一話 異世界に来る前日。現世最後の日
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ガヤガヤとうるさい此処は教室で、俺は寝ぼけた瞳で教壇を見た。するとその上には誰かが居た。
黒板消しを持って背伸びをしても、てっぺんにまで届きはしない。
それなのに、何処まででも伸びていきそうな勢い。
それを眺めた俺は「何やってんだろうなぁ」とぼんやり考えていた。
たぶん、先生にやれと言われたからやっているのだろう。授業をする先生が綺麗に消すだろうに。
何をそんなに頑張る必要があるのだろう?
と言っても、彼女の心の内は大体分かっている。
それは点数稼ぎでも自己犠牲精神からでもない。単純にやるべきだと思ったからやっている。
一番と厄介なタイプだ。
幼馴染というだけ。それだけの腐れ縁。尤も、高校に上がってからは、関わりの殆どが死んでいたが。
そのうち誰かが手を貸すだろう。そう思い俺は席から立ち上がり、いつもより生徒の少ない教室を出る。
向かう先はトイレだ。授業が終わったらなんとなく、理由も無いのに向かっていく。ここ数日、教室は普段より何倍も静かだったのに、今までで形作ったルーティンを突然変えられるはずもなく。
水色の扉を押して開け、個室に向かっていく。心許ない鍵をかけると俺は壁にもたれてへなへなと萎むようにしゃがんだ。
背中にピッタリ付けた個室の壁は、目には見えない汚れに溢れているというが、そんなものは気にならない。
スマホを取り出してWEBサイトを開く。そこには、様々な冒険が名を連ねていた。
異世界、冒険、探偵、ファンタジー、SF、サスペンス、恋愛。
飽和状態にある作品群。俺が気に入っているのは、小説投稿サイトだった。まぁ、読むだけで投稿はしないのだが。
たった10分程度の隙間時間でも、それはちょうど一話分くらいの時間だ。
マイリストからフォローした小説を読むか、
はたまたランキング上位を覗くか……悩ましいところである。
だが、悩んでばかりで時間を浪費していては勿体無い。今日はまだ見ぬ物語に向かってみようと思い至った。ランキングを覗いて俺の目に止まるは異世界転生だった。
ここがトイレだという事すら忘れて、夢中になって読んでいた。鼻に詰まるアンモニア臭がキツくなってようやく、時間を確かめる。
「……やっちまったな」
1時間分の授業をすっぽかしていた。集中すると周りが見えなくなる性格ではないのだが、このときだけは視野が狭まっていた。昼休みが始まってくれたおかげで処刑は免れたか。
教室に戻って弁当とは名ばかりの菓子パンを、鞄の中から引きずり出す。ガサガサと音を立てながら袋を破り、トイレで熟読していた続きを再開しよう。
とそんな俺に向かって来る足音。通り過ぎてくれるといいが。
「休み多いよね。あと五人、五人いなくなれば学級閉鎖なのにね」
「それはそうだが、とりあえず俺の机から降りてくれ。お前のケツは重すぎる。机の悲鳴を聞いてみろ」
「レディに対する言葉ではないね」
そう言いながらも机を降りてくれたのは一人の少女。名前は緑青姶良という。
アイラは適当に椅子を見繕うと、ワックスを塗りたくった床に引き跡を残しながら持ってくる。それは本来なら、今日学校を休んだ生徒のもの。
どっしりと腰を下ろして俺の前に座ったアイラ。
「やっぱり彼らは異世界に行ったと思うんだよ、私は。丁度、君が読んでいるような”異世界”にね」
「そうだな。それでなんだ? 神様から貰った『ちーとのうりょく』で無双してんのか?
完璧な解だ。俺に閃きをくれてありがとう」
茶化すようにそう言った。だが、皮肉が分からないのか目の前の少女は、俺の言葉に対して真剣に耳を傾ける。
「いやいや、神様からチートを貰うことはできない。私の考えでは、ズバリ『スローライフ』だね。
だってそうだろう? 日本でヌクヌク育った甘ちゃんが、異世界で剣を振るえるわけがないだろう?」
その言葉は俺の闘志に火を点してしまった。目の焦点を合わせず中空を彷徨っていた俺の意識を、アイラは一瞬にして議論の場に引き戻した。
「スローライフもいいが、やっぱり剣と魔法を使うだろうな。と、俺は思う。
仮に剣を振るえなくても訓練すればいい。そうすれば自ずと体は鍛え抜かれる。
鋼の肉体と銀色の輝く刀身。まさしく異世界だ」
「そうなればいいけど、殆どはそういかないって。日本人だよ? 人を殴るより、人に殴られる事を美徳にするような国なんだから。
そんな平和な国の出身者は、他者どころか動物すら害せない。だから『スローライフ』しかないよ」
「甘いなぁ甘い。スローライフぅ? 現代っ子がスマホ無しで生活できるとでも? かぁー! 甘いわ。本も無いような世界でどうやってスローライフを満喫するんだよ」
そう言うと少し黙り込み、アイラは熟考した。そして口を開くと至極真っ当な言葉を紡ぐ。
「いやそもそも生き抜けないよね。普通に考えて」
「…………荒野にパンイチで放り出されて方向感覚も無し。死を待つのみかも」
つまり、俺たちの結論としてはこうだ。
