プロローグ 転移後の大ピンチ
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「ハァ……ハァ、ァァっく……。なんで、なんでだよ。どこなんだよ……ここは!」
どうしてこうなった? 思い出せ。思い出せ、思い出せ!
そう念じても、俺の喉から出るのは途切れ途切れの呼吸だけ。そんな俺は今、必死に口元を押さえて息を殺し、木の影に隠れていた。
何から隠れているのか。それは俺にもわからない。とにかくデカくて、恐ろしい怪物だ。
獲物を見つけて歓喜する息遣いで俺は、今にも気絶してしまいそうだった。
視界の端が歪んだ。そう思った矢先、瞳から止めどなく涙が溢れた。鼻先を掠める恐怖に俺は、感情の整理が追い付かなかった。
いつか死ぬ事に異議はない。だが、今「死んで」と言われて崖に立たされても、脚が震えるだけで受け入れる事なんて到底できるはずがない。
それでも現実、見た事もない強大な怪物に、俺は追いかけられ殺される寸前である。
イヤだ…………嫌だいやだいやだイヤだ。
死にたくない。そうだ、俺じゃない。俺じゃない誰かを狙ってくれないだろうか?
小さな動物を、獣を襲ってくれ。そうすれば、俺は生きていられる。
どんなに無様な姿だろうとも、ここから逃げのびたい。
「は、はは! だ、誰も、いるわけねーよな。こんな、こんな森の! 中に人なんて。
いるわけねーだろ! バカ野郎!!」
狂っていた。当たり前だ。だって死が、目の前に迫っていたんだ。狂わなければやっていられなかった。
たぶん、俺の精神はとっくに壊れていた。
知らない森の中で、知らない服に知らない顔。それだけでも俺は、狂乱してしまった。
そこに加えて、あまりにも現実味の無い怪物は荒唐無稽で、理解のしようもない存在
でも、それぐらい、俺の心は壊れていて記憶はアテにならなかった。
涎を垂らす牙は血液を滴らせた刃のようだ。
深淵を覗いているような暗闇でいて、強烈な死の臭いを催す大口。
俺の目の前に広がった最後の瞬間は、そんな自然界の摂理だった。
あり得ない状況下では人は案外と、冷静になれるらしい。たぶん、もう逃げられないから脳が諦めろと言っているんだと思う。
瞳を閉じる事もできず、現実逃避する様にフリーズする俺。
なんでこうなったんだっけ?
そんな思考を組み立てようにも、怪物の爪は俺の肩に食い込んでいく。
簡単な答えすら、今の俺には導き出せない。
痛みの衝撃と非情な現実が、俺の頭を完全におかしくしていた。
このまま時間がゆっくり過ぎてくれたら、俺は永遠に生きられるのかもしれない。
視界がぼやける。
死にたくない。体に食い込む痛みすら、死の前に与えられる最後の快感に置き換わる。イヤだ。ああでも、これが”死ぬ”ってことか。それても目を開けていたい。
ぐちゃぐちゃになった理性に本能。諦めと抵抗が、無意味にせめぎ合っていた。
たが突然終わった。何がだろうか。それは怪物の生命活動だ。食い込んだ爪はそのままだったけれどそれ以上、醜悪なその牙が俺に近づくことはなかった。
加えて、何かが俺の体に滴ってくる。
滴っているのではなく流れているのか。まるで滝だ。真っ赤な真っ赤な滝。
赤染めしたみたいに生臭い怪物の血液が、俺の衣類に浸透していく。
「あ、危なかった……大丈夫?」
聞こえたのは人間の声。なんだ、頭がおかしくなったのか? 誰かの声がする。聞き間違いだろうか。いや、それは無いだろう。
何故なら俺を喰らおうと迫っていた怪物は生き絶え、濁流の如き出血を続けているのだから。
幻聴なんかじゃない、幻覚なんかじゃないとと証明できたのは少女が顔を覗き込んできたからだった。
——
極限状態で思い出した景色は、よく見知ったものだった。
教卓の後ろで教科書を広げる国語の教諭。無様な頭頂部は、俺たちのような一部の生徒に「バーコード」と影であだ名されていた。
だがこのところ、チョークのキレはイマイチな様子だ。そんな国語教師は黒板を見てため息を吐く。
「みなさん、少し黒板が汚いとは思いませんか? 当番の人が休みなら、それを補うのがクラスメートというものでしょう?
