五十話 死にかけ
たかが一撃喰らっただけ。そうやって強がれるのならよかったが、実際そうもいかない。
背中側から一突きされた。主要な臓器、それこそ心臓は傷ついていないだろうか。分からない。俺は医師ではない。
が、まだ死んでいない所を見るに、心臓ではないのだろう。この流れ出る血液は俺の命のタイムリミットだ。
踏み出し、刃を突きつける。浅く軽い一撃。俺からすれば渾身のつもりだが、正体不明な男からしたら浅ましい攻撃だったろう。振り払われる。
対して、力も籠めないその腕使い。にも関わらず俺は、一歩二歩と退く。諦めたくはなかった。だから、繰り返した。男に向かって短刀を振るう。
空振り、空振り、空振り……。身を捩るだけ空を切ってしまう俺の短刀を、男は遊戯を楽しむみたいにして避けていた。
「君はこんなのに傷つけられたのかい?」
男は、アリスに話しかける。心底呆れた口調だったと思う。
「少し……感傷的になってた」
「そう…………」
瞬間、第六感のような奇妙な感覚が眉間を刺激した。繰り出した右足を引っ込めて、全力で飛び退く。それでも遅い。俺は地面に倒れ込んだ。
男の切り上げた一刀が、俺の目の前を通過する。
背中を強かに打ち付けて、危うく後頭部を強打するところだった。
いや、遅い。頭の裏。地面にくっつけた部分が、妙に温かい。後頭部が割れて出血したのだろう。それに、なんだか痛み自体、感じにくい。
「言っていたね、君は。『記憶が混濁』してるって。無理もないよ。一度死に、そして生きて戻って来た。それだけで、私は嬉しいのだから」
「……そろそろここを離れよう」
「彼はどうするんだい? 私の直感でいくと、彼は危険だと思うが」
「どうせ、動けない。このまま逃げた方がいいよ。絶対に」
体を少し持ち上げると、膝から下が無くなっていた。片方だけだが、これでは歩く事すらできない。それよりも出血で死ぬだろう。
そんな俺を前にして、男は無慈悲に歩を進めた。
「いや、殺しておいた方がいいだろう。彼はここで始末するよ」
「ま、待って!」
そう言われて振り返る。脚を止めた。余裕があるのだろう。顔だけではなく半身を、背後に立つアリスへと向けていた。いいぞ。そのまま、お喋りしていろ。
「どんな理由で、止めるんだい。私と君……」
言いかけ。そして今度は、男から鮮血が噴き出る。とはいっても擦り傷程度だった。驚異的な反射神経で避けた。そのせいで、腕に切り傷を作るだけ。
代わりと言っては何だが、俺は短刀を破壊される。
男の剣は、一体どんな素材で作られているのか。打ち合うでも無く空中で、いとも簡単に刀身が砕かれた。続けざま、俺は殴り飛ばされた。肘で腹部を突かれると口から空気が漏れた。
「やっぱり、油断できないな」
その一言の後、足音と振動が俺の耳に届く。右耳は地面で、左耳が上。左右で違う音が、響いている。心配事も湧かない。どんな感情だって、今の俺には存在していなかった。
死が迫っている。それは恐れを、俺に抱かせなかった。より安らかでより優しく。包み込むというか持ち上げられるというか。どのような言葉で表すべきか。
とにかく、死を目の前にした俺は全ての抵抗を失っていた。感情的にも身体的にもだ。抗えないのだから受け入れよう。そうやって、機能不全に陥った脳みそが指令を出している。そう思った。
けれど刃が、俺へと突き立てられる事は無かった。それはあり得ない人物いや、あってはならない人物に突き刺さったからだ。
「で、でない……。なんで、どうして……」
「誰だ。生き残り? まあ、いいか。探す手間も省ける」
男が刃を深く、深く突き立てる。それは少女の胸を抉る。その度に洩れるあまりに悲痛な声が、俺に現実感を取り戻させる。
遂に剣のガードにまで至る。すると男は、少女を持ち上げる。
「勇敢。一緒に死にたかったのか?」
「は、はな……離、せ。っか……」
すると男は予想に反して優しく剣を引き抜いた。地面に座らせると、トリナは俺にもたれる。耳は音を碌に拾ってはくれない。なのに何故だか鮮明に、トリナの息遣いだけを捉える。
彼女を守るべきは俺だ。少なくとも、自分より幼い子供だ。現実は、彼女に助けられた。そして俺にはもう、助けるだけの力が残っていない。
今度こそ終わりだ。トリナだけでも逃げてほしかった。逃げるべきだった。戻れない過去。
ノブチカ達はどうなった。マイヤもヒナもあそこだ。ジャミアは……無事だろう。
スガルはまだ生きているだろうか? 他のクラスメイト達は? 両親に兄弟。嫌いだったはずの担任教師。
走馬灯ではない。鮮明な画像を映し出すには、脳への酸素と血液が決定的に足りていない。最後の最後は、やはり後悔で締めくくられるらしい。
そうして俺の意識は闇へと沈んだ。
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