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英雄の監獄カルナヴェイル  作者: 那貴


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# 第15話「白狐の商人」

 白狐の男が現れたのは、昼の配給が終わり、市場に人の波が戻り始めた頃だった。

 

 レイヴァスは原住種の店の並ぶ一角で、採取の成果を麻袋から取り出していた。岩獣の爪が三本、通路壁に群生していた苔の塊が二つ、獣の牙の欠片が幾つか。どれも下層の通路で命と引き換えに集めたものだが、秤の上ではただの重さにしかならなかった。

 

 原住種の店主は爪を一本ずつ光に透かし、苔を指先でほぐし、牙については欠けの深さを確かめてから、いつもの平らな声で値段を告げた。公定の相場だった。派閥の者だろうと無所属だろうと、剣聖殺しだろうと、その秤の前では同じ値段になる。それがこの地の店の掟であり、誰もが守る公平だった。

 

 レイヴァスは素材貨幣を受け取り、袋へ収めた。深い階層の素材ほど値が高くなるというが、下層の浅い通路で採れるものは、所詮は下層の値段だった。何十回通っても、奥へ行くための足しにはなりにくい。彼はその現実を、貨幣の軽さと共に掌で確かめていた。

 

「その爪、もう少し高く買える店がございましてね」

 

 背後から、柔らかい声がした。

 

 振り返ると、白い男が立っていた。白髪、白い狐の耳、腰の後ろで緩やかに揺れる尾。外見は三十代ほどで、人の良さそうな笑顔を浮かべていた。武器は持たず、派閥の印も表には見えない。だが周囲の視線が、男の姿を捉えた途端にそっと逸れていくのが分かった。店の主人たちも、客たちも、誰もが一歩分の距離を置くように身を引いていた。

 

「三本牙の獅子の、ギンと申します。以後、お見知りおきを」

 

 男は丁寧に頭を下げた。その仕草には隙がなく、慇懃さの奥に何を考えているのかを一切読ませなかった。

 

 レイヴァスの隣で、ガルフの耳がぴくりと動いた。狼族の勇者は短槍の柄に手を置いたまま、笑顔の男を鼻先で値踏みするように見据えた。

 

「狐が何の用だ。店の相場で売るなら、店で買え」

 

「ええ、ええ。相場で買う分には、店が一番でございますとも。ですがね、ガルフ殿。店で買えないものも、世の中にはございまして」

 

 ギンは笑顔を崩さず、レイヴァスの麻袋へ目を落とした。

 

「例えば、その爪がどこで、どの獣から、どの深さで採れたのか。そういう来歴は、秤には載りません。けれど来歴が分かれば、買い手によっては相場の倍でも欲しがる。逆に、来歴の怪しい素材は、半値でも引き取り手がない。品物そのものより、品物に付いた話の方が高くつくこともあるのです」

 

 ギンは近くの空いた台へ腰を下ろすよう二人を手で促し、自らは立ったまま、袋の中身を決して手で触れずに目だけで吟味した。その遠慮の仕方自体が、長く取引をしてきた者の作法だった。

 

「お持ちの爪、三本とも根元の色が違いますね。これは群れの頭に近い個体のものだ。苔の方は、湿りの具合から見て、人の通る広間ではなく、獣の寝床に近い壁のもの。牙の欠片は……これは、採ったのではなく、落ちていたものですね」

 

 一つ一つが当たっていた。レイヴァスは驚きを顔に出さないよう努めたが、ギンの目はその僅かな変化さえ見逃さないように、穏やかに細められた。

 

「よくお分かりですね、とおっしゃる顔だ。商人は品物を見るのではありません。品物を運んできた人の歩き方を見るのです。どの通路が今、安全で、どの広間に獣が増えているか。素材の顔ぶれを見れば、おおよそ見当がつきます」

 

「俺の素材を、相場より高く買うと」

 

「場合によりましてね。公定の相場は、原住種の方々が決める絶対の物差しです。私どもがそこへ口を出すことは、決してございません。店の公平が崩れれば、市場の信用が崩れ、配給まで傾く。それは元締めとて望まぬことです」

 

 ギンはそこで一度言葉を切り、市場の奥、倉のある方角へ笑顔のまま視線を流した。

 

「ですが、個別の取引は別です。武器が欲しい。仕事を頼みたい。あるいは、どこそこの通路の様子が知りたい。そういう品のない取引の値段は、店では決められません。決めるのは、持っている者と、欲しがる者。その間に立つのが、私のような者の役目でございます」

 

 ガルフが低く唸った。

 

「話を誤魔化すな。お前の言っているのは、情報に値段を付けて売るということだろう」

 

「お耳が早い。ええ、その通りですとも。……ただし、情報の値段は品物より厄介でしてね。同じ話でも、聞く者によって命の値段にもなれば、ただの噂にもなる。だからこそ、売る相手を選ぶのです」

