第10話:破滅の足音と、泥の中の正当化
「助けて」という叫び声すら、この街では1円の価値もない。
他人の愚かさに手を差し伸べる余裕なんて、私には一滴だって残っていないのだから。
週末のClub Noirは、店内を包む重厚な重低音と安っぽいアルコールの匂いで熱気を帯びていた。
木村というサラリーマンの「救済者ごっこ」を巧みにコントロールしたことで、結衣の売上は無事に持ち直し、ナンバー上位の数字を安定してキープしていた。ネット掲示板の醜いデマも、店内で堂々と高額なボトルを次々と煽る紬の前では、ただの負け犬の遠吠えでしかなかった。
だが、夜の街が求める代償は、容赦なく周りの人間を呑み込んでいく。
「ちょっと、紬……!」
控室へ戻る暗い廊下の手前で、結衣の腕を力任せに掴む手があった。ルナだった。
彼女の顔は土気色で生気を失い、いつも完璧に仕上げているはずのメイクも汗と涙でガタガタに崩れている。細い腕はガタガタと震え、落ち窪んだ瞳には正気とは思えない狂気と怯えの色が浮かんでいた。
「……何? もうすぐ次の席入るんだけど」
結衣が冷たく腕を振り払おうとすると、ルナはなりふり構わず、すがりつくように結衣のドレスの裾を爪が折れるほど強く掴んできた。
「助けて……お願い、紬……! 今夜……あの太客と20万でホテルアフター行かなきゃいけないの……! でもあいつ、ネットでヤバい噂あって……薬使って無理やり撮影するとか……怖くて、無理……無理なんだよ……!」
ルナのなりふり構わない叫び。爪が服を引っ張り、生臭い体臭と冷や汗の匂いが結衣に押し寄せる。
かつて結衣を「ユニクロを着た素人芸」と馬鹿にし、ネットの掲示板にデマを流すきっかけを作った同僚。ホストに狂い、プライドを捨て、自分の身体を安売りして売り掛け(ツケ)を払い続けた果てに、いよいよ崖っぷちから地獄へと突き落とされようとしていた。
結衣の胸の奥で、わずかに残っていた人間らしい感情が蠢きかけた。
(店に言えばいい……飛び降りればいい……)
だが、次の瞬間、冷酷な現実が結衣の脳裏を支配する。
何より、この街で他人の愚かな人生を救う余裕など、今の結衣には1ミリも残っていなかった。
「店に言えば? 私に言われても困るよ」
「言えるわけないでしょ! それに、売り掛け飛ばしたら、担当に殺される……! 今夜二十万用意しなきゃ、私の居場所がなくなるの……!」
必死に縋りついてドレスを汚すルナの手。結衣は剥げかけた400円のセルフネイルを、手のひらに血が滲むほど強く食い込ませた。
「無理だよ」
結衣の声は、驚くほど静かで、氷のように冷え切っていた。
「自分のケツは自分で拭きなよ。ルナちゃんがホストに狂って金貢いだのも、体に薬入れられるリスク負ってホテル行くのも、全部自分が選んだことでしょ? 自分で選んだ地獄に、私を巻き込まないで」
「……っ! あんた……本当に人間じゃない……悪魔だよ……!」
涙と鼻水で顔をグチャグチャにしたルナが、ヒステリックに叫びながら結衣の肩を殴りつけてくる。
結衣は一度も振り返らず、その汚れた手を冷たく振り払い、更衣室へ向かって足早に歩き出した。
(そうだよ。私はもう、人間をやめたんだ)
控室の姿見に映る自分の顔を見る。
黒髪ボブにナチュラルメイク。「紬」という清純で素朴な仮面。けれど、その鏡の奥の瞳には、一切の光が宿っていなかった。
スマートフォンが開く。
画面には、実家の母親から身勝手なメッセージが届いていた。
『結衣、来月弟が東京の私立大学を受けるって言い出したの。受験料と、一人暮らしを始める敷金・礼金の初期費用、少し援助してもらえるかしら……?』
画面を見つめたまま、結衣は乾いた笑いを漏らした。
家族は私が夜の街で体を削って作った金で、当たり前のように生きている。
客は私の官能的な嘘と作り笑いを買って、浅はかな優越感に浸っている。
同僚は男と情に狂って、勝手に自滅して地獄へ落ちていく。
誰も私を救ってくれない。誰も私を抱きしめてはくれない。
「紬さんお願いします」
黒服の声が響く。
結衣はスマートフォンをロッカーに放り投げ、手鏡で笑顔の角度を微調整した。口角を上げ、目を潤ませ、男たちが「俺が守ってあげなきゃ」と錯覚する可憐な「紬」を作り上げる。
フロアへ出ると、遠くのボックス席でルナが太客に肩を抱かれ、怯えた目を隠すように無理な作り笑いを浮かべて酒を煽っているのが見えた。閉店後、逃げ場のない惨劇へと連れ出されていく未来を知りながら。
結衣は一瞬だけ目を背け、目の前で待つ新たな男の隣に滑り込んだ。
ドレス越しに太ももをそっと密着させ、相手の耳元に甘く湿り気のある息を吹きかけながら、冷たい計算とともに、淫らで美しい嘘を囁き始めた。




