# 第16話「深みの素材」
採取行の誘いが来たのは、白狐との商談の翌日だった。
下層の通路の奥、普段の採取場より更に深い場所で、深層に近い性質の素材が見つかったという。岩壁に食い込む黒い結晶と、獣の巣の跡に残る硬い鱗。どちらも、本来ならもっと深い階層でしか採れない品だった。それが下層の蜘蛛の巣状の通路の奥に顔を出しているのは、迷宮の流れが変わりつつある証拠なのかもしれなかった。
出発したのは四人だった。レイヴァス、ガルフ。そして採取を生業とする男が二人。背負い籠と鑿と、獣除けの松明を手にしていた。武器らしい武器は、ガルフの短槍だけだった。レイヴァスは、掌の火傷の痕を確かめながら、空の両手を握って開いた。今日も、武器はなかった。
通路は初めのうち、普段と変わらなかった。やがて広間を二つ過ぎ、人の手で付けられた目印が途絶えると、空気が変わった。湿り気が増し、壁の苔が青白く光り、足音が妙に遠くまで響いた。ガルフが先頭で何度も立ち止まり、耳を澄まし、鼻を鳴らした。
「獣の匂いが、重なっている。群れだ。数は……十を下らない」
「退くか」
採取の男の一人が、籠の紐を握り直して言った。ガルフは答えなかった。先へ進むか退くかは、広間の様子を見てからでも遅くはない。その判断だった。
深い通路の途中、壁の性質が変わる場所があった。岩が黒ずみ、指で触れると僅かに温かい。ガルフはその壁に鼻を寄せ、忌々しそうに言った。深い階層の獣ほど、匂いが薄く、気配が岩に紛れるのだという。レイヴァスの耳にも、普段なら捉えられるはずの爪音が、ところどころ途切れて聞こえた。地形そのものが、獣の味方をしていた。
採取の男の一人、年長の方が、壁の結晶を見て小さく息を吐いた。この色の結晶は、中層の工房で武具の芯に使われるのだという。深い素材を芯にした武具は、浅い素材のものとはまるで値段が違う。だが、採れる場所が深くなるほど、死ぬ者の数も跳ね上がる。素材の値段とは、そこへ行って帰ってきた者の命の値段だった。男は鑿を握り直した。その手が僅かに震えているのを、レイヴァスは見た。
結晶の広間は、思ったより広かった。天井が高く、黒い結晶が柱のように幾本も突き出し、その根元に、硬い鱗が散らばっていた。広間の片隅には、いつ倒れたのかも分からない結晶の柱が一本、横たわっていた。採取の男たちが鑿を打ち始める。乾いた音が広間に響き始めた。
そのとき、ガルフの耳が、広間の奥へ向いた。
「……誰かいる」
広間の奥、結晶の柱の向こう、深い通路へ続く闇の縁に、人影があった。レイヴァスは目を凝らした。月明かりのない地の底で、その姿だけが、わずかに輪郭を保っているように見えた。ルナーリアだった。短剣を腰に差し、袖の内側に何も持たない手を保ち、広間の奥の壁に片手を触れたまま、こちらを振り返りもせず立っていた。
雇われたのでも、誘われたのでもない。彼女は、自分の目的で、この深い場所に来ていた。採取隊の行く場所と、彼女のいる場所が、重なった。それだけのことだった。
「月の客人まで、こんなところに」
採取の男が呟いた。ルナーリアは、ようやく視線だけをこちらへ向けた。その瞳には、歓迎も、警戒の色すら薄かった。遠くにあるものを見る目だった。
「あなたたちが何をしに来たのかは知らないわ。私は私の用事でここにいるの。……邪魔はしないで。私は、あなたたちを助けに来たわけじゃないわ」
声は穏やかだったが、近づくことを許す響きは、どこにもなかった。ガルフは何も言わなかった。背中を預ける相手ではない。同じ広間に、別々の理由で立っている者がいる。その事実だけを、彼は受け入れた男の顔で聞いていた。
