第2章 先駆者の遺物
1. おとしもの
眠れない夜がようやく白み始める頃、時計の針は静かに六時を指し示していた。
草原を這う夜の名残はまだ冷たく、足もとからじっとりと身体を蝕むようだった。
頭上には、巨大な「月のような天体」がゆっくりと地平線の彼方へ沈み、空はどこか現実味のない淡い灰色へと染まりつつあった。
テントの幕を押し広げて外へ出た浩平は、肺に冷たい空気をたっぷりと吸い込んだ。
胸の奥には、今夜も消えなかった不穏な夜の気配だけが残っている。
「……もし、ここが地球じゃないとしたら」
自らの口をついて出た仮説に、背筋を這い上がる微かな悪寒。
しかし、現実逃避をしている余裕はなかった。
この見知らぬ草原から脱出する手立てが見つからない可能性を、彼はもう直視せざるを得なかったのだ。
浩平は足もとに落ちていた手頃な木の枝を拾い上げた。
腕ほどの長さで、先端はからからに乾燥していて軽い。彼はそれをテントの脇の柔らかい土へと深く、しっかりと突き立てた。
「――日時計だ」
小さく呟く声は、誰にも届かない。
もしここが地球ではないのなら、太陽の運行速度も軌道も、人類が知る基準とは違っているかもしれない。
愛用の腕時計の針が刻む時間を、そのまま信じるわけにはいかないのだ。
太陽の移動と時計の針を照らし合わせ、この世界の「時間」を測定し、記録しなければならない。
それは生き延びるための、最低限の観測だった。
腕時計を見る。六時。日時計の影は地面に寄り添うように横たわっている。
「一時間ごとに……」
影の先端へ向けて、ポケットから取り出した小石を置く。
その表面には、あらかじめマジックで数字が書き記されていた。
一つ、また一つ。
太陽の高度が上がるにつれて、影はゆっくりと伸びていく。
だが、その伸び方はどうにも奇妙で、どこか不自然な速度と軌道を描いているように感じられた。
(山道へ入る手前で、あの時、車の燃料を満タンにしておいて本当に良かった……)
ふと、そんな現実的な安堵が頭をよぎる。
燃料計の針は今も正確に「満タン」の文字を指している。
だが、いつまでもそれに頼るわけにはいかない。
気を取り直した浩平は、ベースキャンプの周囲を歩き、食料になりそうなものを探し始めた。
足もとには低い雑草が一面に広がり、ところどころに自分の背丈ほどもある奇妙な枝葉を茂らせた木が点在している。
だが、どれほど歩いても動物の姿はなかった。
それどころか、羽音を立てる昆虫の一匹すら見当たらない。
生命の気配が完全に欠落した世界。
「……なんて、不気味な場所だ」
もし本当にここが異世界で、次元の裂け目にでも迷い込んだのだとしたら――。
少なくとも人間の肺が拒絶しない程度の酸素があり、こうして呼吸が維持できていることだけは、奇跡と感謝すべきなのかもしれない。
それから三時間が経過した。
日時計の影の先へ一時間ごとに小石を並べながら、浩平は周辺の捜索範囲を少しずつ広げていた。
そのとき、足もとの草むらの中で、緑の葉の隙間から覗く鈍い金属光沢が彼の目を引いた。
「……ん?」
足を止め、しゃがみ込む。手を伸ばして拾い上げたそれは、まぎれもなく人工物だった。
散弾銃の薬莢――真鍮色の錆びた金属のリムと、赤いプラスチック製の半分つぶれ薄汚れた面を、浩平は呆然と見つめる。
「……誰かが、いるんだ」
胸の奥底から、熱いものがこみ上げてくる。
自分以外の人間はもうこの世界に存在しないのではないかと、何度も絶望に押し潰されそうになっていた。
指先に触れる金属の冷たさと、プラスチックのざらついた感触。それは紛れもない「他者の痕跡」であり、この果てしない孤独に穿たれた、唯一の希望の光だった。
浩平は薬莢を固く握りしめると、ゆっくりと立ち上がった。
「生きてる……まだ、誰かが生きてるんだ」
それは飢えや孤独に対する、あまりにも強い安心感だった。自分以外に、この世界へ迷い込んだ人間が確かにいる。
孤独の闇に差し込んだ一条の光だった。
衝動に突き動かされるように、浩平は立ち上がり、思い切り息を吸い込んだ。
「誰か――っ!」
自分でも驚くほど、張り裂けそうな大声だった。この異様な静寂に支配された世界には、あまりにも場違いで、暴力的なほどの叫び声。
だが、声を張り上げた直後、浩平は自分の肺からすべての空気を奪われたかのように息を呑んだ。
絞り出した声は、遠くへ響き渡ることさえせず、ただ目の前の濃密な静寂の中へと、まるで吸い込まれるように消えていった。
