第5話:擦れ違う視線、静かな亀裂
1円の足しにもならないぬるい愛情が、私の現実を殺していく。
バカな夢を見るのは、もう終わりだ。
「結衣ちゃん、最近本当に大丈夫? なんか……遠くに行っちゃってるみたいだ」
平日の19時過ぎ。会社近くのチェーン店カフェで、涼太が心配そうに結衣の顔を覗き込んでいた。テーブルの上には、冷めきったカフェラテが二つ。同じ派遣先で毎日顔を合わせているからこそ、結衣の疲れや上の空な様子を隠しきれなくなっていた。
「ごめんね……ちょっと実家の方でバタバタしてて、考え事してただけ」
結衣は引きつった笑みを浮かべ、カップの縁をなぞった。
本当は、実家のせいだけではない。
昨日もClub Noirで黒服に「このままだと時給落とすよ」と冷たく言い渡され、どうすれば客の不満を和らげられるか、どうすれば以前のように「素直で可愛い紬ちゃん」を演じ直せるか、そればかり考えていたのだ。頭の中は、足りない8万円と通帳の残高計算で埋め尽くされていた。
「そっか……実家大変なんだね。俺で良かったら話聞くし……あ、そうだ。来月、結衣ちゃんの誕生日でしょ? 週末に温泉旅行でも行かない? 奮発していい宿予約するから」
涼太のまっすぐで優しい瞳。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、結衣の胸の奥で冷たい悪寒が走った。
(温泉……)
脳裏に浮かんだのは、かつて客の佐藤が「温泉行こうよ。お店を通さずにさ」と太ももを撫で回してきた、あの生温かい手触りだった。
「……ごめん、温泉はいいや。散財させちゃうのも悪いし」
「え? でも、結衣ちゃん前に行きたいって……」
「いいの! 本当に気を使わないで」
思わず声が鋭くなった。涼太が驚いたように目を丸くする。
(奮発して温泉旅行……? その旅行代の数万円で、私の奨学金や実家の支払いが消えるわけじゃない。涼太は『優しい彼氏』の気分を味わいたいだけ。結局、私の本当の苦しみなんて1円も救ってくれないのに)
優しさという無害な顔をした満足感の押し売り。そのぬるい好意に吐き気がした。
「……そっか。ごめん、押し付けちゃったかな」
傷ついたように俯く涼太を見て、結衣は強烈な自己嫌悪と冷めた諦念に襲われた。同じ職場にいる涼太は何も悪くない。自分を喜ばせようとしてくれただけだ。なのに、夜の街で「金と引き換えに身体とプライドを切り売りする覚悟」を知ってしまった今の結衣には、彼の純粋で無力な好意すら、ただの甘ったるい重荷でしかなかった。
スマートフォンが、ポケットの中で短く震えた。
チラリと画面を確認すると、時計の針はすでに20時を回っている。
Club Noirの開店時間は20時。今夜はシフトを入れていなかったはずなのに、担当黒服からの通知が画面に踊っていた。
『紬さん、佐藤様が指名で来店されたんだけど。今から店来れる? つーか、入らないと今月の保障時給落とすよ』
胃が雑巾のように絞り上げられる。もう開店時間は過ぎている。今から歌舞伎町へ向かっても21時だ。ここで断れば、ただでさえ落ち込んでいる評価と時給が完全に削られる。
「……涼太くん、ごめん。急に友達から連絡があって……体調崩したみたいだから、看病に行かなきゃいけなくなっちゃった」
「えっ、今から? これからご飯行こうって言ってたのに……」
「本当にごめん! 急に頼まれちゃって……」
嘘をつく声が、自分でも嫌になるほどスムーズに出てくる。同じ派遣先で一緒に働いているからこそ、仕事の言い訳は通用しない。だからこそ突発的なプライベートの嘘を重ねるしかなかった。
「……そっか。結衣ちゃん、最近いつも急な予定入るよね」
涼太の落ち着いた声に、うっすらとした不信感と寂しさが滲んでいた。同じ職場にいて一番近くにいるはずなのに、急な不在や説明のつかない嘘によって、彼の優しさが少しずつ擦り減り始めているのが分かった。
「本当にごめん。また明日、会社でね」
逃げるようにカフェを飛び出し、歌舞伎町へ向かう電車に飛び乗る。
車窓に映る自分の顔は、昼の派遣社員の顔でも、夜の「紬」の顔でもなく、金に困窮して嘘を重ねる惨めな女の顔をしていた。
(何やってるんだろう、私……)
涼太のぬるい温もりに逃げ込めば逃げ込むほど、現実の支払いは容赦なく迫り、夜の仕事での刃は鈍り、こうして嘘を重ねて彼を傷つけることになる。
1円の対価も発生しない愛を守ろうとすれば、生活が破綻する。
生活を守るためにお金を稼ごうとすれば、愛なんていう生ぬるい幻影は壊れていく。
歌舞伎町のネオンが見えてきた。21時過ぎ、欲望の熱気が満ち始める店へ駆け込む。更衣室で安物のドレスに着替えながら、結衣は鏡の中の「紬」に向かって、冷たく言い聞かせた。
(バカな夢を見るのはもう終わり。涼太くんのぬるい世界に甘えちゃダメだ。私に必要なのは、私を救いもしないあたたかい愛情なんかじゃない。通帳を潤す確実な数字だけ)
鏡の奥の黒い瞳から、最後の光が消えていった。