ルナーリアは再び壁へ向き直り、指先で岩の表面をなぞり始めた。何を探しているのか、彼女は語らなかった。レイヴァスも、尋ねなかった。月の客人と呼ばれる女は、そこにいて、見えているのに、届かない。その距離は、頼めば縮まるものではないように思えた。
最初の襲撃は、音もなく来た。
天井の影から、壁這いの獣が二頭、真下へ落ちてきた。採取の男の悲鳴より早く、ガルフが短槍を横へ払った。槍の石突きが一頭の横腹を弾き、もう一頭はレイヴァスの前に落ちた。爪が彼の胸元を薙ぐ。レイヴァスは身体を半歩沈め、突進の勢いをそのまま受けず、前脚の関節の内側へ手を差し入れた。脚の向きと、体重の掛かる方向を読む。捻りながら手前へ引き、自分の体重を獣の肩口へ預けるように倒れ込む。獣の前脚が関節の向きに逆らって折れ曲がり、巨体が岩の上へ崩れた。起き上がろうと暴れる首の付け根へ、彼は上から全体重を落として押さえ込み、空いた掌の付け根を顎の関節の裏へ打ち込んだ。硬い音と共に獣の顎が外れ、噛み付く力が消えた。更にこめかみの横へ肘を落とすと、獣の四肢から力が抜け、痙攣して止まった。刃は要らなかった。崩して、関節を外し、急所を打つ。それで、獣は戦えなくなる。
ガルフが、弾かれたもう一頭の喉へ短槍を突き入れた。広間の奥へ跳んだ一頭が、ルナーリアの方へ向かった。彼女は振り返り、片手を軽く払った。風の刃が獣の頭を壁へ叩き付け、その獣は落ちて動かなくなった。彼女の用事の邪魔になる獣を払っただけだった。視線は、一度も採取隊の方へ戻らなかった。
だが、広間の奥から、地響きのような足音が重なった。群れの本隊だった。目が闇の中で幾つも光る。小型の獣だけで十頭を超え、その後ろに、肩の高さが人の胸ほどもある大型の個体が、ゆっくりと姿を現した。背には採取に来た鱗と同じ、黒く硬い甲が連なり、息をするたびに甲と甲が擦れて、鉄のような音を立てた。
ガルフが喉を鳴らし、やがて遠吠えを放った。
それは普通の吠え声ではなかった。腹の底から絞り出され、通路の壁に反響して重なり合い、聞く者の骨の芯を直接震わせる、銀狼の固有の力だった。小型の獣たちが一斉に竦み、数頭が尾を巻いて闇へ退いた。戦意を失い、よろよろと後ずさる個体もいた。
だが、大型の個体は退かなかった。耳を伏せ、唸りを深くするばかりだった。格の高い獣には、遠吠えは届いても退く理由にはならない。むしろ、挑まれたと受け取ったように、その巨体が一歩、前に出た。
「効かねえか。……来るぞ」
大型が突進した。レイヴァスは正面に立った。逃げれば後ろの採取の男たちが喰われる。彼は突進の軌道を読み、最後の一歩で身体を内側へ潜り込ませ、巨獣の前脚の付け根へ両掌を打ち当てた。受けて、崩す。何百貫もの勢いが腕を通して地面へ流れ、彼の足下の岩が軋んだ。巨獣の体勢が僅かに傾いた。その傾きに乗って前脚の関節を捻り上げようとしたが、脚は太く、甲に覆われた関節は、人の腕の力では角度を変えさせなかった。指が滑り、爪が彼の腕を深く掠めた。顎の下を狙った掌も、甲の縁に弾かれて届かない。小型の獣に通じた手順が、大型の前では、初めの一手から噛み合わなかった。その隙に、ガルフが側面から短槍を突いたが、槍先は甲に滑り、火花を散らして弾かれた。
「甲が硬すぎる。腹か、関節を狙え」
「分かっている。だが、あの速さで腹は見せない」
小型の獣の残りが、再び群がってきた。今度は一斉ではなかった。数頭はレイヴァスとガルフへ、数頭は広間の奥、ルナーリアの立つ場所へ向かった。群れは、広間にいる者すべてを獲物と見ていた。
