第1章 冒険の始まり
1. 霧の中の丘陵
さて! 準備万端。
長年使い込まれ、無骨な存在感を放つ重厚なキャンバス生地のバックパック。
表面には防水のために何度もロウが塗り重ねられ、独特の鈍い光沢を放っている。
両脇には使い込まれた飯ごうと水筒が揺れ、自衛隊下がりだという迷彩柄の生地には、今までの焚き火でついた黒い焦げ痕と無数の凹みが刻まれていた。
森浩平、33歳、独身。目黒区碑文谷の池の近くのアパート暮らし。
二十歳の頃に足を踏み入れたキャンプの魅力は、時を経て「ソロキャンプ」という至高の孤独へと昇華していた。
今回の旅は、少しばかりの長距離ドライブになる。目的地は、長野県信濃町にあるとされる無料のオートキャンプ場だ。
これまでに百ヶ所を超える野営地やキャンプ場を渡り歩いてきた彼には、たった一つだけ自分に課しているルールがあった。
――『同じ場所には、二度と行かない』。
ただひたすら、未知のキャンプ場や野営地の環境、ロケーションといった「データ」を集めたい。
そのデータは、浩平ノートに驚くほど詳細に書き留められている。
それ以上の深い理由はない。それが浩平のソロキャンプにおける、唯一にして絶対の美学だった。
首都高から関越、上信越へと車を走らせる道中、空模様は悪くなかった。
しかし、高速道路を降り、九十九折の山道へ入ってしばらく走ると、周囲の緑は少しずつ白く霧に霞み始めた。
「霧か……」
浩平はアクセルを踏む足を緩め、速度を落とした。山間部では珍しくもない気象現象だ。
フォグランプを点灯させ、視界の悪くなった前方を慎重に見定める。
カーナビの画面に目をやると、目的地を示すポイントまではあと十数キロ。
「もう少しだな」
だが、標高を上げるにつれて霧はみるみるうちに濃さを増していった。
数メートル先すら白濁した空間に溶け込み、見通せない。
それでも浩平はナビの示す一本道を信じ、静かにハンドルを握り続けた。
やがて、路肩を縁取っていたはずの木々のシルエットさえ失われた。
前も、横も、後ろも、あらゆる色彩が白色の壁に塗りつぶされていく。まるで車という密室ごと、巨大な生き物の体内に呑み込まれてしまったかのようだ。
「……さすがに濃すぎないか?」
車内にぽつりと呟きが漏れた、その瞬間だった。
カーナビの画面が、脈打つように一瞬だけ暗転した。
「ん……?」
画面はすぐに復旧した。しかし、表示された自車位置の周囲からは、青々と描かれていたはずの道路のラインが綺麗に消失していた。
タイヤが拾う走行音が、アスファルトの乾いた摩擦音から、ザッ、ザッという不揃いな砂利を踏みしめる音へと変化する。
「……あれ?」
浩平は眉をひそめた。走っているはずの道が地図から消えている。
(山奥の林道だしな。GPSの精度が落ちたか、地図データが古いだけか)
彼はすぐに思考を切り替え、再びフロントガラスへと視線を戻した。
濃霧の向こう側に、うっすらと柔らかな光の塊が見え始めていた。出口だ。
「おっ」
アクセルを軽く踏み込む。ステーションワゴンが真っ白な霧の膜を突き破った。
瞬間、劇的に視界が突き抜けた。
「……なんだ、ここは?」
目の前に広がっていたのは、どこまでも緩やかにうねる広大な草原だった。
「到着したのか?」
直前まで道路の両脇を囲んでいたはずの鬱蒼とした木々は消え失せ、地平線の果てまで圧倒的な緑のカーペットが広がっている。
浩平は思わずブレーキを踏み、車を止めた。
運転席の窓を少しおろすと、冷涼な風が室内に流れ込んでくる。標高の高さからなのか、空気は驚くほど澄み渡っていた。
周りを見回しながら、彼は首を傾げる。
「キャンプ場……だよな?」
初めて訪れる場所ゆえ、確信はない。だがナビは間違いなく目的地周辺を示していたし、予約不要の無料オートキャンプ場という触れ込みなら、実態はただの広大な野営地であってもおかしくはない。
「まあ、無料の野外施設なんてこんなもんか」
深く追及することもなく、浩平は車を草原の端、小高くなった丘のふもとへと寄せて止めた。
地面の草は短く刈り込まれたように揃っていて、傾斜も少ない。設営のロケーションとしては、むしろ極上と言ってよかった。