 

 ギンはレイヴァスの前に、素材貨幣を数枚、台の上にそっと並べた。先ほど店で受け取った額に、更に三分の一ほどを上乗せした数だった。

 

「まずは、この爪と苔。来歴込みで、私が買いましょう。店で売るより損はさせません。その代わりと言ってはなんですが、一つだけ、お話を聞かせていただきたい」

 

「話」

 

「どの通路へ、どれほど通っておられるか。獣の出方がどう変わってきたか。それだけです。他愛のない、採取の世間話としてね」

 

 レイヴァスは並べられた貨幣を見た。断れば、彼は笑って引き下がるだろう。だが、この男が本当に欲しいのが世間話であるはずがない。通路の様子は、そのまま採取隊の動きであり、派閥の縄張りの内情であり、次にどの広間を巡って争いが起きるかを示す先触れだった。情報とは、集まるほど値が上がるものなのだと、レイヴァスは理解した。

 

 ギンはレイヴァスの袋の残り、牙の欠片にも目を留めた。欠片そのものは店でも二束三文だったが、狐の商人はそこにも話を見つけていた。

 

「牙の欠片は、売るより持っておかれる方がよいでしょう。これは深い通路の獣のものではないが、欠け方に特徴がある。同じ欠け方をした牙を持つ獣が、次にどの辺りへ現れるか。狩る者にしてみれば、その見当ほど欲しいものはない。品物は安くとも、付いた意味で値が跳ねる。素材貨幣というのは、面白いものでしてね。貨幣そのものが、どこまで潜ったかの証明になる。深い素材で作られた貨幣を持つ者は、それだけで信用される。浅い貨幣しか持たぬ者は、深い話の席には座れないのです」

 

 レイヴァスは先ほど受け取った貨幣を思い浮かべた。下層の素材で作られた、色の鈍い貨幣だった。あれは食料の配給券とは違う。配給券は、生きるための飯と引き換える紙切れで、持っていれば今日を凌げる。だが素材貨幣は、飯の先のものを買う。武器の手入れ、薬、寝床の良し悪し、そして人の口から出る話。その差が、この地では身分にも似た差になっていた。

 

「配給券は、配る者が力を持つ。素材貨幣は、潜れる者が力を持つ。あんたは、その両方の流れを見ているわけだ」

 

「お話が早い。ええ、流れを見るのが商人の仕事でございます。食料は深いところから上へ上がる。素材は浅いところの者が深さを求めて下へ向かい、採れたものが上へ売られていく。金と品と話が、擂鉢の壁をぐるぐると巡る。その巡りのどこが詰まるか、どこが細るかで、派閥の力関係は変わります。獅子が強いのも、風が怖れられるのも、息吹が静かに構えていられるのも、元を辿れば、誰がどの流れを握っているかの違いでございますよ」

 

 ガルフが短槍の穂先で、地面を小さく叩いた。

 

「身分証しに牙を持て、と言うのか。狐の口車に乗ると、首に縄が付くぞ」

 

「縄かどうかは、結ぶ相手次第でございましょう。ガルフ殿、貴方様にだって、値段はございますよ。銀狼の遠吠えがあれば、安全に通れる通路が幾つあるか。その御名前だけで、採取隊の組み方が変わる。勧誘のお話が絶えないのも、その値段の証拠です」

 

 ガルフは答えず、耳を伏せた。値段を付けられることへの不快と、それが間違っていないことへの苛立ちが、その横顔に浮かんでいた。

 

「通路の話は、採取に行く者の命に関わる。安くは売れない」

 

 言うと、ギンの笑顔がほんの少し深くなった。値段の話になったことを、喜んでいる顔だった。

 

「結構でございます。安く買い叩くつもりなら、初めから笑ってはおりませんでね。……では、こういたしましょう。私の方からも、一つ差し上げる。品のない取引は、等価でなければ長続きしませんから」

 

 ギンは声の調子を変えずに、しかし周囲に届かぬほど僅かに声を落とした。

 

「深い通路の獣の素材を扱う中層の買い手が、近頃、別の筋から仕入れるようになった。品は悪くない。だが、出所を誰も言わない。元締めの流通を通っていない品が、市場に出回り始めているのですよ」

 

 ガルフの尾が、大きく一度揺れた。

 

「赫か」

 

「さて。赤い結び目が付いていた、とは聞きましたがね。確かめたわけではございません。噂に値段は付きません。ただ、流通というのは川のようなものでしてね。新しい支流が一本増えれば、本流の水量は必ず減る。減った分を、誰かが苦く思う。苦く思う者が増えれば、次は取り分の話になる。取り分の話は、最後には血の話になります」

 