レイヴァスへ跳んだ一頭の顎を、彼は掌で押し上げて軌道を逸らし、そのまま首筋へ腕を回して、倒れ込む獣の上に自分の体重を重ねた。岩と彼の体重の間で獣の首の関節が悲鳴を上げ、やがて動きが止まった。もう一頭が背後から腕に牙を立てたが、彼は振りほどかず、逆に牙の立った腕ごと獣を引き寄せ、こめかみへ膝を打ち込んだ。獣は目まいを起こしたように横へよろけ、その場に崩れた。徒手でも、獣は無力化できる。ただし、それは一頭ずつ、間合いと姿勢を読めたときに限る話だった。群れの全てを、同時に相手にできる型ではなかった。
広間の奥では、別の戦いが起きていた。獣がルナーリアの周りを囲み、彼女が触れていた壁と、奥の通路への道を塞いでいた。彼女の水の膜は、採取隊の方へは張られなかった。彼女自身を中心にだけ水が渦巻き、風が彼女の立つ場所の周りだけを薙いだ。獣たちは彼女の用事の邪魔であり、彼女はその邪魔を払うためにだけ魔法を使っていた。採取の男の一人が、彼女の風の届かない場所で獣に追われ、足を取られて転倒した。助けに入ったのはガルフだった。ルナーリアは、その光景に視線を向けなかった。
馴れ合いの連携は、そこにはなかった。同じ獣と戦ってはいても、守る場所も、進む理由も、別々だった。レイヴァスが正面を受け、ガルフが男たちを拾い、ルナーリアが自らの周りを焼き払おうとしている。利害が、辛うじて同じ広間の中で重なっているだけだった。
大型が再び頭を下げた。二度目の突進の目標は、広間の奥だった。ルナーリアの立つ場所が、巨獣の縄張りの芯にあるのか、それとも魔法の気配を本能で嫌ったのかは分からない。巨獣は結晶の柱の間を抜け、彼女へ向かって地を蹴った。彼女は逃げなかった。片膝を付き、両の掌を地面へ向け、短く何事かを唱えた。
空気が、変わった。
湿っていた広間の空気が一瞬で乾き、レイヴァスの喉の奥が焼けるように熱くなった。ルナーリアの髪が逆立つように揺れ、その掌の周りに、火の粉が渦を巻いて集まった。風が火を煽り、水の膜が蒸気となって白く爆ぜた。彼女の切り札、火の魔法だった。彼女自身の退路と、用事の道を塞ぐものを、開くための火だった。
炎は柱のように立ち上がり、大型の巨獣の正面を呑んだ。甲が熱で弾ける音が連続し、獣が初めて悲鳴らしい声を上げた。炎の中で、その巨体がのたうち、熱に弱い目と鼻先が焼かれ、突進の軌道が大きく逸れた。巨獣は広間の壁へ激突した。壁は揺れもしなかった。迷宮の壁は、巨獣の体重をもってしても、傷一つ付かなかった。弾かれた巨体が岩の上を滑り、焼けた甲を重そうに引きずって、数歩のところで止まった。
だが、火は陣形をも何も、残さなかった。熱風で採取の男の一人が転倒し、背負い籠が弾け、採りかけの結晶が散らばった。蒸気と煙で視界が閉ざされ、小型の獣が煙の中から男へ飛びかかった。レイヴァスは煙を割って駆け、獣の前脚を掴んで関節の向きへ捻り倒し、上から押さえ付けたまま、顎の下へ掌底を打ち込んだ。獣は痙攣し、動かなくなった。腕の傷が開き、血が岩を濡らしたが、手は最後まで離さなかった。
ガルフの槍が、煙の向こうで別の獣を仕留めた。大型の巨獣は、焼けた甲の重みに耐えかねるように、ゆっくりと横倒しになった。だが死んではいなかった。荒い息を吐き、焼けた目で虚空を睨み、なお立ち上がろうと脚を掻いた。ルナーリアが止めの炎を放とうと手を掲げたが、その指先の火は先ほどより明らかに細く、揺らいで消えた。彼女の顔は青白く、掲げた手そのものが震えていた。大きな魔法は、力を食う。切り札は一度切れば、その日の彼女の手札そのものを大きく減らすものだった。