気になることと言えば、管理棟や案内板の類が一切見当たらないことと、自分以外のキャンパーの気配が皆無であることくらいか。
濃い霧の向こう側に戻ればさすがにあるだろうと、楽観的に捉えることにした。
「平日だし、貸し切り状態か。悪くない」
ドアを開け、外へ踏み出す。
静かだった。あまりにも静寂が過ぎた。風が草の葉をさざ波のように揺らすカサカサという音以外、鳥の声も、遠くを走る車のエンジン音すらも聞こえない。
「……静かで最高じゃないか」
浩平はフッと笑みをこぼした。干渉のない静寂こそ、ソロキャンパーにとって何よりのご馳走だ。
リアゲートを開け、積み込まれた愛用のギアたちを降ろし始める。
長年の経験から無駄のない動作で、まずはソロテントを立ち上げ、その上へ流れるようにタープを張る。風向きを読み、ペグを打ち込むハンマーの音が草原に心地よく響いた。
「よし、こんなもんだな」
手際よく寝床とリビングスペースを作り終え、浩平は満足げに腰を伸ばした。
その時、足もとに違和感を覚えた。
テントから数メートル離れた草むらの中に、ぽっかりと人工的な窪みが残っている。
近づいて屈み込んでみると、土の表面が黒く焦げ、冷え切った炭の欠片がいくつか埋もれていた。周りには、火を囲むように配置されたであろう、焼き色のついた石が転がっている。
「直火の跡か……」
炭の先端をつまみ上げてみる。すっかり水分を吸い、完全に冷え切っていた。かなり以前に使われたもののようだ。
「直火禁止のルールも守れんやつがいるとはな。マナーの悪いキャンパーはどこにでもいる」
呆れたように呟きつつ、浩平は炭を土へ戻した。だが同時に、「ここで誰かがキャンプを楽しんでいた」という事実は、初めての場所に対する小さな安心感でもあった。
テントへ戻り、ランタンや寝具の配置を整えているうちに、空はゆっくりと茜色へと表情を変え始めていた。
時計を見ると、時刻は夕刻に差し掛かっている。
「そろそろ、飯の仕込みでもするか」
浩平は作業用の手袋を外し、テントの外へ出た。そしてふと、基本的な設備を確認していないことに気づいた。
「……そういえば、炊事場はどこだ?」
手や食材を洗うため、周囲を見回す。だが、水場らしき構造物はどこにも見当たらない。少し範囲を広げて歩いてみたが、シンクどころかパイプ一本立っていなかった。
「おいおい、無料だからって水道すらなしか?」
苦笑しながら、今度はトイレを探すことにした。さすがに衛生設備くらいはあるはずだ。
だが――
いくら歩いても、地平線を遮るような建造物は一つとして現れなかった。
「……嘘だろ」
先ほどまでの優雅で呑気な気分が、夕闇の冷気とともに、すうっと冷めていくのを浩平は感じていた。
2. 疑いの眼差し
浩平は立ち止まり、茜色から漆黑に染まり始めた草原の向こうを凝視した。
管理棟はない。
炊事場もない。
トイレもない。
人っ子一人いない。
「……ちょっと待てよ」
胸の奥で、嫌な予感がじわじわと形をなし始めていた。
浩平は急ぎ足で車のほうへ戻ると、荒々しくドアを開けた。
「……少し戻ってみるか」
設営したばかりのテントをそのまま残し、運転席に滑り込む。エンジンスイッチを押すと、静かなモーター音から重厚な排気音が静寂を切り裂いた。
ダッシュボードのカーナビに目をやる。
画面の中央には、依然として目的地付近を示す赤いマークが灯っていた。
「ナビはここだって言ってるんだよな……」
自分に言い聞かせるように呟き、浩平はアクセルを踏み込んだ。
来た方向へ車を走らせる。
少し戻れば、あの深い霧の中を抜けてきた道路が現れるはずだった。
そう信じて疑わなかった。
だが――
「……あれ?」
ない。
どれだけ走っても、舗装路はおろか、車の轍すら見えてこない。
浩平はさらに車を進めた。草を踏み分ける振動がステアリングを通して伝わってくる。
焦りとともに、じわじわと速度を落とした。
「おかしいだろ……」
さっきまで、確かにアスファルトの道があった。
その道を辿って、自分はここに辿り着いた。
見間違いであるはずがない。
なのに、どこを探しても道がない。
浩平は車を止め、エンジンを切った。
