第3章 生存確率の計算
1. 旅立ちと発見
洞窟の暗がりで冷たく横たわっていた無名の遺骨を、浩平は林の奥深くへと移し、静かに埋葬した。
手作業で削り出した簡易的な木製スコップで、少しずつ土を掘り返す。
骨ばかりとなっていた骸をそっと土の底へ納め、丁寧に土を被せ終えると、彼はそっと手を合わせた。
「……これで少しは、安らかに眠ってくれ」
骨を土に還す作業そのものは、肉体的な負担こそ少なかったものの、その孤独な最期は浩平の胸を重く締め付けた。
洞窟へ戻った彼は、改めて壁面に刻まれた歪な地図へと視線を向けた。
そこには、数か所にわたって意図的な「×印」が刻み込まれていた。
「先駆者が身をもって探索し、何も見つからなかった場所……そういうことか」
もし自分がこの状況で地図を遺す立場なら、同じように不毛なエリアには印をつけるだろう。
浩平は愛車のカーナビから引き揚げてきた地図データと、洞窟の壁に刻まれた地図を慎重に見比べた。
正確な縮尺など知る由もないが、×印が集中的に配置されている状況から察するに、この先駆者は主に「北」と「東」の領域を重点的に捜索していたようだ。
かつて信濃町があったとされる場所――自分が車で走り込んできた東の方角へ戻ろうとして、出口を探していたのだろうと浩平は推測した。
×印は東側に三箇所、そして洞窟の裏手にあたる北側に一箇所の、計四箇所。
「――なら、俺は『西』を目指す」
南へ進んでも、あの混乱の初日に車を止めた草原へ戻り、そこから上り坂が続くだけだ。
見知らぬ突破口を見出すとすれば、先駆者が残したバツ印のない、完全な未探索区域――「西側」こそが最も望みが大きいはずだ。
浩平は頭の中でベースキャンプ周辺の地形を再構築した。
北から西にかけての領域は、わずかではあるが全体の標高が低く傾斜しているように見えた。
「低地なら、水場が存在する可能性がある……」
池や沼、あるいは川があれば、そこに付随する生態系や食料源が見つかる確率は格段に跳ね上がる。
それに何より、毎朝あの草原を呑み込む深い霧は、決まって西の空から流れてきていた。
水場があるからこそ霧が発生し、北西の風に乗ってあの広大な草原まで運ばれてくる――。
それが、浩平の導き出した仮説だった。
車からこの洞窟までは、徒歩でおよそ五十分。
移動手段としての車は言わば移動式の「頑丈な倉庫」であり、大半の重いギアは車内に残しておくのが最善の選択だろう。
一方で、米や缶詰、ビールといった貴重な食料群は、すべて洞窟内へと運び込んだ。
直射日光を遮ることができ、外気よりも湿度や気温が一定に保たれている。
何より、この不気味な世界には食料を荒らす害獣も害虫も存在しない。
保管場所としてはこれ以上ない条件が整っていた。
ガソリンの残量は、およそ三十リットル。タンクの半分ほどだ。
いざとなれば携行缶へ移し替えて何らかの燃料として転用することも可能だろうが、現時点ではポータブルのガス缶にまだ余裕がある。貴重な燃料は、真の窮地に陥った際の「最後の切り札」として温存しておくことにした。
浩平は本格的な遠征の準備に取りかかった。
目標は、西へ向かって「一週間」。
途中で折り返せば、往復で丸二週間の長丁場となる。
使い古したキャンバス地のバックパックに、命を繋ぐギアを慎重に詰め込んでいく。
水筒、ランタン、予備の電池、非常食、そして先駆者が遺した弾薬。
居住性の高いソロテントは魅力的だったが、長距離の徒歩移動においてその重量と嵩は致命的な足枷となる。
代わりに彼が選んだのは、軽量な「ハンモック」だった。
地球でのソロキャンプでも、条件のいい樹木がある場所で愛用していたお気に入りの装備だ。
「こんな異空間で、こいつに命を預けることになるとはな……」
苦笑交じりにバックパックの底へ押し込む。
さらに、予期せぬ悪天候に備えて防水仕様のヘビーウェイト・ポンチョも追加した。雨具としてだけでなく、防寒着にも、時には簡易タープにも化ける万能のギアだ。
荷物は確実に重さを増していく。
しかし、未知の領域へ足を踏み入れる以上、この世界において「備えすぎ」という言葉は存在しない。
バックパックを背負い直し、肩に食い込む重みを確かめると、浩平は固く顎を引いた。
もし予定通り二週間でここへ戻ってこられたとしても、その時に残されている食料は、わずかな米粒程度だ。
「……これが、最初で最後の勝負だ」
そう呟くと、彼は余剰の非常食を最低限だけポケットへねじ込み、固く口を結んで西の深緑の中へと足を踏み出した。
鬱蒼とした森の中を西へ向かって歩き始めてから、丸二日が経過した頃。
周囲の景色に、明確な変化が現れ始めた。
足もとの土を覆い尽くすように、青々としたシダ植物が群生していたのだ。
あの生命感のなかった草原には存在しなかった植物の姿。
(……ワラビか? いや、ゼンマイか……?)