「もういい。退くぞ。あれは追ってこられる状態じゃない」
ガルフの判断だった。大型を仕留め切ることに固執すれば、煙と熱で乱れたまま、残りの獣に囲まれる。採取の男たちは散らばった結晶と鱗を、拾えるだけ籠へ放り込んだ。予定の半分にも満たなかったが、深い素材は僅かでも値が違う。足を挫いた男を担ぎ、一行は広間を退いた。背後で、巨獣の唸りが低く続いていたが、追撃はなかった。
ルナーリアは、一行と共には退かなかった。壁に片手をついて立ち上がり、煙の向こうから、疲れ切った声だけが届いた。
「……先に帰りなさい。私は、私の道を帰るわ」
手を貸そうとした採取の男の言葉にも、彼女は首を振らなかった。彼女は別の細い脇道へ、一人で歩き出した。その背中は、誰の支えも求めていなかった。月の客人は、借りも貸しも作らない。レイヴァスは、その背中が見えなくなるまで、何も言えなかった。
広間を離れる直前、レイヴァスは横たわる結晶の柱の根元に、奇妙なものを見た。獣の爪痕にしては深く、規則正しく並んだ削り跡だった。何かが、長い年月をかけて削ったような、あるいは何度も同じ場所を引っ掻いたような跡だった。ガルフに尋ねようとしたが、狼の男は既に出口の気配を探っており、煙の向こうでその跡はすぐに見えなくなった。今は命を持ち帰ることが先だった。だが、その削り跡の形は、レイヴァスの目に焼き付いて残った。
採取の成果は、籠の底に僅かに残った結晶と、数枚の硬い鱗だけだった。それでも男たちは、その僅かな素材を布で丁寧に包んだ。欠けた結晶の一片でさえ、下層の店では普段の採取の数日分になるのだという。深みの素材とは、量ではなく深さで値が付くものだった。帰れば、今日の戦いは貨幣の重さに換わる。だが、その重さの一部は、失われた籠一杯分の結晶と、負傷した男の歩みの遅さと、焼け焦げた広間に置いてきたものと引き換えだった。
帰りの通路は、行きより長く感じた。レイヴァスの腕は血で濡れ、ガルフは最後尾で何度も振り返った。担がれた男の意識は戻っていたが、足首を挫いており、採取の歩みは遅れた。それでも、籠の中の黒い結晶は、通路の僅かな光を受けて、深い海の底のような色に光った。
今日の戦いで、はっきりしたことがあった。彼の両手は、獣を仕留め切れない手ではなかった。関節を読み、急所を打ち、体重を預ければ、小型の獣は徒手で止められる。だが、大型の甲の前では、その手順は届かなかった。甲に覆われた関節は捻れず、狙うべき場所そのものが甲の下に隠れていた。相性の壁は、確かにそこにあった。そして、広間の奥にいた女は、味方ではなかった。同じ獣と戦い、互いの邪魔が減った。それだけの、利害の重なりだった。月の客人とは、そういう距離にある存在なのだろうと、彼は思った。
下層の居住区の明かりが見えた頃、ガルフがふと足を止め、深い通路の方角へ耳を向けた。
「……今の、聞こえたか」
レイヴァスも立ち止まった。風の音でも、獣の唸りでもない。もっと遠く、もっと深い場所から届いたような、僅かな震えが、足下の岩を通して伝わってきた。二人はしばらく黙って耳を澄ましたが、震えは、二度とは来なかった。
レイヴァスは背負った結晶の重さを確かめ、闇の奥へ目を凝らした。何も見えなかった。削り跡のことも、震えのことも、見たことと聞いたこと以上のことは言えなかった。一行は明かりへ向けて歩き出した。収穫を半分に減らし、傷を抱えて、それでも全員で帰ってきた採取行だった。帰り道、レイヴァスは幾度か、足下の岩の感触を確かめるように歩いた。




