第6話:破綻の引き金
綺麗事やおためごかしで、私のお腹は膨らまない。
無力な善意をゴミ箱に捨てた夜、私はようやく、この街で生きるための本当の刃を手に入れた。
翌日の昼休み。派遣先のオフィスビル7階にある休憩スペースで、結衣は一人、プラスチックの弁当箱の端をつついていた。
「結衣ちゃん、ちょっといい?」
声をかけてきたのは涼太だった。いつもなら穏やかに微笑んでいるはずの彼の目には、隠しきれない疲労と固い決意のようなものが浮かんでいる。
「昨日……友達の看病、大丈夫だった?」
「うん、もう落ち着いたよ。心配かけてごめんね」
結衣はマニュアル通りに答えた。けれど、涼太は頷かなかった。
「……結衣ちゃん。昨日、本当はどこに行ったの?」
冷たい水でも浴びせられたように、結衣の手が止まる。
「え……? どこって、友達の家に……」
「嘘だよ」
涼太は低く、掠れた声で言った。
「昨日、カフェを急に出て行った結衣ちゃんが心配で、追いかけたんだ。そしたら結衣ちゃん、友達の家とは全然違う方向……新宿行きのホームに走っていっただろ。すごく焦った顔で、派手なドレスが入ったバッグを抱えてさ」
結衣の心臓が、早警報を鳴らしながら乱打し始める。
「同じ会社で働いてるから、結衣ちゃんがずっと無理してるのも、隠しごとがあるのも分かってた。でも、信用しようとしてたんだ。だけど……急な呼び出しも、昨日の嘘も、流石に誤魔化しきれないよ。俺って、そんなに信用ない?」
涼太の瞳からポロポロと溢れ出しそうなのは、怒りではなく、傷ついた人間の悲しみだった。
「俺さ、結衣ちゃんのことが本当に好きだった。でも、何を聞いても嘘で返されて、急に連絡が取れなくなって……俺、自分がどんどん嫌な奴になっていく気がするんだ。『どこにいるんだろ』『他の男といるのかな』って、嫌な疑いばかり浮かんで」
涼太の手が、小さな震えを抑えるように膝の上で握りしめられる。
「これ以上一緒にいたら、俺、結衣ちゃんを嫌いになっちゃうよ。……もう、やめよう」
別れ宣告だった。
結衣の頭の中で、何か重要な糸がプツリと切れる音がした。
泣いて縋り付くこともできた。「本当は奨学金と家族の支払いのために夜の店で働いてるの」と泣きつけば、優しい涼太なら抱きしめてくれたかもしれない。
けれど、結衣の冷めきった頭脳は、残酷な現実を弾き出していた。
(許してもらって、どうするの? 涼太はかわいそうな私を抱いて満足するかもしれないけれど、毎月届く請求書も、奨学金の返済も、弟の講習代も1円だって払ってはくれない。ただ『夜職の彼女を理解してあげる優しい俺』に浸るだけだ)
「……そうだね」
結衣はゆっくりと箸を置き、涼太の目を静かに見つめ返した。
「涼太くんの言う通りだよ。私、嘘ついてた。……でもね、理由を聞かれたって、涼太くに何ができるの?」
「え……?」
「私の代わりに毎月何万も払ってくれるの? 私が抱えてる支払いや借金、全部代わりに背負ってくれるの? できないでしょ。綺麗事や男のプライドだけで、支払いは待ってくれないの。だから私は、自分で稼ぐしかないの」
冷徹で、乾ききった声だった。
涼太の顔からスーッと血の気が引いていくのが分かった。自分の知っている「素朴で可愛い結衣」が、一瞬で見たこともない氷の塊のような他人に変わってしまったかのように、恐怖と失望に満ちた目で結衣を見つめている。
「……最低だな」
涼太は一言そう呟くと、二度と振り返らずに休憩室を去っていった。
一人残されたベンチ。
胸の奥にあった生ぬるい「逃げ道」が完全に塞がれるのを感じた。けれど、涙は1滴も出なかった。かわりに込み上げてきたのは、恐ろしいほどの身軽さと、研ぎ澄まされた冷酷な冴えだった。
(これでいい。1円の足しにもならない無力な善意なんて、この街じゃ害悪でしかない)
結衣は剥げかけた400円のセルフネイルの指先を、痛いほど強く握りしめた。
愛なんて、優しさなんて、自分の生活を救ってはくれない。男が金も出さずに買いたがる「情」や「恋人ヅラ」なんて、現実の支払いの前には何の役にも立たないゴミくずだ。
「紬」としての仮面が、彼女の顔に完璧に張り付いた瞬間だった。
——その夜、Club Noir。
結衣は更衣室で、今まで避けていた少し胸元の開いた黒のドレスを選んだ。派手なブランド品で身を固め、ホストに狂って太客に20万で抱かれにいくルナを横目に、鏡の中の自分を見つめる。
(ルナみたいに安売りはしない。男たちが『安く買える』と勘違いするこの素朴な顔を仮面にして、あいつらの浅はかな承認欲求と所有欲をギリギリまで焦らしてむしり取ってやる)
男たちが欲しがっているのは、肉体そのものじゃない。「俺だけには心を開いてくれている」という優越感と勘違いだ。その虚構の市場価値を最大限に吊り上げ、高額なボトルに変えていく。
鏡の中に向かって、かつてないほど冷酷で美しく、完璧な「営業用の微笑み」を作ってみせる。
「紬さん、ご指名のお客様がお見えです」
「はい、すぐ伺います」
迷いの消えた足取りで、結衣は欲望と嘘が渦巻く夜のフロアへと踏み出していった。