浩平は足を止め、記憶の中にある山菜の姿を懸命に手繰り寄せた。
生え際から柔らかそうな芽を少しだけ摘み取り、指で揉んでから、慎重に口の中へと放り込む。
強烈な苦味が舌を刺したが、それは地球で知るアクの強い山菜の味に酷似していた。
アク抜きさえ適切に行えば、調理して食べられるかもしれない。
彼はペッと唾とともに口内の繊維を吐き出し、微量を飲み込んで体に異常が出ないか様子を窺った。
食料現地調達の希望の光に胸を膨らませながら、浩平はさらに西へと足を進め続けた。
四日目。
極度の寝不足と、連続する過酷な歩行、そして決定的なカロリー不足が彼の肉体を痛めつけていた。視界がグラリと揺れ、激しいめまいが襲いかかる。
帰り道の目印として木々に巻きつけてきた赤色の蛍光ビニールテープは、いつの間にか残り少なくなっていた。
仕方なく、浩平は進行方向を示す枝を折りながら進んできていたが、もはや無事に洞窟へ引き返せる自信すら潰えかけていた。
五日目。
意識が朦朧とするなか、浩平の鼻腔を「不快な匂い」がかすめた。
かすかではあるが、鼻を突く独特の臭気。
(……硫黄の匂い……か?)
なぜ、こんな森林のただ中で硫黄が匂うのか。噴火口でも近くにあるというのか。
遠のく意識を必死につなぎ止め、浩平はその場にがくりと膝をつき、腰を下ろした。
シダ植物が膝丈まで生い茂り、もはやジャングルと呼んでも差し支えないほど濃密で鬱蒼とした樹海。その静寂を破り、低く鈍い音が耳に届いた。
――ボゴッ。……ボコボコボコッ。
風の音でも、生き物の鳴き声でもない。
泥が煮え立つような不気味な破裂音。
浩平はふらつく身体を鼓舞し、サバイバルナイフを杖代わりにしながら、音の発生源へと這うように歩き出した。
やがて樹木が途切れ、急斜面を見下ろす崖のような場所へと躍り出た。
眼下に広がっていたのは、黒く濁った巨大な「泥の沼」だった。
沼の底からは灰色のアブクが不気味に泡立ち、沸騰した泥が弾けるたびに、白い煙と強烈な硫黄臭が立ち上っている。
(……待て。まさか、毒ガスじゃないだろうな……?)
