる」
セリオスは紙を撫でながら言った。その指は震えていた。
「落ちる、というのは、こういうことか。剣で斬られる方が、よほど楽だった」
「まだ、落ちてはいません」
イリスはきっぱりと言った。その声に、祈りのときと同じ芯があった。
「光は細りましたが、まだ灯っています。……灯っている限り、私は諦めません。あなたも、諦めないでください」
セリオスは、しばらく彼女を見ていた。やがて、掠れた声で、自分の歌の冒頭を口ずさんだ。声は弱かったが、節は確かだった。その間だけ、彼の顔から恐怖の色が薄らいだのを、レイヴァスは見た。
衰弱は、その後も止まらなかった。
五日目には、セリオスは一人で寝台から起き上がれなくなっていた。採取はもちろん、市場の配給の列に並ぶことすらできない。代わりに列へ行く者は日替わりで現れたが、それは彼の誇りを静かに削った。かつて先頭に立った男が、今は列の最後尾にすら立てない。
もっと周囲を不安がらせたのは、彼の目の変化だった。
彼は、人の腕輪を、よく見るようになった。見舞いに来た者の腕。治療所を出入りする者の腕。重ねた輪の多い者を見るとき、その目には、羨望とも渇望ともつかない、熱のようなものが浮かんだ。
「……お前は、輪が三つもあるのか。いいな。格が、満ちているんだろうな」
言われた若い男が、思わず腕を引いた。セリオスははっとして目を伏せ、震える声で詫びた。
「すまん。……借りたい、と思ったわけじゃない。ただ、見ていると、奥の空っぽが、疼くんだ」
飢え。それは、堕落の手前にあるものの名だった。払い続け、空っぽに近づいた英雄の奥に開く、満たされない穴。レイヴァスは、その穴が、人の物語そのものを欲しがるのだと、そのとき理解した。腕輪は名声の形だ。飢えた目が輪に向かうのは、食い物に手を伸ばすのと、同じ衝動なのかもしれなかった。
イリスは、彼から目を離さなかった。食事の世話をし、夜中にうなされれば光をかざし、彼の語る昔の戦の話を、遮らずに聞いた。話している間だけ、セリオスの周囲の光は、わずかに持ち直すのだと、彼女は言った。
「語ることは、思い出すことです。思い出す間は、その方の輝きは、その方自身の中で灯っています。……ですが、それだけでは、取り立てには追いつきません」
「外の歌が戻らなければ、どうなる」
レイヴァスが問うと、イリスは静かに首を振った。
「分かりません。歌が戻ることもあれば、別の形で語られ直すこともある。この方自身が、ここで新しい物語を紡ぐことも。……道は、一つではありません。けれど、どの道も、今日明日の話ではないんです」
残酷なのは、時間だった。取り立ては待たない。なのに、回復の道は、どれも長い月日を要する。その間を、人は細っていく光だけで耐えなければならない。
その夜、レイヴァスは治療所の帰りに、サテラザールと行き会った。
情報屋は市場の外れの暗がりに立ち、治療所のある方角を眺めていた。珍しく、笑みが薄かった。
「セリオスさんの様子は」
「良くはない」
「でしょうね。……彼の顔は、報せを渡した日から、読むのが辛い顔になりました」
サテラザールは、感情を読む者だった。衰えていく男の、恐怖も、焦りも、恥も、彼は誰より近くで読んできたのだろう。
「恨まれますかね、私は。報せを運んだ者として」
「運ばなければ、知らないまま細っていただけだ。……知る方が、まだ戦える」
「そう言っていただけると、商いが続けられます」
男は薄く笑い直したが、その目は笑っていなかった。情報屋の売るものは、希望だけではない。人の格を崩す報せも、値段がつけば商品になる。その冷たさと、それを運ぶ者の微かな痛みとが、この男の中では同居しているのだった。
「一つだけ、無料で差し上げましょう。……彼の故郷では、新しい英雄を立てる祝祭の準備が、もう始まっているそうです。人の物語は、空いた場所を、すぐに別の物語で埋めたがる」
「それを、彼に伝えたのか」
「いいえ。商いとはいえ、限度はあります。……読めてしまうんですよ、その先を聞いた顔が、どう崩れるかが」
サテラザールは、小さく息を吐いた。
「情報は、渡す相手と、渡す時を選ばなければ、刃物と変わりませんから」
治療所へ戻る途中、レイヴァスは自分の光のことを考えていた。
彼自身の格は、イリスが見た通り、定まっていなかった。絹のような敬慕と、棘のような悪名。その二つがせめぎ合い、明滅する光。セリオスのように、一つの物語に支えられた光は、その物語が崩れれば、一気に細る。では、二つの物語に引き裂かれた光は、どう崩れるのか。絹が先に擦り切れるのか、棘が先に折れるのか。それとも、揺れ続けること自体が、静かな消耗になっているのか。
悪名は、不安定だと聞いていた。噂は風より速く変わる。剣聖殺しの名が、別の土地で別の形に語られ直しただけで、彼の足場は揺らぐのかもしれない。そのとき、治療所の端の寝台に横たわるのは、彼自身かもしれないのだった。
そして、もう一つ、彼を重くしたのは、セリオスの衰弱が、誰の悪意でもなく進んだという事実だった。牢番が苛めたわけではない。派閥が手を下したわけでもない。外の世界が、ただ新しい物語を必要とし、一人の英雄の歌を静かに閉じた。その偶然のような力の前では、剣も、合気の型も、何の役にも立たなかった。受けて崩す型は、攻めてくる相手がいてこそ成り立つ。だが、格の綻びには、受け止めるべき一撃がどこにもないのだった。
怖い、と思った。正直に、そう思った。戦場の恐怖とは違う、足の下の地面が、自分の知らない場所で少しずつ崩れていく恐怖。それでも、彼は深くへ潜ることを止められない。託けが、腕の中で重く沈んでいる。進むことも、留まることも、どちらも綻びと無縁ではいられない場所が、カルナヴェイルだった。
夜の通路は、昼の喧騒が嘘のように静かだった。
宿舎へ戻る道すがら、レイヴァスは、壁の向こうから聞こえる小さな声に足を止めた。セリオスが預けられている、治療所脇の静養の小部屋だった。声は低く、節があった。歌だった。自分の武勲歌を、彼自身が、忘れまいとするように歌っていた。
駆け下りる丘。風を切る槍。後に続く兵たちの歓声。歌は若々しく、力強く、かつての彼そのものだった。だが、三節目に入ったところで、声が途切れた。続きの文句が、出てこなかった。長い沈黙の後、最初から歌い直す声がした。今度は、二節目の半ばで止まった。
レイヴァスは、壁に手を当てたまま、動けなかった。歌を忘れていく男と、語られなくなった男とが、壁一枚の向こうで重なっていた。
やがて、三度目の歌い出しはなかった。代わりに聞こえたのは、絞り出すような、かすかな嗚咽と、それを押し殺す沈黙だった。
夜の通路の静けさは、昼よりずっと深く、冷たかった。レイヴァスの腕で、腕輪が微かに重みを増したように感じられた。取り立ては、眠る者の上にも、等しく降り続いている。その静けさの中で、細っていく光の音は、誰にも聞こえなかった。




