第13話:清算と、戻らない日常
家族への清算も、過去のぬるい愛も、すべて捨て去った。
冷たいお金だけを鎧にして立つこの孤独な世界こそが、私が自分の手で掴み取った唯一の現実。
Club Noirを辞めた翌月。結衣は昼の派遣事務の給料日にあわせて、スマートフォンのバンキングアプリを開いた。
画面をタップし、手際よく振込手続きを進めていく。
まずは奨学金の全額繰り上げ返済。一瞬で数十万円の数字が消え、「完済」の文字が画面に浮かび上がる。
続いて、田舎の母親の口座へ、弟の大学受験料と一人暮らしの敷金・礼金、生活準備金を合わせた額をまとめて振り込んだ。
直後、母から興奮気味の電話がかかってきた。
『結衣! すごいわ、本当にこんなに振り込んでくれたの!? お母さん、本当に助かったわ……結衣が東京の大手でしっかり頑張ってくれてるからね。『お姉ちゃんすごい』って感謝してるのよ』
受話器の向こうで弾む、能天気で無神経な母の声。
その声には、娘が東京の夜の街でどんな薄いドレスを着て、欲望に塗れたおじさんたちの湿った手触りや暴力的な言葉に耐え、己の肉体と心を削ってお金を作ったのかという想像は、1ミリだって含まれていない。親という名の安全圏から、娘の血の滲むような犠牲を当然のように搾取して喜んでいるだけだ。
「……うん。役立ててね。体に気をつけて」
結衣は淡々と応え、母がさらに感謝の言葉を重ねようとする前に、迷いなく通話を切った。
感謝されたいわけでも、苦労を分かってほしかったわけでもない。
ただこれで、家族に対する「長女としての呪縛」と「罪悪感」はすべて完済された。家族のために自分の心をすり減らし、体を売るような真似をする理由は、もうこの世のどこにも存在しない。
——翌日。派遣先のオフィス。
お昼休み、結衣は一人でデスクの書類整理をしていた。そこへ、隣のデスクの涼太がそっと近づいてきた。
「結衣ちゃん……ちょっと、いい?」
気まずそうに、けれど意を決したような表情の涼太。
彼の手には、以前結衣が好きだった温かい缶コーヒーが握られていた。
「あのさ……最近、結衣ちゃんの雰囲気がすごく変わったっていうか、落ち着いた気がしてさ。前みたいに焦ったり、辛そうにしてないから……」
涼太は言葉を選びながら、情けないほど消え入りそうな声で続けた。
「……あの時は、ひどいこと言ってごめん。俺、結衣ちゃんが何に悩んでたのかも聞こうとしないで、自分のプライドばかり気にして……。もし、まだやり直せるなら……また、ご飯でも行かないかな」
差し出された、微かに湯気を立てる缶コーヒー。
かつて結衣の心を揺さぶり、夜の毒に侵されかけた彼女を甘く惑わせた、無害で真っ直ぐな温もり。
結衣は、その缶コーヒーと涼太の顔を静かに見つめた。
胸の奥で、本当に何一つ揺れなかった。
(この人は何も悪くない。ただ、自分の無力さも知らずに『優しい彼氏』の夢を見ていただけ。最初から生きている世界も、背負っている地獄の重さも違った)
夜の街で男たちのドロドロとした淫らな欲望の底を這いずり、自分の感情を完全に殺して数字を掴み取った自分は、もう涼太が愛した「素朴で健気な長谷川結衣」という幻影には二度と戻れないのだ。
「ううん。涼太くんが謝ることなんて何もないよ」
結衣は穏やかに、けれど二度と立ち入れない断絶の壁を築くような、完璧な微笑みを浮かべた。
「でも、ごめんね。私、もう誰かと付き合ったりするつもりはないの。一人で生きていくって決めたから」
「結衣ちゃん……」
「缶コーヒー、ありがとう。でも、気持ちだけ受け取っておくね」
結衣は丁寧に頭を下げ、涼太の手からコーヒーを受け取ることなく、自分のデスクの書類に視線を戻した。
涼太は傷ついたようにしばらく立ち尽くしていたが、やがて小さく
「そっか……ごめん」
と呟き、寂しそうに離れていった。
去っていく涼太の背中を見送りながら、結衣は自分の胸にそっと手を当てた。
痛みも、後悔も、涙も1滴すら出てこない。
愛や優しさという生ぬるい「幻」をゴミ箱に捨て、冷たいお金で自分の生活と身を守る道を選んだ。
その選択に、もう1ミリの迷いもなかった。
剥げかけた400円のセルフネイルを愛おしそうになぞる。
オフィス街の窓の外には、澄み切った昼の青空が広がっていた。
けれど結衣の瞳には、その青さすらどこか他人事のように、どこまでも冷たく乾いて映っていた。