一瞬で血の気が引いていく。
危険を察知した頭脳とは裏腹に、極限まで疲労した頭はもはや正常な判断力を失っていた。濛々(もうもう)と立ち上る煙を見下ろし、浩平は混乱する頭を抱えながら、ただその場に立ち尽くしていた。
2. 生きるための選択
「硫黄の臭いがする場所には、目に見えない火山性毒ガスが溜まっていることがある――」
いつかどこかで耳にした危険知識が脳裏をよぎり、浩平は足音を殺して泥沼から静かに距離を取った。
「これが天然温泉なら、万々歳なんだがな……」
思わずそんな軽口が心に浮かぶ。だが、いま未知の危険に命を晒すわけにはいかない。
辺りを見回すと、膝丈まで群生するシダ植物ばかりが目立ち、ハンモックのロープを括り付けられるような太く頑丈な樹木は見当たらなかった。
「……今夜は地面で夜を明かすしかないか」
幸いにも、この不気味な異世界に来てから害虫や野生動物の姿は一度も目にしていない。
浩平はポツンと残されていた大きな木の根にどかと腰を下ろし、溜め込んでいた息を深く吐き出した。
「……さっきの場所から身を引いたのは、正しい判断だったはずだ」
泥沼の底からボコボコと不気味に立ち上っていた煙を思い返し、小さく呟く。
硫黄が存在するということは、この先には熱水の噴出口や、地熱で高温に熱せられた岩場が広がっている可能性がある。
もしそうなら、それはこの世界で生存するための絶大な「エネルギー源」になり得るはずだ。火を撒き散らさずに湯を沸かし、暖を取ることだってできるかもしれない。
「……惜しいな」
浩平は悔しそうに唇をかんだ。
だが、あの拠点とした洞窟から西を目指して、すでに六日が経過している。
これ以上先へ深入りすれば、帰還するための食料も体力も完全に底を突いてしまう。
「……まずは無事に拠点へ戻ることを最優先にしよう」
道中で見つけたあのシダ植物を可能な限り摘み取り、洞窟へ持ち帰って乾燥・保存する。
もしアレが食用可能な植物であれば、それだけでもこの遠征の価値はあるはずだ。
もっとも――。
「結局のところ、喉から手が出るほど欲しいのは『肉』なんだがな……」
浩平は苦笑しながら、酒のつまみとして持ち歩いていた鮭の乾物とチーズの欠片を慎重に口へ運んだ。
疲弊した胃袋を満たすには程遠い量だったが、空腹感を一時的に誤魔化すには十分だった。
そのまま吸い寄せられるように木の根に背をもたれかけさせると、眠りへと落ちていった。
携帯用のバッテリー式LEDランタンは、浩平の予想以上に長い時間、頼もしい光を灯し続けてくれていた。過酷な状況下において、この小さな文明の利器のタフさは何よりの救いだった。
翌朝――。
浩平は夜明けの冷気とともに目を覚ました。
「……今日で引き返すべきか」
重い頭で思考を巡らせる。
ここへ来てから七日目の朝だ。
これ以上、前進を続ければ、無事に洞窟へ辿り着く体力を永久に失ってしまうかもしれない。
だが――仮に命からがら戻れたとして、待っているのは底をつきかけた少量の米だけだ。
それをちびちびと食いつないだところで、引き延ばせる寿命はせいぜいあと十日程度。
「……ただ緩やかに死を待つだけか」
浩平は虚空へ熱気を吐き出した。
だったら、ほんの僅かでも生き残る可能性が残されている方へ、全財産を賭けるしかない。
浩平は再びバックパックを背負い直し、西へ向かって歩き出した。
しばらく森を進むと、周囲にうっすらと白い霧が立ち込め始めた。昨日までとは風の向きがわずかに変化したのを感じる。
そのとき――。
「……ん?」
湿った風に乗って、ほんの一瞬だけ、鼻腔をくすぐるものがあった。
磯の匂い――潮の香りだ。
浩平はぴたりと足を止め、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。
気のせいなどではない。確かに、あの懐かしい海の匂いだ。
(もし……この先に海が広がっているとしたら……!)