ずばり「異世界に転生しても、ただ死ぬだけ」である。
真夜中のサバンナに着の身着のまま投げ出されて生きていけるのは、映画の中だけだ。
チョコレートホイップの菓子パン齧ってを毟り、胃の中に入れていく。それと同時にクラス内をぐるりと見回す。
前後の黒板に、キチッと整列された机。教壇、掃除用具入れ、大量のプリントを留めるグリーンのボード。何の変哲もないただの教室なのに、ここは俺の知っている教室とは違う。致命的な何かが欠けている。
圧倒的な静けさがクラス中を彷徨い歩く。
たった五人。されどお調子者でクラスの中心人物である五人だ。スターが居なくなれば、熱狂していたファンの熱も冷めるもの。
主役のいなくなった教室は、明らかなまでに活気が無くなっていた。
いまから一週間ほど前だ。いや、もっと前からだったかもしれない。確かなのは、彼らが消えたという事実。
他にも休んでいる者はいるが、彼ら彼女らは家で療養中だ。風邪か何かだろう。
いつもより学校に早く来たのかそれとも、いつもより遅く来たのかわからない。それでも、彼らは学校に向かったきりその姿を消したのだと言う。
ここらで不審者の目撃情報はない。後ろ暗い事件が起きたと言うニュースもない。せいぜい野良猫の喧嘩くらいしかニュースが流れない平和な町で、五人の高校生が突如としてその姿を消した。
五人それぞれの両親は必死になって探しているらしい。だが、実際は単純な理由だと思う。五人がグルになって、どこかへ旅行に行っているのだろう。
学生時代、高校生の間にしか出来ないスリリングな旅。それを味わっているのだろうと思う。
「実際、なんで消えたんだと思う」
「さぁ。本人たちにしかわからないよ。事件に巻き込まれてないといいけどね」
その通りだ。消えた理由なんて、いくら考えたところで正解に近づく事すらできないだろう。
俺たちにできる事は、厄介に巻き込まれていませんようにと祈るだけ。
ただのそれしか出来ないのだ。
そうして話し込んで、昼休みは終わりの告げるチャイムが鳴り響く。それでも席に戻って律儀に座っている連中はあまりに少ない。
それもそのはずで、この学校では昼休み終わりの後にも5分程度の猶予がある。
きっと移動教室などの準備用だろう。
机の中に手を入れて、教科書の形を確かめていたそのときだった。
頭の真上(正確には天井一面)に雲が広がった。雷を孕む雨雲のような、荒々しい形を成していた。
突然、教室には雲が現れた。その事実が俺達の視線を独占し、思考を一時的に封じ込めた。
この一瞬、一秒から二秒と三秒が、俺たちの命運を分かつ最も重い刹那だった。扉に近い前後席なら逃げれたのかもしれない。
まぁ、こうなった以上、もう遅い。何をしても、手遅れだ。
『君たちを、他の世界に召喚する』
不意に頭に響いた。それは声だった。
自分で自分に話しかけるような、声にならない想像上の言葉では無い。
滑らかでいて力強い、誰かが喉を通して発する音だった。間違いない、確実だ。
多分この声は教室中の皆にも届いているのだろう。
何故なら、俺含めて全員がパニックになっていたからだ。表現の方法に差異はあれど皆、焦っているのが目に見えて分かる。
ある者は忙しなく前後を振り返り、
またある者は頭を叩いて現実逃避する。
かく言う俺も、広がりを見せ轟々とする雲を見上げ続けるだけだ。
『我々を、助けてほしい』
そんな言葉が頭に響く。
『我々の世界は危機に瀕している。”勇者”の力が必要だ。
だから、君たちに託したい』
胡散臭い言葉だ。まさか神を名乗るつもりは無いだろうな。
俺は身体中が火照り、額から汗が流れるのを感じた。
『私は、ある世界の神様の一人だ。
そんな神様として、君たちに世界を託したいのだ。
これは私だけではない、世界としての総意なのだ。
どうか、聞き届けてはくれぬだろうか』
おいおい、本当に神を自称してしまうとは。ならなんだ、次は何をするつもりだ?
『今から君たちを、ここより違う世界へと案内する。皆、それぞれ異なる個性を持っている。細やかながら、私からの贈り物だ。
皆で力を合わせ、世界を救ってくれ』
そして、乱層雲から特大の雷が放たれると、俺の意識は闇へと消えていく。他の奴らがどうなったか分からない。でも多分、俺と同じく意識を失ったのだろう。
目が覚めるとそこは森の中。知らない服に知らない腕に、それから知らない人間が倒れていた。
「あぁ……ああ! あぁうぁぁあ……」
呻き声を上げて、情けなく地面を這う。腰が抜けてしまっている。
人間、恐怖し絶望した時というものは甲高い悲鳴すら出せないらしい。
目を背けたくて後退りをしていると、何かにぶつかった。フワッとしていて、温かい。間違いなく樹木ではない。
振り向きたくない。でも、俺は理性を振り絞った。振り絞って、後ろに視線をやる。
そこにいたのは、巨大な化け物。
体毛が全身を覆っている。筋骨隆々な肢体は脈打って、口内から覗かせる牙は槍のようだった。思考が、一瞬の内に止まる。
次の瞬間、大口を開けて俺は絶叫した。




