第4話:タダの優しさに殺される
「愛」や「温もり」に浸る余裕なんて、最初からなかった。
1円の対価も発生しない甘い安心感が、夜の世界で生きる私の刃を、ゆっくりと死なせていく。
涼太と出会ってから、一ヶ月が過ぎようとしていた。
ふたりは明確な言葉もないまま、「なんとなく付き合っているような関係」を続けていた。休日、ユニクロの無地Tシャツにデニムという飾らない私服で散歩し、ファミレスで数百円のドリンクバーを飲みながら他愛もない話をする。
「結衣ちゃん、今度美味しいラーメン屋見つけたから行こうよ」
そう言って無邪気に笑う涼太の隣にいる時だけ、結衣は「長谷川結衣」という一人の等身大の女性に戻ることができた。夜の街のドロドロとした欲望や騙し合いを忘れられる、唯一の静かな時間。
涼太は「俺たちって付き合ってるよね」という決定的な言葉は言わないくせに、当然のように週末の予定を聞き、恋人面で結衣の髪や肩に触れてくる。そして結衣もまた、その「タダで手に入るぬるい安心感」に縋りついていた。
しかし、その穏やかで不完全な「満たされた感情」は、皮肉にも夜の戦場での結衣——「紬」の刃を、確実に鈍らせていた。
「紬ちゃんさ、最近なんか冷たくない? 前みたいに甘えてくれなくなったよね」
Club Noirのボックス席。常連のおじさん客が、あからさまに不満そうな顔でグラスを弄んでいる。
「そんなことないですよぉ……」
作り笑いを浮かべるものの、自分でもわかるほど声にキレがない。かつては客の手を握りしめ、吸い込まれそうな瞳で「佐藤さんが特別なんです」と息を吐くように嘘を吐けた。けれど、タダで自分を優しく抱きしめてくれる涼太の体温を知ってしまった今の結衣には、金のために酔っ払いのおじさんに媚びを売る行為に対して、激しい吐き気と拒絶反応が生まれていた。
(1円の対価も払わない男には、指一本触れさせたくない)
夜の街に没入し、感情を殺しきったはずの心の中に、中途半端なプライドと「対価のない関係や営業への生理的嫌悪」が芽生えてしまったのだ。
営業LINEの頻度は露骨に減り、客からの店外の誘いを交わす言葉にも、かつてのような「上手く期待を持たせて引っぱる毒」がなくなっていた。
結果は、数字として容赦なく突きつけられた。
「紬さん、今月指名本数かなり落ちてるよ。このままだと時給スライドで下がっちゃうけど、大丈夫?」
締め日の夜、黒服から冷たく手渡された明細書を見て、結衣の血の気が引いた。
前月の半分近くに落ち込んだ給料。
それに対して、手元に届く請求書の山。自分の奨学金、家賃、そして実家の母親から届いた「弟の模試代と、冬の講習費用が少し足りない」というLINE。
(嘘でしょ……あと8万円足りない……)
更衣室で一人、通帳アプリの画面を見つめながら結衣は頭を抱えた。
心が満たされ、生ぬるい安心感に逃げれば逃げるほど、夜の店での稼ぎは減っていく。夜の世界で売上を立てるということは、自分の感情をすべて殺し、虚構の愛を商品として売りつけることだ。「タダの優しさ」に浸って毒を売る刃を失った人間から順に、この街では飢えて死んでいく。
「ねえ結衣ちゃん、最近忙しそうだけど、今週末会える?」
スマートフォンの画面に浮かぶ、涼太からの呑気で優しいメッセージ。
結衣の指先が震えた。
(涼太は私を抱くけれど、私の奨学金も、弟の講習代も1円だって払ってくれない)
愛や温もりに浸っている余裕なんて、私には最初からなかったんだ。対価も払わない男のぬるい優しさに騙されて、私は自分の首を絞めていた。
その時、更衣室のドアが勢いよく開き、派手なブランドバッグを抱えたルナが入ってきた。ルナの目は相変わらず血走り、頬はげっそりと痩せこけている。
「紬、あんた最近全然売れてないじゃん。やっぱり素人芸なんてすぐ飽きられるんだよ」
ルナは勝ち誇ったように嘲笑うと、高級ブランドのリップを荒々しく唇に塗りたくった。
「私さ、今度太客とホテル同伴行くんだ。一発で20万になるし。掛け飛ばすくらいなら股開いた方がマシだわ。触らせて、適当に声出してりゃ終わりじゃん。こんなの歌舞伎じゃみんな普通にやってるし。ただの作業だよ、作業」
病んだ瞳で高笑いするルナ。
結衣はその姿を冷ややかに見つめながら、剥げかけた400円のセルフネイルを肉に食い込むほど強く握りしめた。
(鬼枕が……でも、ルナを笑えない。私も、もうすぐ崖から落ちる……)
画面の中で光る、1円の足しにもならない涼太からのLINEと、通帳の残酷なマイナス表示。
二つの世界の狭間で、結衣の心は音を立てて狂い始めていた。




