第12章 折り返しのグリッド
1.街の裏手からの戦利品
三人はしばらく言葉を失い、絶海の孤島となった藻岩山から、滅び去った未来の地球を見つめ続けていた。
「……一度、ベースキャンプへ戻ろう」
浩平の静かな促しに二人は小さく頷き、薄暗いコンクリートの通路へと引き返した。
途中の壁に残されていた『藻岩山山頂展望台』の案内板を横目に、三人は重い灰色のドアをくぐり抜け、時空間の歪みを通って湖畔の辺の足印台座からKサークルのベースキャンプへと戻った。
焚き火の爆ぜる音が、風の音に混じって夜の闇に響いていた。
自家製の燻製肉とサザエモドキをかじりながらも、愛衣の目はどこか遠くを見つめていた。
「ねえ、浩平さん……あそこ(札幌)で本当に終わりなんですかね? 1日50キロのペースなら、もっと北の利尻富士とか、宗谷岬の先端まで行けるんじゃないですか?」
浩平は手帳を開き、計算を叩き出した。
「……確かに、札幌から利尻富士までは直線で約200キロ。1日50キロの北上が続いているなら……ここから『4日』待てば、稚内の宗谷丘陵や利尻富士の標高の高い場所に繋がるはずだ。行ってみる価値はある」
三人は4日間、ベースキャンプで時を見送ることを決めた。
4日後。
「よし……200キロ北の世界です!」
愛衣が期待に胸を膨らませ、扉のノブを押し開けた。
ガタゴトと重い木製ドアが開くと、吹き込んできたのは荒々しい高山風と、見渡す限りの雲海だった。
そこは、打ち捨てられた山小屋(避難小屋)の室内だった。
「寒っ……! ここ、どこ……!?」
三人が山小屋から外へ躍り出ると、息をのむような絶景が広がっていた。
愛衣は再び山小屋のドアに手を掛け入った。
中にはスコップやワイヤーロープ他に使えそうな機材があった。
標高1,721メートルを誇る利尻富士の標高1,000メートル付近の荒々しい岩場だった。
周囲の稚内も宗谷丘陵もすべて大海原の底へ没し、広大な太平洋の上にポツンとそびえ立つ、まさに「絶海の巨大な孤峰」と化していたのだ。
「浩平さん……見て! 足元の数値……!」
岩場に設置された石板の数値を覗き込むと、そこには『45.0000 N / 141.0000 E』——秒の単位まで寸分の狂いもないピッタリな数字が刻まれていた。
「北緯45度00分00秒……ここが、日本のグリッドの『最北極点』だ」
三人は、次は宗谷海峡を越えて樺太まで行くぞ!」と期待に胸を膨らませて4日間待つことにした。
ベースキャンプに戻り、さらに「4日間」の時を見送った。
そして4日後、湖畔の辺の足印台座との透明な壁との間隔は台座から手を伸ばせは届くほどにまで近くなっていた。
その距離1メートルほどだった。
三人は山小屋からスコップとロープ、ガッチャー(ハンドレバー)を持ち帰って台座前に置いた。
ドアを再び開けた。
「……え?」
4日後、意気揚々とドアを開ける愛衣。
しかし、吹き込んできたのは樺太の風ではなく、以前見た「海に沈んだ札幌と、藻岩山山頂の展望台」だった。
「え……!? 樺太に行くはずなのに、南の札幌に戻ってる……!?」
これじゃ、後六日間待ったら十和田湖にもどったりしない?