こだまもない。返事もない。
ただ、音を一切拒絶するかのような圧倒的な静寂だけが、再び浩平の耳を冷たく満たしていた。
2. 希望への道は続いてる
この日の収穫は、到底口にすることのできない散弾銃の薬莢がたった一つ。
それでも、収穫が皆無だったわけではない。
日時計を使った地道な観測を重ねた結果、浩平はこの世界の「時間の歪み」を少しだけ解き明かすことに成功していた。
刺した枝の影が、ぴったりと元の位置へ戻るまで二十八時間。
地球のそれより、四時間だけ長い一日。
つまり、この世界で六日が過ぎれば、地球でのほぼ一週間に相当する計算になる。
「案外、地球の環境に近いんだな……」
浩平は自嘲ぎみに苦笑した。だが、時間の周期が地球に近いからといって、過酷な生存環境が好転するわけではない。
手元の食料は、持ち込んだ非常用の保存食と米を合わせても、一日三食でせいぜい一週間持つかどうかだ。ポリタンクの水も無限ではない。
いつ訪れるかもわからない救助を待つには、あまりにも頼りなさすぎる蓄えだった。
食料が底を突く前に、この広大な草原から脱出するルートを見つけ出さなければならない。
浩平はどこまでも鬱鬱と茂る森の深淵を見つめ、胸の鬱屈を吐き出すように深く息を吐いた。
――この謎めいた世界へ迷い込んで、三日目の朝。
夜間の冷気がまだ草原の低空に漂い、彼の愛車であるステーションワゴンの黒いボンネットは、びっしりと付着した薄い朝露で白く濡れていた。
「朝露が出るってことは、大気中の水分は豊富にあるってことか……」
足もとの雑草にも、朝露が宝石のように透き通った玉を宿し、葉先から今にもぽたりと落ちそうに揺れている。これならば、最悪の場合でも水の確保に直ちに困ることはなさそうだった。
「問題は、外への出口と、現地調達できる食料か」
浩平は運転席へ乗り込み、エンジンをかけてゆっくりと車を走らせた。
ベースキャンプから草原の縁に沿って半周ほど進んだ時だった。
これまではなだらかな丘陵の陰に隠れて見えなかった場所に、森の壁を断ち切るような細い「隙間」が存在することに気づいた。
車を寄せ、近づいて観察してみると、それはまるで獣道のように見えた。木と木の間だけが意図的に切り取られたように開いており、大人が一人、身を屈めれば十分に通り抜けられる幅がある。
浩平は車を停め、ドアを開けて周囲の土に視線を落とした。
人や動物が踏み荒らした痕跡や足跡は見当たらない。
それにもかかわらず、その不自然に開いた細い道だけが、まるで訪問者を奥へ誘う口を広げているかのように、静かに森の闇へと続いていた。
「……まずは草原をぐるりと一周走ってみて、他に出口がなければここに入ってみるか」
浩平は自分に言い聞かせるように呟くと、再び車内へ戻った。
結局、自分が霧を抜けて飛び出してきたはずの場所をいくら探しても、タイヤ痕が森の縁から不唐突に始まっているという狂った現実は変わらなかった。
「食料を確保するにしても、あの森へ入るしかなさそうだな」
浩平はバックミラー越しに、先ほどの森の入口へ視線を投げかけた。
「……よし、あそこを少しだけ探索してみよう」
意を決した彼は、車を一度あの開いた獣道のある場所まで左回りで戻すことにした。
左回りなら、運転席の窓越しに常に右手の森の異変を監視できる。
万が一、危険な野生動物や異常事態が発生しても、即座に車を盾にして対応できるという長年の野外経験に基づいた判断だった。
草原を吹き抜ける風は、昨日よりも一段と冷たさを増していた。太陽は天空の高くにあるはずなのに、注ぎ込む光はどこか白っぽく、温もりを欠いている。
二十八時間で巡る、異世界の一日――。
この世界の太陽は、人類が慣れ親しんだ地球のリズムとはまったく異なるテンポで時を刻んでいるのだ。
「日没までは、まだ十分に時間がある」
浩平は車を停めると、帰路の目印用として持参していた鮮やかな蛍光ナイロンテープを一巻き、ズボンのポケットにねじ込んだ。
さらに、右手にずっしりと重いサバイバルナイフを握り締め、反対の手には耐熱性の高い厚手の革手袋を装着する。
「よし……」
小さく自分を鼓舞すると、彼は木々の間にぽっかりと穿たれた細い道へ、静かに一歩を踏み出した。
「……やっぱりな」
樹海の中に足を踏み入れて間もなく、浩平の懸念は確信に変わった。
頭上を覆う枝葉の間をいくら注意深く見渡しても、蜘蛛の巣ひとつ張られていないのだ。
「これじゃあ、鳥や小動物の肉は期待できそうにないな……」