静まり返った車内から出て、周囲をぐるりと見回す。
「……どういうことだ?」
視界を埋め尽くすのは、どこまでも波打つ緑の草原。
振り返っても同じ。
左右を見ても同じ。
見渡す限り、見慣れぬ草の海。
その遥か先には、見たこともない樹木が鬱蒼と茂る森が立ち塞がっている。
建造物も、電柱も、道もない。
浩平は車の周囲を重い足取りで歩いた。確実に通ってきたはずのルートをなぞっているはずなのに、タイヤ痕すら草に呑み込まれて消えている。
まるで――最初から、ここには道など存在していなかったかのように。
「……いや、そんなわけないだろ」
せり上がる動揺を押し殺すように、浩平は吐き捨てるように言った。
もう一度車に乗り込み、今度は真反対の方向へアクセルを踏み込む。
しかし、いくら走らせても結果は同じだった。
どこまで走っても、うねるような丘陵が果てしなく広がるばかり。
右へステアリングを切っても草原。
左へ切っても草原。
一時間近く車を走らせ、浩平は諦めたように車を止めた。
車窓から周囲を観察して分かったのは、この巨大な草原がほぼ綺麗な円形を描いているということだけだ。
走った距離から逆算しても、直径十キロ以上はある広大な空間。
その外周をぐるりと一周してみたが、どこにも外部へつながる「出口」らしき隙間は存在しなかった。
「……なんだよ、これ」
絞り出した浩平の声が、かすかに震えていた。
ここに来たときは、間違いなく道があった。
霧の中を慎重に走り抜け、この草原へ飛び出した。
その記憶は間違いない。
なのに――道だけが、世界から綺麗さっぱり消え去っている。
ポケットからスマートフォンを取り出したが、画面のアンテナ表示は「圏外」を示したままだった。
「……落ち着け。落ち着け自分」
浩平は深く息を吸い、胸の動悸を抑え込もうとした。
「何か見落としてるだけだ。標識を見落としたか、地形を見誤ったんだ」
言葉とは裏腹に、胸の奥では得体の知れない焦燥感が黒い泥のように膨らみ始めていた。
それを認めるのが怖くて、浩平は逃げるようにカーナビの画面を凝視した。
現在地を示す自車マークと、目的地のピン。しかし、背景地図からは道路の線が完全に消失し、ただの無地の背景の上に自機が浮かんでいる状態だった。
「……ナビまで、どうなってんだよ」
浩平はハンドルを固く握りしめたまま、しばらくの間、微動だにできなかった。
夕暮れが、ゆっくりと草原を侵食していく。
標高が高いせいか、草原の端、地平線の彼方に沈みゆく太陽は、どこか色彩が薄く、まるで絵の具を水で溶かしたような非現実的な光を放っていた。
浩平は諦めたようにテントの前へ戻り、地面に腰を下ろした。
重い足取りでクーラーボックスを開け、乾物のつまみを少しだけ飯ごうの蓋に出す。干しスルメと、味の濃い豆菓子。そして、ツナ缶と冷えた缶ビールを一本。
「……今日はもう、これでいいか」
火を起こして本格的な調理をする気力すら湧かなかった。
食欲がないわけではない。
ただ、胸の奥で絶え間なくざわめく不気味な予感が、胃をきりきりと締め付けていた。
プシュ、と缶のプルタブを倒す。炭酸の弾ける爽快な音が響いたが、それすらも広大な草原の静寂にあっけなく吸い込まれて消えた。
一口あおる。
冷たいビールが喉を落ちていくが、味覚がどこか麻痺しているように鈍かった。
湿り気を帯びた風が吹き抜け、草むらが一斉にざわめく。
その揺れ方すら、気のせいかいつもより重く不自然に感じられた。
浩平はつまみを咀嚼しながら、周囲の配置を一つひとつ確認するように見回した。
自分のテント。
ステーションワゴン。
先ほど見つけた古い焚き火痕。
なだらかな丘陵。
黒々とした森の縁。
見慣れた自分のギアと、この世界の風景。
どれも変わらないはずなのに、網膜に映るすべての配置が、ほんの数ミリずつ歪んでいるような強烈な不協和音を感じる。
「……気のせいだ。疲れてるんだよ」
自分を誤魔化すように低く呟き、浩平はツナ缶の身をフォークですくい、口へ運んだ。
そのときだった。
――カサ。
ごくわずかな、しかし明確な「何か」が草を踏みしめる音がした。
ほんの一瞬の出来事。
風が草をさざ波立たせる音とは違う。