ドアノブの透明な壁は台座の手前で折返していた。
帰った六日間を更に浜のベースキャンプまでの道路整備にあてた。
愛衣の動きが止まる。
扉の向こうに広がっていたのは、思った通り……極度の温暖化で水が干上がり、白く露出したクレーターのような湖底と、迫り来る青い海原だった。
「ここ……前に来た十和田湖……!?」
利尻富士(最北端)から十日分、南下したことで、三人は札幌を通り、十和田湖の位置まで引き戻されていたのだ。
建物が傾いたドアから三人は外へ出て、周囲の探索を始める。
そのすぐ横の岩場には、波が削り出したチタン製の記録板が露出していた。
『西暦2084年 記録:気候変動に伴う50mの海面上昇に加え、千島・日本海溝のプレート連動による大地震が発生』
『西暦2193年 記録:大広域地盤沈下が加速。累積沈下量300mを突破。かつての陸地は深海へと没す』
「……やっぱりだ」
この時代まで誰かが歴史を記録し、板を残していた――それはつまり、崩壊していく世界の中でも人々が懸命に生き抜いていた証だった。
浩平が固く拳を握りしめる。
「氷が溶けただけじゃなかった。地盤沈下で、日本列島そのものが海へ沈んでいたんだ……! そして今、俺たちは時間を遡りながら過去へ戻されている!」
現実には存在しない足印台座が不気味に佇む、異世界から十和田湖。その干上がった湖底で、三人は地球崩壊の凄惨な理由を知ると同時に、自分たちが元いた時代へと還る「帰り道の旅」が始まったのだと確信した。
「ねえ……私たち、もし2084年まで生きてたら……80歳くらいになってるんじゃないの……?」
愛衣と歩美が顔を見合わせ、驚きを隠せない様子で声を震わせる。
自分たちが生きてきた時代の先にある、壊れてしまった未来。二人の瞳には恐怖だけでなく、「この恐ろしい事実を、元の時代の人々に知らせなければいけない」という強い使命感が宿っているのを浩平は感じ取っていた。
浩平は頭の中で素早く逆算を始めた。
「俺が33歳……つまり、元の2022年に繋がる場所は、あの山形の隧道の公衆電話ボックスよりも少し北だ。おそらく秋田と山形の県境、あの辺りなら2022年に通じるドアがいくつもあるはずだ。……あそこまで、南下して約三日半」
浩平は二人の顔をまっすぐに見つめた。
「愛衣、歩美。行ってみるか?」
「浩平さん、待ってください……! 私たちが後から入ったあの1年分、少しだけ時間がズレてませんか?」
愛衣の言葉に浩平がハッとする。
自分と二人が異世界に入ってきた時期には、現実世界で「1年」のタイムラグがあった。
確か異世界の時間軸ては11か月近く、現実に戻せば1年と少しか。
「そうか……! 1年分といえば、この異世界の時間軸ならほんの数分……距離にしてわずか数十メートルから数百メートルの北上(調整)で済む!」
浩平は時計の秒針と目盛りを慎重に目視し、7分前から数回ノブを回し出入りしてみた。
カチャリ、と開いた重いスチール扉の向こうから飛び込んできたのは、車の走行音と、夕暮れの街の賑わい、そしてどこか懐かしい排気ガスの匂いだった。
扉の先は、ロードサイドにある大型商業施設のバックヤード(搬入口)の脇だった。
その駐車場には、山形や庄内ナンバーの車が数多く停まっていた。
「街の中だ……! ホントに2023年(私たちのいた現代)だ……!」
愛衣と歩美が物陰から恐る恐る覗き込むと、すぐ先の駐車場では買い物客が車へ荷物を積み込み、目の前の国道には色とりどりの乗用車が行き交っている。
「見て、浩平さん! あそこ……!」
歩美が指さしたのは、店舗裏のエコステーションに置かれた緑色の大きな金属製ボックスだった。
そこには大きく文字が書かれている。
