六十話 初心忘れるべからず
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路地に入り込んだ。追いかけてくるだろうか。あの黒ずくめの怪しげな人間は、背中にぴったりと引っ付いているだろうか。
振り向く。背後にいるのはフルブラント。背中にはアトリアを背負うから、俺よりも移動が遅い。
「来てるか?」
「ああ、たぶん来ている。このまま待ち伏せか?」
道からひょこりと首を出したフルブラントは、奴らを見つけた。予想通りに、相手はこちらに誘い込まれるわけだ。
鞄に手を入れて布に包んだ何かを掴む。最近調合したばかりの目つぶしだ。
卵の殻にでも入れよと思ったが、乱暴に扱ったら割れてしまった。その経験から現在、ちょうどよい強度の素材を模索中なわけだ。
手のひらいっぱいに握りこんだ劇毒の粉末。威力は自分自身ですでに検証済み。効果は、俺の折り紙付きである。
こんなにも準備の時間があれば、詠唱は不要。たっぷりと集中して、吐くくらいの不快感が身体を巡る。粉末をしっかと握りこんだ腕で、風の魔法を使う。
急ぐ足音が聞こえる。ちらりと視界の端に映りこんだローブの端から察するに、黒ずくめの男たちである。準備が活きた。ボールを投げつけるように手の中の粉末を空中に投げつけ、おまけに風魔法だ。目つぶしの拡散攻撃。
さっきも言ったが効果は折り紙付き。少しでも目に入れば数分は激痛に苛まれる。胡椒や唐辛子の比ではない。様々な劇物を丁寧に粉末したものなのだから。
実際、黒ずくめの男たちは顔を覆って、声を殺しつつも呻き始めた。自分たちが加害者だからだろう。大声で叫ぶ事すらできないのは、少々かわいそうにも思えた。
が命を狙ったからには、その覚悟くらいあるだろう。短刀を引き抜き、一人の首に突き刺した。刺した部分から、空気が抜けて言葉は出せないようだ。
そのまま右側に引き裂くように、俺は短刀を動かした。
地面に倒れこんだ。即死だった。尋問するなら一人で十分だ。仮に情報を持っていなくても、少しだけの進展でも、今なら大歓迎だ。
隣の男はまだ気が付いていないらしい。仲間が地面に倒れて死んだ事など、自分の体と天秤に乗せたら些事なのだろう。
両目を腕で擦り、苦痛から少しでも逃げようとしているみたいで滑稽な姿だ。
まるで下手なダンスのようだ。まあ逃がすわけにはいかないが。肩に短刀を突き刺す。叫び出した瞬間、俺は劇毒粉末を口の中に入れる。顎を押さえ込み口を閉じた。
強引に、喉を通って体中を焼き付くす。
堪らず横転し、黒ずくめの男はジタバタと藻掻いた。まるで陸に打ち上げられた魚だ。
両手脚を必死に動かすそいつに蹴りをひとつ食らわせる。むしゃくしゃするからもう一発。自身の優位に快感を覚えて、更にもう一発。ここまで来たら歯止めが効かない。攫われた人たちの分の怒りも、コイツにお見舞いしよう。
「ユウキ! これ以上やったら死んでしまうぞ! それに早くここを離れた方がいいのではないか」
フルブラントの声で脚を止めた。自分のやっていた事に意識が向いていなかったかと言われたら、それはノーだ。意識はあったし楽しんでもいた。
だがすんでで理性が勝ったらしかった。
吐瀉物を地面に吐き散らして、横顔が汚れていた。瞳は瞑ったままだったが、顔を濡らす涙が物語るのは苦痛以外の何ものでもない。
髪を掴んで壁に寄り掛からせると、頬を叩く。もちろん丁寧に。これでもかと弱くだ。
「おい、お前なんで俺たちをつけ回してたんだ。答えてくれよ」
「すみません! すみません! すみません! すみません!」
そんな具合に謝罪の言葉を口にし続ける。埒が明かないな。このまま放置して行ってもいいのだろうか。いや、騎士団に見つかったらどうする。証拠がここに無くとも、俺の所まで行きつくのではないか。
仮に俺が説明した所で、それを信じるとも思えない。だがここに死体が二つ。いやどうする。もう一人は始末してしまった。クソっ! 短絡的だった。焦っていたんだ。俺は気が付かなかったけど、焦っていた。今もそうだ。
どうするべきだ。目の前のコイツは使い物にならない。フルブラントに相談?