昆虫という食物連鎖のピラミッドの底辺が存在しない以上、それを餌とする小動物が棲息している可能性は限りなく低い。
確保できる食料があるとすれば、木の実や山菜、根菜といった植物性のものに限られるだろう。
浩平は周囲の静寂に神経を研ぎ澄ませながら、慎重に足を進めた。
やがて、彼は足もとの不自然な変化に気づき、足を止めた。
「……道、なのか?」
明らかに自然物ではない。誰かが意図的に斧を入れたかのように、木々が一定の幅で真っ直ぐに切り開かれているのだ。
足もとをよく見れば、大きめの扁平な石が所々に埋め込まれ、石畳とまではいかずとも、歩行者が足を取られないよう入念に整地された痕跡があった。
「人の手が……入っている……!」
浩平はゾクリと背筋を凍らせ、思わずナイフを構え直して周囲を見回した。
かつて文明が存在したのか、あるいは今も何者かがこの道を維持しているのか。
静寂の森を歩き続けること、およそ二時間。
目の前に、ドーム状に大きく隆起した巨大な岩肌が突如として姿を現した。
車を降りてからここに至るまで緩やかな下り傾斜が続いていたため、森の外からはこの岩山の存在にまったく気づけなかったのだ。
道はその巨大な岩壁に突き当たり、一見すると完全な行き止まりに見えた。
だが、慎重に近づくと、道は岩肌に沿うようにして直角に右へと折れていた。
その曲がり角の先で、ぽっかりと黒い空洞が不気味に口を開けていた。
「……洞窟か」
浩平は顔をしかめた。
「しまったな……車に強力なLEDライトを置いてきてしまった……」
手元にあるのはスマートフォンだけだ。照射範囲も光量も心もとないが、丸腰よりは遥かにマシだった。浩平はスマホのライト機能をオンにし、白い光の束で洞窟の内部を慎重に照らし出した。
その光が、入口近くの湿った土の上を捉えた瞬間――浩平の息が止まった。
「……足跡!?」
それはまぎれもなく、靴を履いた人間が踏み固めたと思われる、鮮明な足跡だった。
浩平の心臓が、激しく打ちはじめる。
「……誰かー!」
抑えた小さな声で、暗がりへ向けて呼びかける。返事はない。
彼は意を決し、肺いっぱいに空気を吸い込んで声を張り上げた。
「誰か、いませんかー!!」
叫び声は洞窟の奥深くへと吸い込まれ、遠ざかっていく。
しかし、返ってきたのは、鼓膜を圧迫するような静寂だけだった。
浩平はサバイバルナイフの柄を強く握り直した。手汗で滑らないよう、革手袋の感触を確かめる。
そしてスマートフォンで闇を押し広げるように照らしながら、恐る恐る洞窟の奥へと、一歩、また一歩と足を踏み入れていった。
3. 絶望
洞窟の奥をゆっくりとなぞる、暗闇を照らすスマートフォンの心許ない光。
頼りないその輝きが、ふいに闇の中から一つの恐ろしい現実を暴き出した。
「――っ!」
喉の奥で詰まったような悲鳴が漏れる。
光の先で浮かび上がったのは、冷たく風化した人骨だった。
「ひぃっ……!」
恐怖で思考が真っ白になり、浩平は情けない悲鳴を上げた。
ガクガクと震える膝では立ち上がることなどできるはずもなく、その場に崩れ落ちるように尻もちをつく。
その反動で後ろへ大きく倒れ込み、背中をゴツゴツとした硬い岩肌に強く打ちつけた。
だが、背中の激痛よりも頭を支配する恐怖が遥かに勝り、浩平は息を潜めてその場に凍りついた。
「な、何だよ……これ……」
呼吸が激しく乱れる。胸の奥で、心臓が嫌なほど速く、脈打っていた。
「落ち着け……落ち着け自分……」
震える声で、必死に自分へ言い聞かせる。
浩平は恐る恐る、スマートフォンの光をもう一度その闇へ向けた。
光に照らし出されたのは、人骨だけではなかった。
使い込まれたケースを開けたまま転がる猟銃。
食べ終えて久しく錆びた空き缶。
朽ちかけたぼろぼろのリュックサック。
かつて誰かが、ここで生きようとし、生活していた明らかな痕跡。
そして――その誰かは、すでに物語を終えていた。
「……誰なんだよ」
浩平の声は情けなく震えていた。
「ここで……一体、何があったんだ……」
今は一旦引き返すべきだ。頭を整理し、出直さなければ狂ってしまいそうだった。外の太陽も、もうすぐ沈んでしまう。
足早に不気味な洞窟を後にした浩平は、命からがら車へとたどり着いた。
椅子へ寄りかかり、荒い息を整えるうちに、少しずつ凍りついていた思考が動き始める。
(あそこに残されていた銃や薬莢の持ち主は、間違いなくあの人骨の主だ。俺よりずっと前にこの狂った世界へ踏み込んだ……いわゆる『先駆者』なのか……?)