『無料回収ボックス:ご家庭で不要になった衣類・古着をお持ちください。海外支援やリサイクルに役立てられます』
「……これだ」
浩平の目が光る。
異世界でのキャンプ生活は過酷だ。塩分や泥、作業で服は擦り切れ、予備の着替えも限界を迎えていた。しかし、現代の店舗で買い物(会計)をすれば、防犯カメラや電子決済で足がつき、警察や大騒ぎに発展するリスクがある。
「誰も困らないし、誰の盗品にもならない……。ここから使えそうな服を少し分けてもらおう」
三人は物陰から原始人の様な毛皮をまとい、そっと回収ボックスへ近づいた。
ポストの引き出し部分をそっと覗き込むと、地域の人々が持ち寄った状態の良いジャケット、丈夫なデニムパンツ、厚手のパーカーや防寒着、さらには新品同様の靴下や作業用の長袖がどっさりと詰まっていた。
「わぁ……! このパーカー、すごく暖かいしサイズもぴったりです!」
「このデニムなら、異世界の岩場を歩いても破れなさそう……!」
愛衣と歩美は声をひそめながら、異世界キャンプの「過酷な環境」に耐えられる丈夫で清潔な服を何着かピックアップした。
「よし、長居は無用だ。戻るぞ」
2.現実と「手遅れ」の衝撃
誰もいない街の裏手から、新品同様の「戦利品(衣類と靴)」を抱えて異世界のドアへと滑り込む三人。
現代の街の灯りを背に扉を閉めた瞬間、静かな異世界の湖畔の空気が包み込む。
荷物をその場に無雑作に置いて台座に腰掛ける。
十和田湖の干上がった湖底で決意を固めてから、ちょうど三日半(84時間)。
三人は南下する「時間の波」に合わせて湖畔にあるドアノブの開閉を何度か繰り返しては向こう側をそっと覗き込み……ついに、目指す場所へと繋がるドアへと手を掛けた。
「距離にして、十和田湖から南へ約175キロ。時代は、俺がいた西暦2023年に繋がっているはずだ」
浩平が静かに告げると、愛衣と歩美がゴクリと唾を呑み込んだ。
愛衣が手に汗を握りながらドアノブを回す。カチャリ、と小気味よい金属音が響き、ゆっくりとドアが開かれた。
扉の向こうに広がっていた光景。
サァ……と頬を撫でたのは、塩の混じった不気味な風でも、高山の冷気でもなかった。
それは、夕暮れ時の懐かしい草木の香りと、温かい夏の空気だった。
扉の向こうに広がっていたのは、深い緑に包まれた山あいの峠道——山形と秋田の県境に位置する、国道13号線の旧雄勝トンネル付近だった。
アスファルトの道路には、ヒグラシの鳴き声が涼やかに響き渡っている。
ガードレールの向こうには、整然と並ぶ田んぼの青々とした稲穂が風に揺れ、遠くの集落からは夕飯の煙が細く立ち上っていた。
「街が……緑がある……! 広い畑にある資材小屋だった……!」
歩美が声を詰まらせ、思わず崩れ落ちるように地面へ膝をついた。
普通の風景を見る安心感と遠くから聞こえる車の音。
愛衣も周囲を見回し、ボロボロと涙をこぼす。
大型商業施設の緊張感とは誓う光景に安心したのだった。
「戻ってきた……! 私たちの知ってる、普通の日本だ……!」
浩平は胸の鼓動を抑えながらポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を開くと、圏外だったアンテナが一本、二本と立ち、ピコンと通知音が響いた。
画面に表示された日付は——『2022年 8月15日』。
「間違いない……。俺が33歳だった、あの夏の2022年だ」
浩平たちは急いで道路脇のガードレールへ駆け寄り、下を通る国道を見下ろした。
そこには普通にトラックや乗用車が行き交い、人々は何の疑いもなく平穏な日常を送っていた。
