第11話:積み上がる数字と、冷たい自立
誰の情にもすがらず、誰の体温にも逃げず。
私の肌と時間を切り売りして作り上げた冷たい数字だけが、私をこの泥沼から解き放つ。
ルナは、あの日を境に店に来なくなった。
「飛び」なのか、あるいは客との間で何か決定的な事件が起きたのか。黒服たちも誰もその理由を口にせず、ただ更衣室のロッカーから彼女の派手なドレスとブランド物のバッグが綺麗に消えていただけだった。自分の身体を安売りし、男と情に狂って自滅した女の末路。夜の街では、人間一人消えることなど、路傍のゴミが片付いた程度の風景に過ぎない。
結衣の心は、もうピクリとも揺れなかった。
「紬ちゃん、今日もありがとうね。来週もまた来るからさ」
「木村さん……いつも私を一番に考えてくれて優しい。私、木村さんが来てくれる日を、ベッドの中でずっと指折り数えて待ってるんだよ」
息を吐くように重ねる甘い嘘。
結衣の「紬」としての営業テクニックは、もはや職人芸の域に達していた。
木村の手を包み込み、細い指先で手の甲をなぞりながら、胸元をギリギリまで寄せ、耳元で吐息を漏らす。男の浅はかな独占欲と「俺がこの子を救っている」という勘違いを適度に満たし、絶対に一線は越えさせない。感情を1ミリも交えないからこそ、男たちの欲望の動きが客観的な数値のように手に取るように把握できた。
昼のオフィスでも、結衣の徹底ぶりは変わらなかった。
デスクが隣の涼太とは、業務に必要な最低限の会話以外、目すら合わせない。涼太は時折、痛々しそうな目で結衣を見つめていたが、今の結衣にとって彼はもう「ぬるま湯に浸かっていた頃の無力な幻」でしかなかった。1円の足しにもならない善意や過去の思い出など、今の彼女には爪の垢ほどの価値もない。
そして、月末の給料日。
夜のClub Noirのバックヤードで、結衣はスマートフォンの画面を開いた。
画面に踊る、銀行口座の残高表示。
指名本数の跳ね上がりによる最高ランクの時給スライド、木村をはじめとする客たちからむしり取った高額ボトルのバック、そして食費すら切り詰めて貯め込んだ冷たい数字。
(……届いた)
自分の奨学金の全額繰り上げ返済額。
母から当たり前のようにタかられていた弟の私立大学受験料と、東京での一人暮らしの初期費用。
そして、自分がこの街をいつでも捨てて高飛びできるだけの、まとまった生活準備金。
男たちに肌を触れさせ、嘘を売りつけ、心を殺して積み上げた目標額が、ついに完璧に揃っていた。
「紬さん、来月のシフトどうする? 今のペースなら、来月もっと時給伸ばせるよ。ナンバーワンも狙える」
黒服がファイルを片手に、期待を込めた目で声をかけてくる。
「……ありがとうございます。ちょっと考えさせてください」
結衣は丁寧に頭を下げ、ロッカーから私服を取り出した。
胸元の開いた安物のドレスを脱ぎ捨て、ユニクロの無地ブラウスとデニムに着替える。剥げかけた400円のセルフネイルの指先で、カバンを痛いほど固く握りしめた。
夜の街に足を踏み入れ、自分を切り売りしながらずっと目指してきた「お金」という名の絶対的な自由。
誰にも頼らず、誰の愛にもすがらず、自分の心と肉体を極限まですり減らして作った、冷たい数字の壁。
これでもう、欲望で目を濁らせたおじさん客たちの不快な手触りに耐える必要もない。
娘を金蔓としか思っていない実家からのタカリに怯える必要もない。
「素直で素朴な女の子」の仮面を張り付け、官能的な嘘を売る必要もないのだ。
(終わったんだ……全部。私はこの街に、自分の価値を1円も残さず勝った)
更衣室の姿見を覗き込む。
そこに映っていたのは、男を翻弄する夜の「紬」の顔でもなく、お金に困窮して泣いていた昔の「結衣」の顔でもなかった。
感情を殺し、あらゆる欲望を冷徹に受け流し、生き残るためだけに嘘を重ねて生き抜いてきた、乾ききった一人の女の顔だった。
歌舞伎町のビル街に出て、夜風を深く吸い込む。
ネオンの光が路面を妖しく照らしているが、今の結衣にはその光がただの安っぽいガラス細工の群れにしか見えなかった。
(明日、店を辞めよう。こんな街、二度と来るか)
そう心に決めた瞬間、結衣のスマートフォンが不気味に震えた。
画面に表示されたのは、長いこと着信拒否にしていた「あの人物」からの名前だった。