あり得ない。あいつこそ、くだらない事しか言わない。考えが浮かばない。
「ユウキ! 上だ! 早く避けろ」
風切り音が耳に届いた。もう遅いかと思った。それでも、俺は咄嗟に。フルブラントの言葉通りに。
グチャッ。とそんな音が聞こえてきて、先ほどまで泣きじゃくっていた男は死んだ。頭部に剣を深々突き立てられ、肩から下は潰れて。頭部だって、形状し難い。
普段の俺なら吐き出す程の痛々しい姿となっていた。
時が止まったかのように感じた。が実際は、俺の感覚の遅れだ。それだけの話だ。だから上空から現れた、なりふり構わない無慈悲な襲撃者は、俺に近づく。
逃げ出した。路地から走り出した。
フルブラントは先に逃げているようだった。俺はあいつが嫌いになりそうだったのだが、今はそんな感情に振り回されている場合ではない。
走りながら振り向くと剣を持った男は居なかった。俺を追ってきてはいないみたいだった。
なんとかなったと一安心した。悩む事が少ないと、目の前に集中できる。手のひらを地面に向けて、俺は魔法を放った。風魔法だ。今度は詠唱をして、変に集中する時間なんてなかったものでな。
飛び上がり、家屋の屋根に上った。とそこで気が付いた。何と先ほどの剣を持った男も、屋根の上に居るではないか。甲冑にマントを身に着けている。まるで、昨夜見た人攫いだ。いや、奴そのものだろう。
まさに騎士と言った風貌で俺たちを狙うなど、あいつ以外にあり得ない。だがこちらを見ているだけで、追いかけてくる様子もない。やはり、奴らは昼間に動く事を善しとしていないみたいだ。
それならこのまま逃げさせてもらおう。俺は、これまでの旅で培った体力と脚を活かして、止まらずに屋根と屋根を走り抜けた。
ギルドから宿屋が遠くて助かったと、この時は真にそう思った。でなければ追跡され、今頃切り刻まれていたかもしれない。
宿屋の辺りは人影が少ないのだ。
跳ねる心臓の音は誤魔化せない。額どころか全身に染み渡るような汗。今しがた、魔物よりも恐ろしい魔物から逃げて来たのだ。これくらいの汗、当然だろう。階段を上る。
部屋に戻るとそこにフルブラントの姿は無かった。代わりに、教会で見たあの少女が立っていた。こちらに気が付いたようだ。油断した。完全にノーマークだと思っていた。というより、何故俺のいる宿を知っている?
頬から血が流れた。遅れて、鋭い痛みと熱が襲う。目の前には、少女の顔があった。無意識の内に、俺は切先を避けていたらしい。ゾッとした。もしかすると俺は、もう死んでいたかもしれないのだ。
恐怖を感じた。久々に、本当の死という物を感じた。誰かに死を与えるとき、俺はもう初心を忘れていた。それほど俺の手が、血に染まっているのだろう。
魔物だろうが人だろうが、生き物には重さがある。だが慣れてしまえばなんて事はない。血に慣れる。殺しに慣れる。それはこの世界を旅するには、最も根本的な素養と言える。
だがその初心。死という感覚の忘却は、こうして自分自身に返って来る。そして今それを思い出した。どっと冷や汗が、額から噴き出た。俺は尻餅をついた。視界がぼやける。呼吸が早くなった。姿勢を崩した少女の足音。布の衣擦れ。その二つの音に俺はパニックになった。
「う……ぁぁあ……」
呻いた。この次は? 知っている。そうだ。俺は知っている。この次、少女は再度ナイフを俺に向ける。今度こそ命を奪うために。そうだ。その通りだ。なんで、なんでこんな事すら忘れてしまったのか。
いや、忘れたのではない。視野が狭くなっただけだ。見えていた物が突然、視界の端に飛び出しただけだ。たったそれだけの事だ。気が付いてしまえばなんて事はない。
俺はナイフを見た。床についた小さな手に握られたナイフを。その小さいのの上に乱暴に自分の手を重ねた。
「えっ……うあぁ!」
動かせなくなった手と、同時に伝わる痛覚。一瞬、思考が乱れたのだろう。どうでもいい事だ。俺は拳をその鼻っ柱にねじ込んだ。女子供だとて容赦はできない。でないと俺が死ぬ。
腕を床に固定している。少女は後ろに倒れ込む事すら出来ない。だから手を離してやった。後退りをして、窓の方向まで下がった。余程痛いのか、押し殺した声で泣いていた。
俺はもう泣いていない。数歩進む。そして少女を押す。風魔法を詠唱した。
「『風:とっぷう』!」
詠唱と共に窓を突き破って、少女を外に突き飛ばした。
本当に忘れていた。俺は冒険者だ。認定票を持っているだけの、旅の者。盗賊に襲われても魔物に襲われても、やって来たことと言えば一つだけ。
自分の命を守ること。
壊れた窓から地面に降りた。が、少女の姿はない。どこだ。背中に殺気を感じた。全身が総毛立つような寒々しい感覚だった。
遅かった。背中を引き裂かれた。軽いとはいっても、それでも一直線に切り傷が作られた。激痛は、肩の辺りから背骨の真ん中辺りだろうか。詳しくは分からない。背中は見えないのだから。
でも感覚的には、完全に引き裂かれたような。そんな痛みだった。苦痛の声を洩らして、前によろけてしまう。
四つん這いのように手をついて、距離を取る。これで合っているだろうか。振り向く。そこにはさっきの甲冑男。手に持った剣と、片腕に抱えた少女。
この甲冑男は余程の空好きなようだ。
短刀を引き抜いて、腰を低くした。まさかこんな場所まで来るとは思わなかった。が、やる他ない。直後、甲冑男の剣は俺の短刀を捉えた。