「浩平さん……! すぐに警察とか、国に知らせましょう! あと数百年のうちに地盤沈下が始まって、日本が海に沈んじゃうって……!」
愛衣が必死な顔で携帯を握りしめ、浩平の服の袖を引っ張った。
しかし、浩平は数回時間を合わせて未来での電柱に貼られた新聞の掲示板や、スマホで流れてくるニュースの画面を見つめたまま、呆然と立ち尽くしていた。
「……無理だ」
「え……? なんでですか浩平さん!?」
浩平はスマホのスクショ画面を二人に見せた。
そこには、『各地で史上最高の沸騰日を更新、熊谷で44.3℃』『極地の氷床融解スピードが予想の3倍に加速』『太平洋プレート境界での微小地震が増加傾向』という、現代では「よくあるニュース」として流し見されている記事が並んでいた。
さっき、数回覗き込んだ時のデータだよ。
「言ったところで、誰も信じない……。『300年後に日本が沈むから避難しろ』なんて言っても、オカルトや狂人扱いされて終わりだ。それに……もう地球のメカニズムは動き始めている。2024年の時点でもう、未来の崩壊を止める手立てなんて存在しないんだ……」
「そんな……じゃあ、私たちは何もできないんですか……!?」
愛衣の声が夕闇の峠道に虚しく響いた。
「現代の社会を救うことはできなくても……現代の恩恵をちょっとだけもらって、たくましく生き抜く」
着替えを手に入れた三人は、これからの「南下(過去への帰り道)」と「異世界での宝探し」に向けて、一層固い絆で結ばれるのだった。
「いや……まだだ。ここが2022年なら……さらに『半日(約25km南)』遡れば、俺が1歳だった1990年の山形へ着く。そしてさらに南下を続ければ、俺たちが最初に入ったあの西暦700年の『飛鳥』へ戻れるんだ」
三人は「未来を変えることはできない」という残酷な現実を突きつけられながらも、自分たちが生きるべき「過去の始まりの場所」へ還るため、再びドアノブへと手を伸ばした。
「今度はどこまで南下して、何が待っているか確かめよう。……おそらく、俺たちはこの世界にいる間は歳を取らない。ならば、いつだって異世界へ入った瞬間の『あの日の自分たち』のところへ戻れるはずなんだ」
浩平の言葉に、二人はハッと目を見張る。
「それに、安易に過去へ戻って未来を変えてしまえば、俺たちの家族や親戚にまでどんな変化が生じるか分からない。下手に手を出すと大変なことになるからな」
過去改変のリスクを冷静に指摘する浩平の言葉に、二人は深く深く頷いた。
後で迷わず戻って来られるよう、透明なドアノブと壁がある位置に目印となる大きな岩を置くと、三人は一旦、異世界のキャンプ地へと戻っていった。
焚き火の温もりが残るベースキャンプ。落ち着きを取り戻したところで、浩平が地図を広げて切り出した。
「南の終着点である飛鳥時代(奈良県周辺)まで、さらに南下を続けるとしたら……」
そこへ、歩美がピタリと口を挟んだ。
「西暦のカウントダウンみたいに、九州や沖縄の方まで一気に下っていく感じなんでしょ?」
愛衣もスマホの画面をスクロールさせながら深く頷いた。
「たぶんね。それに、ただ南下するだけじゃなくて……北緯と経度がきっちり一致する場所からじゃないと、北上しない!」
三人はそれぞれのスマホに保存したマップやGPSのスクショデータを突き合わせ、次の目的地に向けた座標の割り出しを始めたのだった。
3.あやかしの正体と南の果て
それは扉を出てから分かったことだったが、三人は屋敷の人間に見つかってしまった。
それまでは、長い回廊の角から美しい庭に咲き誇る桜に見とれていたのだ。床一面には苔か芝生か、鮮やかな薄緑色の絨毯が広がっていた。
しかし、急に老婆の悲鳴が響き渡った。
「出会え(デヤエ)、出会えーっ!」
見つかった!