ここへ来てからというもの、まともな食事を摂れていない。胃がシクシクと痛んだ。
まずは火を起こそうと、浩平は車から折りたたみのバーベキューコンロを取り出した。
飯ごうに汲んだ水を張り、湯を沸かす。
車の荷室から取り出した携帯用のカップ麺を無我夢中ですすった。
冷えた身体にスープの温もりが染み渡る。ぬるくなった缶ビールをひと口飲み干し、深く大きく息を吐き出した。
「明日は……もう一度あの森と洞窟を詳しく調べるしかないか」
腹が満たされると、理性が戻ってきた。
彼はヘッドライトの予備電池と手持ちのランタンをバックパックへ分けて詰め込んだ。
着替えなどの余計な衣類は車に残し、洞窟探索に必要な最小限のギアだけを選んで携行する。
翌朝――。
空が白み始めたばかりの午前五時。
この世界の一日は二十八時間。
昼と夜は、それぞれ十四時間ずつ続く。
探索に使える時間が長いことだけは、今の浩平にとって不幸中の幸いだった。
しかも夜になれば、空に浮かぶあの巨大な月のような天体が太陽光を反射し、草原一帯を淡いエメラルドグリーンの光で満たす。
昼間ほどではないものの、夜間でも周囲の地形を見渡せるほどの明るさがあった。
浩平は手際よくテントとタープを撤収すると、車ごとあの獣道の入口付近まで移動させることにした。
ここは、この世界へ迷い込んで初めて一夜を明かした場所だ。彼の生活拠点であり、万が一の際に絶対に戻らなければならない唯一の帰還ポイントだった。
迷わないための目印として、林の手前にある大木には鮮やかな赤い蛍光ナイロンテープをしっかりと巻き付けた。
草原の中央を横切る最短ルートとはいえ、車ででこぼこ道を時速三十キロで突っ切っても五十分ほどかかる広大な距離だった。
二度目ということもあり、昨日より迷うことなく獣道を進み、洞窟へ到着するまでは一時間程度だった。
「さて……本番だ」
浩平は己を奮い立たせるように、苦笑いを浮かべた。
「骸骨さん……頼むから化けて出ないでくださいよ」
静まり返る洞窟内で、自分を落ち着かせるための必死の軽口だった。
改めて光を当てて観察すると、白骨化した遺体はまさに骸骨そのものだった。
着ている衣類は擦り切れ、布地はところどころ朽ち果てており、気の遠くなるような年月が経過していることを物語っている。
だが、不思議なことに、骨そのものは完全な風化や散乱には至っていなかった。
「昆虫や動物がいないせいか……」
浩平は小さく呟いた。
地球であれば、虫や小動物によって肉体は解体され、骨も乱雑に散らばるはずだ。
しかし、この生物の存在しない世界では、ただ静かに乾燥し、風化していくだけなのだろう。
骸骨の傍らに置かれたリュックを慎重に改める。
中には散弾銃のメンテナンスキットと弾薬ケースがあり、ケースの中には未使用の散弾が八発、綺麗な状態で残されていた。
「……使わせてもらいます」
浩平は静かに頭を下げ、弾薬だけを自分のバックパックへと移した。
この先の見えない世界で、確実な護身用になるはずだ。
メモや日記の類は見当たらなかった。
しかし、残された頑丈な衣類や持ち物の特徴から推測するに、この人物は猟師だった可能性が高い。
「狩りの最中に、偶然ここへ迷い込んだのか……」
ウサギや猪を追って深い山へ入り、気づけばこの異世界へ突き抜けていた――。
そう考えると、持ち物が極端に少ないことにも合点がいった。
ふと、散弾銃のガンケースに目が留まる。
かすれて読み取りづらくなっていた革の表面に、インクで刻まれた数字が残っていた。
『1947』
「……一九四七年!?」
浩平は思わず息を呑んだ。
もしこれが製造年や購入年だとすれば、この人物は昭和二十年代――半世紀以上も前の時代からここへ迷い込んだ人間ということになる。
ゴクリと唾を飲み込み、浩平は意識を切り替えて洞窟の奥へと光を向けた。
そそり立つ岩壁には、石の先で力任せに刻みつけたような無骨な文字と、歪な手書きの地図らしきものが掘り込まれていた。
「なるほど……」
浩平は壁の刻印にそっと手を添えた。
「あんたも……出口を探して、必死にこの世界を歩き回っていたんだな……」
つづく




