第2話:バックヤードの毒と、嘘の値段
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第2話「バックヤードの毒と、嘘の値段」です。
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黒服の呼び声でテーブルを離れ、バックヤードへ戻ると、煙草の煙と甘い香水の匂いが入り混じった重苦しい空気が鼻をついた。
パイプ椅子に深々と腰掛け、スマートフォンの画面を指で叩き割らんばかりの勢いでフリックしているのは、同じキャストのルナだった。派手な金髪に、胸元が大きく開いたドレス。彼女の腕には、ブランド物のバングルがいくつも重なっている。
「マジでむかつく。あのオヤジ、指名もしないくせに店外だけ誘ってくるとかナメてんの? 死ねばいいのに」
ルナが爪を立てて吐き捨てる。彼女の目は血走り、肌は荒れ、過度なダイエットとアルコールのせいで痛々しいほど痩せていた。ルナが歌舞伎町のホストに狂い、毎月何百万円も貢ぎ込んでいることは店内の誰もが知っている。
「ルナちゃん、お疲れ様」
「……紬はいいよね」
ルナが冷ややかな視線を投げてきた。そこにはあからさまな軽蔑と、わずかな嫉妬が混ざっている。
「ユニクロみたいなドレス着て、素人っぽさ出しておじさんに媚びてさ。楽でいいじゃん。私みたいに売り上げ立てなきゃいけないプレッシャーもないし」
「私、全然売れてないし……」
「嘘つくなよ。さっきの3番テーブルのハゲ、紬のこと指名に変えるって言ってたよ。私が苦労して育てた客なんだけど」
ルナの言葉に、紬の背筋がひやりとする。夜の世界において、客の奪い合いは死活問題だ。ルナの指先が震えている。彼女もまた、ホストへの支払いに追われ、精神をすり減らして崖っぷちに立っているのだ。
「私、絶対断るから。ルナちゃんの客なら、次からつけないように黒服さんに言っておくね」
結衣はわざと怯えたような顔を作り、ぺこりと頭を下げた。夜の街で余計な敵を作るのは命取りだ。「売れていない、害のない地味な子」というポジションを守ることが、身を守る術だった。
(──愚かだな、と思う)
下を向いたまま、紬は心の中で小さく毒を吐いた。
男に狂い、自分から金を払い、タダどころかマイナスの身体と感情を差し出して自滅していくルナ。1円の対価も発生しない男に自分を投げ売りするなんて、紬からすればただの自傷行為でしかない。
バックヤードを出て、更衣室の鏡に向かう。
スマートフォンの画面が光った。田舎の母親からだ。
『結衣、体調はどう? 塾代、昨日振り込んでくれてありがとうね。本当に助かったわ。結衣が東京でちゃんとした会社に勤めてくれて、お母さん誇らしいよ』
「誇らしい、か……」
自嘲気味な笑いが漏れた。ちゃんとした会社員の給料だけでは、弟の塾代どころか自分の生活費すら払えない。母親が信じている「東京で頑張る自慢の娘」は、毎夜酔っ払いに体を触られそうになりながら、嘘を売って銭を稼いでいる。
「紬さん、ご指名のお客様がお見えです」
指名客の来店だ。結衣は鏡の前で表情を作り直した。口角を上げ、目を少しだけ見開き、守ってあげたくなるような「紬」の顔を作る。
案内されたテーブルに座っていたのは、50代半ばの建設会社経営の男、佐藤だった。
佐藤は結衣を見るなり、愛おしそうな目を向けた。
「紬ちゃん、待ってたよ。今日も可愛いよ。ほら、これ」
テーブルの上に置かれたのは、小さなデパートの紙袋だった。中には、高級ブランドのリップクリームが入っている。
「紬ちゃん、ブランド物とかあんまり持たないで質素にしてるだろ? そういう健気なところが好きなんだよ。他のキャバ嬢みたいにギラギラしてなくてさ」
「佐藤さん……こんな高価なもの、悪いですよ」
「いいんだよ。俺は紬ちゃんの本当の理解者になりたいんだ。なあ紬ちゃん、来週の休み、温泉でも行かないか? もちろん、お店を通さずにさ。君の奨学金の返済、俺が半分出してあげてもいいと思ってるんだ」
…(裏引き)
佐藤の手が、結衣の太ももに滑り込んできた。熱く、湿った手触り。
「お金を出してやるから、自分だけのものになれ」という、あからさまな支配欲。
結衣の頭の中で、冷徹な計算機がカチリと音を立てる。
(店外で身体を許せば、私に入るのはその場だけの不透明なお小遣い。そして一度応じれば、この男は私を『安く買った女』として見下し始める。対価の発生しないセックス、定価以下の肉体関係なんて、自分の価値をドブに捨てるようなものだ)
お店を通して初めて、この汚い手触りは「安全な取引」に変わる。正当な対価をもらわない限り、指一本触れさせるわけにはいかない。
結衣はふっと息を吐き、佐藤の手を包み込むようにして優しく外した。そして、泣き出しそうな瞳で佐藤を見つめた。
「佐藤さん……そんな風にお金で私を買うようなこと、言わないでください。私、佐藤さんのことすごく尊敬してるのに……お金目的で一緒にいるみたいに思われるの、悲しいです」
嘘だ。100%の嘘だ。お金目的以外の何物でもない。
けれど、佐藤の顔が見る見るうちに罪悪感で歪んでいく。
「あ、いや……ごめん! 紬ちゃん、そんなつもりじゃ……っ」
「私、佐藤さんには特別なお客さんでいてほしいんです。だから、ちゃんとお店で会いましょう? ね?」
首をかしげて微笑むと、佐藤は感極まったように頷き、その場で高級シャンパンを追加注文した。
店内が華やかなコールで包まれる中、紬はグラスを持ち上げた。
(ルナも、佐藤も、みんなどこか狂ってる。「愛」だの「好意」だのという曖昧な言葉に酔うからすり減るんだ。金にならない感情なんて、なんの価値もない)
紬は、グラスを握る自分の右手を見つめた。
派手なサロンネイルではなく、自分で塗った地味で清潔なセルフネイル。
剥げないように丁寧に塗られたその小さなピンク色の爪こそが、自分を守る防衛線であり、この街で生き抜くためのプライドだった。
冷たいグラスの結露が、結衣の爪を濡らしていた。