 言葉は柔らかかったが、内容は冷たかった。食料が深いところから上へ流れるように、素材と貨幣は上と下を行き交う。その流れを握ることが、派閥にとっての力だった。剣や爪だけが力ではない。誰に、何を、どれだけ渡すか。その采配こそが、この擂鉢の底で何百人もの生死を左右していた。ギンの笑顔は、その采配の真ん中に座る者の顔だった。

 

「あんたは、その川の水門を開け閉めしている側だということだな」

 

「水門とは、仰々しい。私はただ、欲しい方と持っている方を、お引き合わせしているだけですよ。……もっとも、引き合わせる順番で、お値段が変わることもございますがね」

 

 ギンは悪びれずに笑った。その笑いには、隠す気のない計算があった。隠さないことが、かえって相手を油断させるのだと、この男は知っているのだろう。

 

 レイヴァスは、台の上の貨幣を一枚ずつ拾い、爪と苔の値段として相応しい分だけを残して、残りをギンの方へ押し戻した。

 

「品物は、来歴込みで売る。だが通路の詳しい話は、今日は売らない。あんたの話も、噂として受け取る。等価にはまだ足りない」

 

 一瞬、市場の喧噪が遠くなったように感じた。ガルフが息を呑む気配がした。元締めの幹部に向かって値段を付け直す者は、下層ではそう多くないはずだった。

 

 だがギンは、怒るどころか、押し戻された貨幣を丁寧に拾い上げ、懐へ収めながら、実に嬉しそうに目を細めた。

 

「結構。実に結構でございます。値段の分からないお方は、長くは生きられません。値段の分かるお方とは、長くお付き合いができる」

 

 男は麻袋の口を自ら結び直し、レイヴァスへ手渡した。その所作の丁寧さは、商いを終えた相手への礼そのものだった。

 

「また採取の折には、お声がけください。深いところの品であれば、なお歓迎いたしますよ。……ああ、深いところ、と申しましたが」

 

 ギンは帰り際に、ふと足を止めた。笑顔は変わらない。声も変わらない。だが、その一言だけが、レイヴァスの耳の奥に引っかかって残った。

 

「レイヴァス殿は近頃、採取のたびに、少しずつ深い通路を選んでおられるそうで。素材の顔ぶれが、それを物語っておりましてね。商人としては、結構なことだと思いますよ。深い品ほど、値が付きますから。……ただ、深く潜るおつもりなら、品物だけでは足りません。潜るための値段は、品物とは別のところで付くものです。そのお値段を、どなたに、どうお支払いになるか。今から考えておかれると、よろしいかと」

 

 レイヴァスの脳裏に、採取の帰り道で何度かすれ違った顔のない運び手や、広間の影に腰を下ろしていた見知らぬ囚人たちの姿が浮かんだ。誰か一人ではないのだろう。市場に品が並ぶまでの間に、彼の歩幅は幾つもの目に測られ、幾つもの口を経て、この白狐の耳に届いていた。情報網とは、特別な術の名ではなかった。品物の流れに寄り添うように張り巡らされた、人の目と口の網だった。そしてギンは、その網の結び目に座り、どの糸を引けば何が釣れるかを知っている男だった。

 

 しかも男は、レイヴァスが潜りたがっていることまで察していた。それは脅しではなかった。値段を付ける前の、商人の挨拶だった。欲しがる者の前に、欲しいものをそっと置いてみせる。手が伸びるかどうかで、次の商談の段取りが決まる。レイヴァスは自分が、既に一つの品物として秤に載せられていることを悟った。剣聖殺しの名、定まらぬ格、そして奥へ向かう渇き。そのどれにも、この男なら値段を付けるだろう。

 

 誰に聞いたのか。誰が見ていたのか。レイヴァスは問い返そうとしたが、ギンは既に市場の人混みへ半歩身を預け、白い尾の先だけを揺らして、穏やかに会釈をしていた。

 

「また、商談をいたしましょう。次は、もう少し値のある話を、お互いに」

 

 白狐の姿は、瞬く間に雑踏へ溶けた。残ったのは、掌の中の貨幣の重さと、自分の歩き方まで値踏みされていたという、拭い切れない感触だけだった。

 

 ガルフが低く言った。

 

「あの狐は、戦わない。だがな、戦う奴より始末が悪い。お前の欲しいものを見抜いて、それに値札を付けるのが仕事だ」

 

 レイヴァスは貨幣を袋へ収めた。深く潜るための値段。その言葉が、胸の奥の渇きと重なって、静かに脈打っていた。ギンは何も売らなかったはずだった。品物は買い、噂は置いていっただけだ。だが帰り際の一言だけで、レイヴァスの胸の中には、品物よりも重い何かが残されていた。次に白狐と相対する時、台の上に並ぶのは素材ではないのかもしれない。その予感が、市場のざわめきの向こうで、白い尾の揺れと共に消えていった。


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