小動物が跳ねる軽い音でもない。
人間の足が、確かな体重をかけて土を踏んだような音だった。
浩平の手がピタリと止まる。缶をそっと地面に置き、立ち上がると、天を仰ぐように目を閉じて耳を澄ませた。
――静かだ。恐ろしいほどに。
風の音すら不自然に途絶え、耳の奥で自分の荒い鼓動だけがドクンドクンと脈打っている。
浩平はゆっくりとまぶたを開け、上空を見上げた。
そして、息を呑んだ。
頭上に広がっていたのは、絶句するような夜空だった。
吸い込まれそうな漆黒のキャンバスに、狂おしいほどの密度で星々が煌めいている。
しかし、彼が三十三年の人生で、そして全国のキャンプ場で何度も見上げてきた夜空とは、根本的に違っていた。
北極星も、カシオペア座も、見慣れた北斗七星の並びもどこにも存在しない。
見たこともない青白い光を放つ天体たちが、不自然で歪な配置のまま、無言で彼を見下ろしていた。
――ここは、日本ではない。
どころか、自分が生きてきた地球という惑星ですらないのかもしれない。
直感が告げるあまりにも絶望的な真実が、冷たい悪寒となって、浩平の背筋を鋭く駆け抜けていった。
3. 星の配置が違う夜
夜空を見上げたまま、浩平は金縛りにでも遭ったかのように動けなかった。
星が違う。
三十三年間の人生で、そして無数の夜を野外で過ごす中で見慣れてきたはずの空が、まったく見たこともない異質な世界のものへと変貌していた。
北斗七星の鋭い柄も、夜空にアルファベットの「W」オリオンの五ツ星もない。
代わりに、聞いたこともない青白い三つの星が完璧な直線を描いて並び、そのすぐ下に淡い光の帯が不気味に横たわっている。
その光帯は、まるで巨大な生き物が肺呼吸を繰り返しているかのように、ゆっくりと、脈打つように明滅していた。
「……ここ、日本じゃないのか……?」
言葉にして口から吐き出した瞬間、思考の前に胸の奥底がその事実を冷酷に確信してしまった。
缶ビールを握りしめる手が、自覚できるほど大きく震える。
直前まで口にしていた乾物の香ばしい匂いが、まるで遠い異世界の出来事のように感覚から遠のいていった。
風は完全に止んでいた。
草原は静まり返り、草の一本すら揺れない。
しかしその静寂こそが、暗闇のどこかに得体の知れない「何か」が潜んでいることを強く示唆していた。
浩平は引き寄せられるように、再び視線をゆっくりと上空へ向けた。
頭上――背を向けていた空のほぼ真上に、それは鎮座していた。
視界に入った瞬間、胸の奥がひやりと氷で満たされたように冷えた。
――圧倒的に、違う。
空の深さと星の輝きが違う。
そして何よりも。
そこに浮かんでいた「月らしき天体」が、彼の知るそれとは完全に別物だった。
「……でかい……」
引きつった喉から、かすれた声が漏れた。
形は確かに月に似ていた。
しかし、見慣れた地球の月の二倍はあろうかという圧迫感で空に君臨している。
輪郭が異様なほど鮮明にくっきりとしている。
表面に刻まれた模様も、ウサギの餅つきに見立てられるいつもの「月の海」とはまるで違っていた。
どちらかと言うと淡いエメラルドグリーン。大小丸い模様が広がり、その表面を無数の細い筋状の影が、まるで網の目のように何本も走っている。
そして――
その巨大な天体の周囲を、微かな光の粒がゆっくりと周回していた。
衛星だ。
肉眼で輪郭まで認識できるほど近くを回っている。
三つ……いや、四つかもしれない。
大きさの異なる小さな光の点が、寸分の狂いもなく一定の軌道を描きながら、母星の周りを静かに移動していた。
「……こんなの……!」
声が激しく震えた。
ここはどこなんだ。日本でもなければ、地球の空でもない。
星の瞬き方が違う。空の青黒い色が違う。
月が違う。見たこともない衛星が眼前に浮かんでいる。
「ここは……どこなんだよ……っ!」
誰も答えてくれない暗闇に向かって、浩平は缶ビールを潰れんばかりに握りしめたまま、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。
迫りくる狂気と冷気の中、浩平は一睡もできぬまま、長く果てしない最初の夜を明かすことになるのだった。
つづく




