第14話:爪を塗り替える朝
塗り固めた嘘を剥ぎ取り、私はようやく私を取り戻す。
愛も、優しさも、熱も失ったけれど——冷たいお金がくれたこの絶対的な自由だけは、誰にも奪えない。
派遣社員としての契約期間が、静かに満了を迎えようとしていた。
デスクの上のペン立てを片付け、パソコンのデータを整理する。隣の席の涼太とは、あの日以来、完全に「業務上の他人にすぎない同僚」としての距離を保ち続けた。彼が新しく入ってきた派遣の若い女性社員と楽しそうに笑い合っている姿を見かけても、結衣の心が痛むことは1ミリだってなかった。
1円の足しにもならないぬるい善意を振りかざしていた男も、夜の街で「抱かせろ」「買わせてやる」と醜い所有欲を撒き散らしていた男たちも、すべてが記憶の彼方へすーっと遠ざかっていく。
週末の朝。結衣は久しぶりに目覚まし時計をかけずに目を覚ました。
カーテンを開けると、アパートの狭い部屋に柔らかい朝光が差し込んでいる。かつては昼夜逆転の生活の中で、歌舞伎町のビル群を照らす太陽の光すら眩しく、恐ろしかったはずなのに、今はただ静かに部屋を照らしている。
テーブルの上には、解約手続を終えた奨学金の振込控えと、整然と数字が並ぶ銀行通帳が置かれていた。
(全部、清算したんだ)
実家からの無神経な金の催促も、もう来ない。弟からは「お姉ちゃん、大学の書類出せたよ。ありがとう」と短いLINEが届いていた。家族という名の搾取構造は、お金という冷たい対価によって清算され、付かず離れずの適切な距離感へと落ち着いていた。
結衣はドレッサーの前に座り、小さな引き出しを開けた。
中には、夜の世界に入る直前にドラッグストアで買った、400円の薄ピンク色のマニキュアが入っている。
セルフネイルの指先を見つめる。
キャバクラで働いていた頃は、男たちの不快な視線や湿った手触りを誤魔化し、少しでも「素朴で可愛い女の子」に見せようと必死に塗り重ねていた爪。酒臭い息を吹きかけられ、耳元で甘い嘘を囁き、太ももに食い込む手を冷ややかに受け流しながら、剥げかけるたびに塗り直していたあのピンク色。剥げた爪は、夜の街で削られていく自分の心そのものだった。
結衣はコットンにリムーバーを含ませ、爪に残ったピンク色の塗膜を丁寧に拭き取っていった。
除光液のツンとした匂いが鼻腔を突く。
一筋拭き取るたびに、耳元で響いた客たちの醜い罵声や、ルナの狂気じみた悲鳴、男たちの浅はかな支配欲が、潮が引くように消えていく。
一枚、また一枚と、虚飾の塗料が落ちていく。
現れたのは、装飾のない、少し丸くて不器用な、自分の本当の爪だった。
(これでいい。もう二度と、何色にも染まらない)
綺麗に飾らなくていい。誰かに買われるための「素朴さ」を演じる必要もない。男からお金を出してもらうために、官能的な微笑みを浮かべて嘘を売る必要もないのだ。
手元に残った通帳の数字は、自分の心と肉体を削って掴み取った、誰にも侵されない「絶対的な鎧」の証だった。
このお金がある限り、誰の顔色を伺うこともなく、男の情に媚びることもなく、自分の足だけで立ち続けることができる。
塗り固めた嘘を剥ぎ取り、私はようやく私を取り戻す。
愛も、優しさも、熱も失ったけれど——冷たいお金がくれたこの絶対的な自由だけは、誰にも奪えない。
スマートフォンが短く震えた。
次の新しい派遣先——少し時給の良い、大手の物流会社の事務職から採用決定のメールだった。
もう、歌舞伎町のネオンへ向かう必要はない。
夜の闇に身を投げ、男たちの欲望をむしり取る必要もない。
結衣は飾りのない素の爪で、迷いのない足取りでキーボードを叩き、採用受諾の返信を打った。
冷たいお金で買い取った、静かで、誰にも邪魔されない自分だけの生活。
愛も、優しさも、情熱もすべて夜の街に捨ててしまったけれど、結衣の心には、誰にも奪えない確かな「自立」の重みだけが、静かに残っていた。