三人は必死で今出てきたドアを目指して駆け出した。先頭を走る愛衣の手を歩美が強く握りしめる。
愛衣が焦って開けたのは、『厠』と墨で書かれた札が下がる扉だった。
最後尾の浩平が滑り込み、扉を締め切ろうとしたその瞬間——角を折れた廊下の陰から、幼い影が飛び出してきた。
「いかなるもののあやかしぞ……! 離れ給ふな……!」
パニックの中で扉になだれ込み、再び透明な壁を抜けて異世界へと飛び出したのは、三人ではなく四人だった。
浩平たちと一緒に湖畔の風にさらされていたのは、小柄で幼い顔立ちをした、雅な衣装に身を包んだ貴族の男の子だった。
目の前に突如広がった荒涼とした湖畔の風景と、見たこともない奇抜な服を着た浩平たち。あまりの衝撃に、少年はガタガタと震え、腰を抜かさんばかりに恐怖で顔を跳ね上げた。
「あな、あさまし……! これはいかなることぞ……っ!?」
恐怖と困惑で完全にパニックに陥った少年は、目の前に伸ばされた浩平の手首を、まるで唯一の命綱であるかのように両手でガシッと力任せに握りしめた。
「うわっ、ちょっと……!?」
浩平が体勢を崩した瞬間、貴族の男の子は浩平の手を強く握りしめたまま、引きずられるようにして一緒に異世界の扉の中へ飛び込んでしまった——。
「浩平さん、早く! 早くその子をドアの外へ出して!」
歩美の焦った叫び声と同時に浩平がドアを押し開けると、男の子は弾かれたようにドアの外へと転がり出た。
完全に腰が抜けて前傾姿勢のまま、パタパタと四つん這いで必死に這いながら逃げ帰っていく。
誰もいないと思って扉を繋げたはずだったが、そこは一体どこだったのだろうか。平安京のどこぞの御所か、はたまた貴族の寝殿造の片隅だったのかもしれない。
それからさらに二日ほど南下し、再び透明なドアノブに手を掛けてみた。
だが、足印台座から壁が離れて以降、扉が向こう側へと開くことは二度となかった。
計算してみると、透明な壁はおよそ十日間にわたって台座から離れて行ったことになる。
浩平は、壁が面している地面を細かく観察した。何となくではあるが、壁が折り返したと思われるポイントを見つけ出すと、そこへ目印の岩をひとつ置いた。
ここから先へ進むと、壁に貼り付けられたドアノブの蛍光テープが、今度はゆっくりと戻り始めた。
移動距離からの概算だが、浩平は現在地を北緯31度、鹿児島あたりだと踏んでいた。
西暦500年とも700年とも判然としないが、なぜかそれより古い時代にまで遡ってしまうと、ドアという仕組みそのものが機能しなくなるのだった。
——歴史上、飛鳥・奈良から平安へと至るこの時代から、「あやかし」や「陰陽道」が市井にはびこり、勢力を増したとされている。
浩平の脳裏にふと、ある疑問が浮かんだ。
伝説として語り継がれる「あやかし」の正体とは、ひょっとすると自分たち三人なのではないか。時空の壁を揺らしてこの時代に姿を現したあの行動こそが、怪異の引き金だったのではないだろうか。
浩平は思考を切り替え、湖畔の足印台座からまた別の方向にある足跡を目指そうと考えた。
しかし、愛衣と歩美にそれを持ちかけても、反応は芳しくない。
「じゃあ、俺が一人で行ってみるよ。何があるか確認してすぐに戻るから、ここで待っててくれ」
そう言って、浩平は台座へ鍵を差し込んだ。
「ルーレット」とは名ばかりで、なぜか自分が向かいたいと願う方角で光が止まる確率は妙に高かった。
まるで、この台座自身に心の内を見透かされているかのような薄気味悪さを感じながら。
正直、今回向かう方角はどこでもよかった。実際、光は鍵穴を向けた方向でピタリと止まる。
「戻らない」とは口にしたものの、愛衣と歩美の本心は「早くベースキャンプへ帰りたい」のではないか。二人の秘めた焦りを敏感に感じ取った浩平は、一度鍵を抜き、もう一度差し込んだ。
「頼むから、今度は違う方向へいってくれ」
心の中で願いながら鍵を抜く。
光が指し示したのは、湖畔の水辺――おそらく南の方角だ。浩平はそこに刻まれた足印へ足を乗せた。
世界がぐにゃりと歪み、一瞬ののち、すぐに引き戻される。
台座は小さく、足を乗せる印も二つだけだった。しかし、周囲に広がる景色は先ほどまでいた場所と何から何まで瓜二つだった。
台座の大きさを除けば、ヤシの木の位置も、足元の草の生え方すらも完全にコピーされた異空間。
すぐ戻ると言い残してはきたが、どうしても「見えない壁」の存在が気になった浩平は、陸地の方へ手を伸ばしながら歩き出した。
――そして、先ほど北緯31度付近だと予測したまさにその場所で、浩平の手は硬い手応えにぶつかった。
あのドアノブも、これと同じ位置に存在するのだろうか。浩平は確認するように、透明な壁の表面を撫でながら静かに歩みを進めた。
つづく




