第1話:二つの名前と、割り切れない現実
本作をお読みいただきありがとうございます。
昼は派遣の事務員、夜は歌舞伎町のキャバクラで働く長谷川結衣(夜の顔:紬)。
泥のような現実と客たちの醜い欲望の中で、彼女がどのように感情を殺し、お金と「真の自立」を手に入れていくのかを描いた作品です。
夜の街のリアルな空気感と、冷徹に変わりゆく主人公の心理描写をお楽しみいただければ幸いです。
朝8時30分。ビル風が吹き抜けるオフィス街の駅前で、長谷川結衣は安売りドラッグストアの栄養ドリンクを飲み干した。
昼の顔は、派遣の事務員。キーボードを叩く指先はサロンに通う余裕もなく、薬局で買った400円の薄ピンク色のマニキュアを自分で塗り重ねている。
手元に届く明細書は、容赦なく現実を突きつけてくる。奨学金の返済月額、そして田舎の母親からの「今月、弟の夏期講習代が少し足りなくて……」という、どこかすまないような、けれど拒めないLINEのメッセージ。
ユニクロの無地ブラウスに着替え、黙々と書類をファイリングする8時間。同僚たちが「週末どこ行く?」とおしゃれなカフェの会話で盛り上がる中、結衣は頭の中で必死に電卓を叩いていた。
(あと、月12万……昼の給料だけじゃ絶対に破綻する)
午後19時。オフィスを出ると、結衣は雑踏をすり抜け、ネオンが蠢く歌舞伎町の雑居ビルへと足を進める。
ビルの4階。「Club Noir」のバックヤード。
「おはよー、紬ちゃん」
「おはようございます。お疲れ様です。」
更衣室で激安通販で買ったシンプルな黒のドレスに袖を通し、髪をひとつにまとめる。「長谷川結衣」の地味な仮面を剥ぎ取り、「紬」という夜の鎧を身につける瞬間だ。
「紬」は売れっ子ではない。派手な整形をしているわけでも、シャネルやディオールのバッグを振りかざすわけでもない。黒髪のナチュラルメイクに、どこか素朴で隙のある佇まい。だからこそ、店にやってくるおじさん客たちは勝手に勘違いする。
『夜の街に染まりきってない、素直でいい子だ』
『俺が支えてあげなきゃいけないんじゃないか』
そう思わせることこそが、彼女がこの過酷な夜の世界で生き残るための、唯一の武器だった。
「紬さん紬さん少々お付き合いお願いします」
指示されて向かったテーブルには、すでに酒の匂いを撒き散らす中年男性客が座っていた。
「へえ、紬ちゃん? なんかキャバ嬢っぽくないね。昼間なにしてるの?」
「昼はフツーの事務ですよ。毎日パソコンと睨めっこしてます」
「まじで? 珍しいねぇ、こんな素朴で可愛い子がこんなとこで働いてるなんて。お金困ってんの?」
馴々しく肩を寄せてくる客。結衣の胸の奥で、冷ややかな感情が波立つ。
(お金に困ってなきゃ、誰がこんな煙たい場所で酔っ払いの相手なんかするかよ)
けれど、「紬」は困ったように可愛らしく微笑んで見せる。
「ううん、ちょっと欲しいものがあって……でも夜のお店って怖くて、全然慣れなくて」
「そっかぁ! いやー、君みたいな子、俺大好きなんだよね。今度店外でご飯行こうよ。お店通すより、直接あげた方が紬ちゃんも嬉しいでしょ?」
客の目が、下心と「安く女を買い叩きたい」という優越感で濁っている。金を払えば支配できる、自分を特別な存在だと思っている。
その時、隣のメインテーブルから甲高いグラスの音が響いた。ナンバーワンのキャストが、太客に100万円のシャンパンを開けさせ、店内が歓声に包まれる。その華やかさの裏で、結衣は自分の通帳の惨めな数字と、明日の朝の派遣事務の始業時間を思い出していた。
「店外はダメですよぉ、お店におこられちゃいます」
「かたいこと言いなよ。俺のこと信用できない?」
重ねられてくる客の手。セルフネイルの指先に、力が入る。
綺麗事なんていらない。愛なんていらない。
ただ、お金だけが自分を裏切らない。
「じゃあ……今度、お店で綺麗なボトル入れてくれたら、考えちゃおうかな」
首をかしげて微笑む「紬」の瞳の奥は、どこまでも冷たく、静かに乾いていた。