魚がいるかもしれない。
栄養豊富な海藻が生えているかもしれない。
何より、生命維持に不可欠な塩分が手に入る。
生存の可能性は、これまでの絶望が嘘のように跳ね上がる。
足場はシダが生い茂り、決して歩きやすくはなかった。
それでも滑落するような険しい崖はなく、浩平は逸る心を抑えながら、一歩一歩慎重に前へ進んだ。
しばらく進むと、再び強い風が吹き抜けた。
「……間違いない!」
潮の香りが、今度は確信を持てるほど強く漂ってきた。
浩平は両拳を強く握りしめた。
「――決めた」
もう、帰りの食料や残り日数など計算するのはやめだ。
退路を残したままでは、この広大な絶望を突破することなどできはしない。
残された最後の「一週間」という時間も、すべてただひたすら前へ、未知の西へと進むためだけに使い果たす。
帰還を考えるのは、生き残るための明確な手段を掴み取ってからだ。
浩平は腹の底から湧き上がる凄絶な決意を胸に抱き、再び力強く歩き始めた。
3. 生命の海
あれから、さらに三日が過ぎた。
あの洞窟を出て未知の西へと迷い込んでから、ついに十日目。
風に乗って運ばれてくるかすかな潮の香りだけを唯一の道標に、浩平はひたすら脚を動かし続けていた。
その頃には、万が一の帰路を示すために残してきた目印も、ほとんど意味を成さなくなっていた。
前進するにつれて木々は次第に姿を消し、枝を折って印を残すことすらできない。
仮に生い茂るシダの葉を折ったところで、それが風で折れたのか自分のものなのか、判別することすら不可能だった。
「まあ……木さえ見つかれば、俺の残した印もあるはずだ」
自分に言い聞かせるように呟く。
だが、それがただの気休めに過ぎないことは、浩平自身が最もよく理解していた。
退路はとうに潰えているのだ。
そして十二日目。
ついに、その瞬間は訪れた。
人の背丈ほどにまで生い茂ったシダの群生が行く手を阻み、視界は完全に遮られていた。
それを手で掻き分け、目の前が急に開けたかと思った次の瞬間、浩平は息を呑み、思わず足を止めた。
「……海だ」
視界いっぱいに広がっていたのは、力強い岩浜だった。
打ち寄せる白い波。
頬を刺す激しい潮風。
どこまでも、どこまでも続く水平線。
目の前に広がる圧倒的な景色は、この異世界に来て以来、彼が初めて目にする「本物の海」だった。
岩場では小さなエビのような甲殻類が忙しなく動き回り、取り残された潮だまりには小魚の群れが光を反射して泳いでいる。
まるで幼い頃に家族と訪れた、あの懐かしい海水浴場を思い出させるような光景だった。
「……助かった」
抑えきれない言葉が、自然と口をついて溢れ出た。
浩平は重いバックパックを地面に降ろすと、ゴツゴツとした岩へ崩れ落ちるように腰を下ろし、しばらくの間、何も考えずにただ海を見つめ続けた。
頬を撫でる湿った潮風と、寄せては返す規則的な波の音。
長い絶望と孤独の果てに辿り着いたその景色は、浩平にとってまさに奇跡そのものだった。
さて、これからどうするか。
浩平は少し呼吸を整えたあと、ゆっくりと立ち上がり、足元の岩場へ向かった。
透明度の高い潮だまりを覗き込むと、見たこともない形状の海藻が揺れ、その隙間をプレコに似た平たい魚がゆったりと泳いでいる。
そして岩肌には、巨大な巻き貝がびっしりと張り付いていた。
小さなものでも大人の拳ほどの大きさがあり、大きな個体に至っては一メートル近くに達していそうだ。
「……まるで太古の海だな」
浩平は思わず息を漏らした。
白亜紀――いや、それよりもさらに古代の三畳紀の海をそのまま切り取ってきたかのような、原始的で力強い異次元の光景だった。
だが、これだけ豊富な魚や貝、海藻が存在するのなら、少なくとも明日からの「食料」に困ることはないはずだ。
「よし。少し浜辺を探索してみるか」
浩平は脚の重みを忘れ、周囲を歩き回りながらキャンプの拠点に適したロケーションを探した。
海が一望できる少し小高い岩場。
そのすぐ背後には、鬱蒼とした森へと続く平坦な砂地が広がっている。
「ここを拠点にするか」
バックパックを岩陰の風が当たらない場所へ置き、改めて周囲の環境を見回した。
そのとき、ふとある決定的な事実に気づく。
「そういえば……」
この世界に落ちてきてからというもの、毎朝の朝露で身体が濡れることはあっても、一度たりとも「雨」が降っていない。
(……この世界で、雨は降るのか?)