こういう小さなところでも、サボらずにいてください。もう少しで大人になるのですから」
そんな小言を口にしながら、錆を落とすみたいな力加減で黒板消しを動かしていた。
——
「うわぁぁあ!」
肩を揺さぶられた。それも、かなり激しく。引き裂かれた皮膚なんてお構いなしにだ。
久々である大怪我の痛みに、俺は涙を流した。
走馬灯を無理矢理に遮ったのは、俺を死の淵から掬い上げた一人の少女。顔は見たこともなかったし、声に聞き覚えもなかった。
一体誰だ? 何が目的だ? ここは何処だ? 俺は何だ? これは現実か?
浮かんでくる疑問は絶えないが、とりあえず口から出たのは感謝の一言。
「あ、ありがとうございます」
「話せるみたいだね。よかったよ」
ホッと一息吐いた少女。その声には、なぜだか安心感を覚える。知らない声色だというのに、落ち着くのはなぜだ。
わからない。理由がわからない。
だが、その安心感のせいで俺には眠気が訪れる。傷付けられた部位はまだまだ痛むし、熱湯をかけられたみたいに熱いままだ。
それでも俺は、瞼にしがみつく睡魔に打ち勝つことができなかった。
生き残った事、助けられた事、他の人間に出会えた事。
そしてなにより”安心できたこと”が一番大きかったのだ。それでも、こんな場所で瞳を閉じるべきでは無い。それは分かる。
状況を飲み込めない半端な頭でも、そんなことぐらいは理解出来ているつもりだ。
立ちあがろうとして、地面に両の手をつけ膝には力を込める。
よろめきながら、俺は支えられる。
助けてくれた可憐な少女は、心配を隠しきれずに肩を持ってくれたようだ。
不意に腕を回されて、しがみついた。そうしなければ、俺は立ち上がることができなかっただろう。
何故なら脚が震えていたからだ。ガクガクと膝が叫ぶように揺れていた。
他人目でもわかるくらいにだ。
恐怖というものは一朝一夕で、ましてやたった一度の経験で克服できるような生易しいものではないのだ。
初めて味わう生命活動の停止は俺の心を深く切り裂いていた。
森の養分として眠る怪物に憐憫はない。同情だってこれっぽちも無い。
でも黒と赤が混じり合った血液は、死と言うものを身近で感じたことの無い俺にとっては刺激が強過ぎたようだ。
突然、吐き気が込み上げて来る。思わず、俺は吐き出した。
「だ、大丈……うわっ! わ、私の隣で……」
「す、すみません。こういうの、は、初めてで……ヴオァェ」
止められずに吐瀉物を吐き出し続ける。
「とりあえず村に行こう、この近くなんだ。ほら、歩こう?」
少女に掴まったまま歩き出す。首に回した腕からその細さを、腰に回された腕からは怪物をも貫く力強さを。
それらを感じ取れるぐらい、今の俺が冷静だったら良かったが、そうも言ってられない。
数分歩いて、いや、数十分か? 時間感覚も距離感覚も曖昧だ。とりあえず歩いた。その結果、村は見えた。
人工的な住居が見えただけだが、村であると信じたい。
ガクリと膝が地面に付いた。まるで底なし沼にハマったように、俺は体を動かせなかった。
「動け」と念じるだけの簡単な思考も出来ない。
足に血液が回っている感覚がしない。
体中から、体温が抜けていく。
安息を目の前にした俺はその意識を闇の中に手放してしまった。俺の意思とは関係無しにだ。




