第3話:泥濘(ぬかるみ)の逃避行
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第3話です。夜の世界と昼の世界が交差する展開をお楽しみください。
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午前2時。閉店後のClub Noirを出ると、生温かい深夜の風が歌舞伎町のビル街を吹き抜けていた。
アルコールで重くなった頭を振るいながら、結衣はタクシー乗り場へ向かわず、ひとり歌舞伎町の路地を歩く。派遣事務の初任給で買ったスニーカーに履き替え、両手にはドレスを詰めたプチプラのバッグ。1回数千円のタクシー代すら、彼女にとっては削るべき経費だった。
スマートフォンの画面を点けると、深夜の通知が何件か並んでいる。
昼の会社の同僚からのLINE、客の佐藤からの「今日はごめんね、紬ちゃん」というキモいほどの謝罪文、そして母からの感謝のメッセージ。
全部、返信する気が起きない。
「……長谷川さん?」
ふいに名前を呼ばれ、足を止めた。
暗い路地のコインパーキングの脇に立っていたのは、同じ派遣会社で働く20代後半の男、先輩の涼太だった。私服のパーカー姿で、缶コーヒーを手にしている。
「やっぱり長谷川さんだ。……こんな時間に、歌舞伎町でなにしてんの?」
結衣の心臓が跳ね上がった。
昼の世界の人間には、夜の顔(紬)のことは絶対に隠さなければならない。ドレスの入ったバッグを思わず背中に隠そうとする。
「……涼太さん? なんでここに」
「この近くの居酒屋で大学の同窓会があってさ。帰ろうとしたら、長谷川さんが見えたから。その格好……」
涼太の視線が、結衣の少し派手なメイクと、いつもと違う雰囲気に注がれる。結衣は咄嗟に喉を鳴らした。
「あ、これ……友達のお店を手伝ってて。終電逃しちゃって」
「そうなんだ。……顔色、すごく悪いよ。毎日昼間も眠そうにしてるし、無理してない?」
涼太の瞳には、夜の街のおじさん客たちが向けてくる濁った欲望とは違う、純粋で真っ直ぐな心配の色が浮かんでいた。
涼太は派遣先でも真面目で評判が良く、誰に対しても腰が低い男だ。昼のオフィスで、結衣が大量のコピー作業に追われている時、さりげなく缶コーヒーを置いていってくれたことが何度かあった。
「……大丈夫だよ。慣れてるから」
「良くないよ。はいこれ、温かいの買い直してきたから」
差し出されたホットの缶コーヒー。受け取る瞬間、指先同士が触れ合った。
涼太の体温と、結衣の冷え切ったピンクのセルフネイル。
お金という対価の発生しない、ただの「無償の優しさ」。その不条理な温もりが、紬として固めていた心の表面をじわじわと侵食していく。
(危険だ、と思う)
結衣の頭の中で、冷たいアラームが鳴り響く。
対価の発生しない優しさほど、この街で恐ろしいものはない。後からどんな見返りを求められるか分からない「無償の行為」は、割り切れる取引よりも遥かに不透明で、自分の防衛壁を易々と壊してしまう。
「始発まで、そこのファミレスで話さない? 俺も付き合うよ。ひとりじゃ心配だし」
断るべきだった。深入りしてもろくなことがない。
けれど、連日の睡眠不足と、客たちのドロドロした欲望を浴び続けた心は、恐ろしいほど摩耗していた。ほんの少しだけでいいから、嘘をつかなくていい場所に逃げ込みたい。「紬」としての防衛線を脱ぎ捨てて、ただの結衣として息を吐きたい。
「……うん。ありがとう」
結衣は、自分でも驚くほど弱々しい声で頷いてしまった。
ファミレスのボックス席。明るい蛍光灯の下で、涼太は結衣のとりとめもない話(田舎の弟のことや、一人暮らしの些細な大変さ)を、嫌な顔ひとつせずに聞いてくれた。夜の店で客の愚痴を延々と聞き流す時間とは、まるで違う世界だった。
「長谷川さんって、すごく頑張り屋だよね。俺、そういうところ尊敬してる」
涼太が照れくさそうに笑う。その笑顔を見つめながら、結衣の胸の奥で、長らく凍りついていた温かい感情が、少しずつ溶け出していくような感覚があった。
(この人となら、普通の女の子として笑えるのかな……)
しかし、ファミレスのテーブルの上で、結衣のスマートフォンが小さく震えた。
画面に表示されたのは、LINEの通知。
『ルナ:ねえ紬、今日の指名客の佐藤、裏で私に連絡してきたんだけど。紬が温泉断ったから代わりに私と行くって。マジでウケる。男なんてやれれば誰でもいいんだよ笑』
画面の光が、結衣の顔を冷たく照らし出す。
目の前にいる涼太の優しい笑顔。
スマートフォンの画面に浮かぶ、夜の街の醜い現実。
「特別」だと言っていた佐藤は、結局誰でもよかったのだ。対価を払って女を買う男も、無償で優しさを差し出すこの男も、本質は何一つ変わらないのかもしれない。
溶けかけた胸の奥が、一瞬で再び氷のように冷え固まっていく。
(そうだった。優しさなんて、その場の気分で見せる毒薬だ。愛も、好意も、いつだって私を裏切る)
「長谷川さん? どうしたの?」
「……ううん、なんでもない。そろそろ始発出るね。送ってくれてありがとう」
結衣は引きつった笑顔を作り、立ち上がった。
涼太が差し出してくれた温もりを振り払うようにバッグを強く握りしめると、自分のセルフネイルが手のひらに痛いほど食い込んだ。
綺麗な夢なんて、見ている余裕はない。
私を守るのは、男の気まぐれな優しさなんかじゃない。
提示された金額と、口座に刻まれる確実な数字だけだ。