新たな不安が胸をよぎる。
飲み水なら、朝露を集めれば多少は確保できるだろう。ポンチョを広げて仕掛けを作れば、さらに効率よく集められるはずだ。だが、それだけでこの先ずっと生き永らえるにはあまりにも心許ない。
しかも、見渡す限りこの周辺には高い山が存在しない。
山がなければ、川や豊富な湧き水が存在する保証もないのだ。
「これから一番の課題になるのは……水の確保だな」
火種に関しては、持参した着火剤やガス缶がまだ残っている。しかし、それとて使えばいずれ尽きる消耗品だ。
底をつく前に、摩擦による原始的な火起こしの技術も身につけなければならない。
さらに季節が巡れば、想像を絶する極寒や雪への備えも必要になるかもしれない。
ここには雨風をしのげる都合のいい洞窟もないのだ。
となれば、安全な住まいを己の手で一から組み上げるしかない。
「……やることだらけじゃないか」
浩平はぽつりと呟き、苦笑した。
だが、その口元には確かな笑みが浮かんでいた。
先ほどまでの死に瀕した絶望感はなく、不思議と心には小さな余裕が生まれていた。
食料の目処が立った――。
たったそれだけの事実が、「ここで生き抜いてみせる」という強力な希望となって、浩平の胸の奥で力強く灯り始めていた。
浩平はさっそく、手頃な位置にある岩場へと降りて行った。
岩に強固に張り付いていた、アンモナイトのような巻き殻を持つ未知の生物を力任せに一匹採集する。
貝なのか、それともイカやオウムガイの遠い親戚なのか――。
見たこともないグロテスクな生物だったが、今の彼に迷っている余裕はなかった。
キャンプケトルに海水を汲んで湯を沸かし、その生き物を丸ごと放り込んでじっくりと茹であげる。
しばらくして湯を切り、熱々の殻をサバイバルナイフの背で力任せに叩き割った。
バリッと殻が割れ、中から現れたプリッとした身を取り出す。
彼はそれを平らな石の上に置き、じっくりと観察した。
毒性が集中しやすい内臓らしき黒い部分を刃先で慎重に取り除き、引き締まった筋肉の身だけをナイフで三つに切り分けた。
「……頼むぞ、俺の胃袋」
浩平は祈るような心地で、その小さなひと切れを恐る恐る口へ運んだ。
歯を立て、ゆっくりと噛み締める。
コリッとした、驚くほど強烈な歯ごたえ。
そして噛むほどに、濃厚な潮の旨味が口いっぱいに広がっていく。
「……サザエか!?」
思わず声が漏れた。
見た目の不気味さとは裏腹に、味はまるで高級なサザエそのものだった。
だが、まだ浮かれるわけにはいかない。
浩平は一切れだけをゆっくりと飲み込むと、そのまま岩の上に腰を下ろし、一時間じっと自分の身体の反応を観察した。
唇の痺れ、吐き気はない。
嫌な腹痛もない。
手足の痺れも、視界のめまいも一切起こらない。
「……大丈夫だ。喰える!」
確信の呟きとともに、彼は残りの身を一気に口の中へ放り込んだ。
「うまい……うまいぞ……!」
この狂った世界へ迷い込んで以来、初めて心から美味しいと思える本物の食事だった。
一口噛み締めるたびに、冷え切っていた細胞が目を覚まし、「自分は今、生きている」という強烈な実感が胸の奥から熱く込み上げてくる。
気がつけば、浩平の汚れきった頬を一筋の熱い涙が伝っていた。
「……生きられる。俺は、ここで生きられるんだ」
その一言を深く胸に刻むように呟き、浩平はどこまでも青く広がる太古の海を、力強い眼差しで見つめ続けた。
(つづく)




