第8話:歪んだ執着、侵食される境界
「お金を払ったんだから、抱かせろ」
そんな醜い所有欲で私を買えると思うな。体を差し出したら最後、私はただの「買った女」に成り下がる。
売上ランキングの表に「紬」の名が上位で並ぶようになった。
感情を殺した接客は驚くほど効率的で、男たちの自尊心を巧みにくすぐる嘘は日増しに精度を増していた。だが、夜の街でお金をむしり取るということは、それ相応の「粘着質な毒」を引き寄せることでもあった。
「紬ちゃん、最近連絡の返信遅くない? 俺、今月も相当使ってるんだけど」
ボックス席でグラスを叩きつけるように置いたのは、常連の佐藤だった。
かつては「質素で健気な紬ちゃん」を優しく応援していたはずの男の目が、欲望と苛立ちで濁った泥のような色に変わっている。
金を落とせば落とすほど、客の中に湧き上がるのは「これだけ投資したんだから、そろそろ相応のリターンがあってもいいはずだ」という身勝手で浅はかな所有欲だった。
「ごめんね、佐藤さん。最近お店が混んでて……でも、こうして佐藤さんと会えてる時間が、一番心が休まるよ」
結衣はいつものように甘い微笑みを浮かべ、胸元を覗かせながら顔を近づけ、湿り気を帯びた吐息を耳元に吹きかけた。男の理性を溶かす官能的な焦らし。
しかし、いつもなら鼻の下を伸ばすはずの佐藤は、その細い手首を力任せに掴み上げた。
「言葉はいいんだよ!」
痛みが走る。佐藤の荒い息と酒臭い匂いが顔全体に押し寄せ、太ももを撫で回す大きな手がドレス越しに力強く食い込んできた。
「口では特別って言いながら、結局店でしか触らせてくれないじゃん! ルナちゃんから聞いたぞ? 紬は店外断って高飛車にしてるだけで、裏じゃ客を選んで部屋に入れてるってさ!」
(ルナ……)
結衣の心奥で冷たい火花が散る。ホストのツケのために嫌悪感を押し殺してホテル同伴に応じたルナは、感情を殺してスマートに売上を伸ばす結衣への激しい嫉妬から、客に余計な嘘を吹き込んでいたのだ。
「佐藤さん、痛いです……」
「来週の同伴で俺のホテル来いよ。来ないなら、もう指名変えるからな。今まで使った金、全部無駄だったって掲示板に名前晒して叩き潰してやるから!」
掴まれた手首をさらに強く捻り上げられ、肌と肌が不快な熱を帯びて擦れ合う。男の顔に張り付いた「金を払っている側の横暴さ」と「思い通りにならない悔しさと憎悪」。
店外に応じれば安く買い叩かれて価値が暴落し、拒絶すれば憎悪を向けられてネットに晒される。夜の街で生きる女が避けて通れない、理不尽な崖っぷち。
(買い叩かれたら終わり。一度でも体を安売りして差し出したら、この男は私をただの『金で買った女』として扱う)
結衣は引きつりそうになる口角を必死で抑え込み、掴まれた手をゆっくりと、だが骨が鳴るほどの拒絶の意思を込めて引き抜いた。そして、男の浅はかなプライドを切り裂くような、冷徹で静かな目で佐藤を射抜いた。
「佐藤さん。私、佐藤さんのこと素敵な大人だと思ってました。でも……お金を盾に私を買えると思ってるなら、もう二度と指名していただかなくて結構です」
「は……? なんだと?」
「女を買いたいなら、他のお店に行ってください。私は Club Noir の『紬』です。あなたみたいな人に、お金で体を売るためにここにいるんじゃないです」
男の所有欲と支配感を全否定する、完璧な拒絶。
佐藤は顔を真っ赤にして立ち上がり、
「二度と来るか! 痛い目見せてやるからな!」
とグラスを倒して店を飛び出していった。大きな売上枠だった太客を一人、完全に飛ばした瞬間だった。
フロアの隅でそれを見ていたルナが、嘲笑うように紫煙を吹き出してきた。
「ウケるんだけど、太客自ら切るとか強気すぎ。来月の数字やばくない?ガチでプライド高すぎだろ。 媚びてでも繋いどくのが普通でしょ」
「プライドじゃないよ」
結衣はルナの痩せた身体と濁った瞳を冷たく見下ろした。
「一回抱かれて小銭稼いで、客にナメられて終わるルナちゃんとは価値観が違うだけ。私は自分を安売りして自滅するつもりはないから」
ルナが怒りと、悔しさに顔を歪ませる。
バックヤードに戻り、パイプ椅子に深く沈み込む。
手先が細かく震えていた。太客を失った恐怖か、男の醜い欲望に対する生理的な嫌悪感か、自分でも分からなかった。
スマートフォンの通帳画面を開く。
佐藤を飛ばしたことで、来月の見込み売上は大きく落ち込むだろう。奨学金の返済と実家からのタカリ、生活費の計算が再び頭を締め付ける。
(折れちゃダメだ。ここで引き下がったら、あの男たちの思う壺だ。私の価値は、私が決める)
結衣は震える手で、剥げかけた400円のセルフネイルを手のひらに痛いほど食い込ませた。
甘い愛なんてどこにもない。ここにあるのは、お金を巡る泥臭い騙し合いと、手に入らないと分かった瞬間に翻る身勝手な憎悪だけ。
「紬さん、お願いします」
黒服の声が響く。
結衣は深く息を吐き出し、鏡の前で再び完璧で淫らな「紬」の微笑みを張り付けると、次の欲望が蠢くフロアへと足を進めていくだった。




