第12話:去りぎわの影、暴走する執着
「金で買った気になって、勝手に破滅していく」
落ちぶれた醜い言い訳を叫ぶ男を冷たく見下しながら、私はこの汚い街に、永遠に別れを告げる。
画面で明滅していたのは、かつて指名を飛ばし、ネット掲示板にデマを書き込んだ佐藤からの着信だった。
画面で明滅していたのは、名前すら見たくなかった「佐藤」からの着信だった。
LINEは指名を飛ばした瞬間にブロックしていたが、電話番号自体の拒否を失念していたのだ。わざわざ番号通知で直接電話をかけてくるあたりに、男の焦りと不気味な執着が透けて見える。
結衣は眉一つ動かさず、画面を冷ややかにタップして着信を拒否すると、その場で佐藤の電話番号も拒否リストへ追加した。
(もう関係ない。今夜、退職の手続きをして終わりにすればいいだけ)
男たちの浅はかなプライドや未練など、現在の彼女にとっては爪の垢ほどの意味もなさない。目標額に達した口座の冷たい数字だけが、彼女の唯一の真実だった。
翌日の夜。結衣は「紬」のドレスを着ず、ユニクロの質素な私服のままClub Noirのバックヤードを訪れた。店長の黒服に「今月限りで辞めさせていただきます」と告げるためだ。
「え、紬さん辞めちゃうの? 今すごく売上安定してるし、指名もついてるのにもったいないよ」
驚く黒服に、結衣はビジネスライクに深く頭を下げた。
「昼の仕事が忙しくなったので。今まで大変お世話になりました」
理由など何でもよかった。未練も情も、この店に置いていく気はない。黒服も引き止める理由がないと悟ると、それ以上は突っ込まず、「今まで助かったよ」と事務的に退職の手続書類を出してきた。
すべての手続きを終え、更衣室のロッカーを空にしてバックヤードを出ようとした、その時だった。
「紬ちゃん……!」
雑居ビルの暗く狭い非常階段の踊り場で、待ち伏せしていた影が突如として飛び出してきた。
酒とヤニの腐った匂いと、ネバついた嫌な体臭。
立っていたのは、ボサボサの髪に泥とシワのついたスーツを着た佐藤だった。かつて建設会社を経営し、金を撒き散らして優越感に浸っていた面影はどこにもない。目は血走り、肌は土色に荒れ果てていた。
「佐藤さん……なんでここに」
結衣の背筋を冷たい緊張が走る。
「なんでって……会いたかったからだよ! 紬ちゃん、俺ね、あれから会社もうまくいかなくてさ……全部君のせいだよ! 君が俺を裏切って、冷たく捨てたからだ!」
佐藤の汗ばんだ手が伸びてきて、結衣の腕を骨が軋むほど激しく掴んだ。鈍い痛みが走る。
「ネットにいろいろ書いたのは悪かったよ! でも俺、君が好きだったんだよ! 質素で素直な紬ちゃんが! なのに、店で金使わせるだけ使わせて、都合が悪くなったら捨ててさ……俺をバカにして楽しかったか!?」
男の歪んだ所有欲と、自分の能力不足で落ちぶれた責任を女に転嫁する卑怯な憎悪。
夜の街で「客」という全能感に浸り、金を払えば女を支配できると勘違いしていた男が、現実で破綻したときに剥き出しにする、最も泥臭く醜い欲望の暴走だった。
「離してください。警察呼びますよ」
結衣は悲鳴すら上げず、どこまでも冷酷な氷の目で見つめえ返した。
かつての結衣なら怯えて泣いていたかもしれない。けれど、何十人もの男たちのドロドロとした欲望と虚飾を受け流してきた今の結衣にとって、この暴走すら「金でしか女を買えない男の哀れな悲鳴」にしか見えなかった。
「警察!? ふざけるな! 俺が君にいくら使ったと思ってるんだ! 体で払えよ! 一回くらい俺の言うこと聞け!」
佐藤が狂ったような力で結衣を壁に押し付け、酒臭い顔を強引に近づけてきた、その瞬間。
「何やってんだ、あんた!」
非常階段の鉄扉が重い音を立てて開き、黒服の男性スタッフが飛び出してきた。異質な怒号に気づいた店舗の人間が駆けつけてきたのだ。
「佐藤さん、うちの店敷地内で何やってるんですか! 離れて下さい!」
黒服たちに力任せに取り押さえられ、階段の床に叩きつけられる佐藤。
「紬! お前なんかただの金で買われるキャバ嬢だろ! 金返せ! 騙し取りやがって!」
床に擦り付けられた顔で狂ったように喚き散らす声を、結衣は上から冷たく見下ろした。
(お金でしか女を買えず、買った気になって勝手に自滅していく。自分の愚かさで破滅したのに、最期まで女のせいにするんだ)
結衣は二度と振り返ることなく、階段を降り、歌舞伎町の喧噪の中へと足を踏み出した。
乱暴に掴まれた腕に残る、赤く腫れた鈍い痛み。
けれど、彼女の心には恐怖も哀れみも、罪悪感すら何一つ残っていなかった。
これが、私が自分の命を削って潜り抜けてきた夜の街の正体だ。
愛も、情も、救いも何もない。あるのは浅はかな欲望と、金を巡る醜い自己正当化だけ。
結衣は夜風の中で深呼吸をし、剥げかけた400円のセルフネイルの指先を力強く握りしめた。
二度と戻らない歌舞伎町のギラギラとしたネオンに背を向け、彼女は自分の足で、新しい現実へと歩き出したのだった。




