◎第38話 神を縛る檻
カーライル侯爵私邸の寝室で、侯爵が晴れ晴れとした笑顔で3人を迎え入れた。
「今回のオークションの件、感謝しとるよ。
わしは参加出来なんだが、君たちが見事あの素描画を落札してくれた。ありがとう」
目を細める侯爵に、アルベルトがオークションの成果物を差し出す。
「閣下、こちらです。どうぞお手に取ってご覧になって下さい」
震える手が素描画を受け取った。
「……おお……、……おお……」
自身の生涯を注ぎ込んだ歴史研究。その稀有な現存物が、当時の日々に恋焦がれた老人の手の中に収まる。
慈しむように素描画を撫で上げ、そのたびに感極まったように声が漏れた。
その声と表情は、まさに老人の満足と幸福を余すことなく示していた。
それからしばらくの間、老人は素描画を見つめ続け、素描画から溢れる当時の安寧の日々との声なき会話に没入していた
❖ ❖
「……君たち、すまなかったなぁ、長い時間ほおっておいてしまって」
素描画をアルベルトに返す侯爵はいたく満足気だった。
「よくぞ……よくぞ……落札してくれた……。
君たちこそが、その素描画を持つに相応しい。
よくやってくれた」
「いえ、この絵に巡り合う機会を与えてくれたのは他ならぬ侯爵閣下です。
こちらこそ、感謝申し上げます」
ウンウンと頷き、侯爵の視線が虚空に向く。
「余命幾ばくもないこの時になって、やっと自分の想いの丈が届いた気がするよ……。
……もう……思い残す事はない……と、さっきまで思っておった……。
……じゃがな、人間とは欲深いものじゃ……」
「……閣下?」
「……ひとつだけ……最期にひとつだけ……教えて欲しい事がある……。
……どうかな、教えてくれるかな……」
いったいなんだろう。
3人には全く見当がつかない。
だが断る理由もまたない。
「……はい、なんでしょうか」
「……うん……」
侯爵の視線が虚空からリンに向けられた。
「……リン嬢、君は……、いや、あなたは……」
その老人の口から発せられた優しい問い掛けは、その口調に反してあまりに衝撃的だった。
「あなたは、ウォーケン卿のご息女……ではないのかな……?」
❖ ❖
エリシアは全く動けなくなった。
あのアルベルトでさえ、どう反応すればいいかわからなかった。
「……閣下、仰っている意味がよく……」
なるべく動揺を気取られぬよう、さり気なく返答しようと口を開いたアルベルトを、侯爵がスッと右手で制した。
「ああ……、わかっておる。普通に考えれば、老い先短い年寄りの戯言、妄想じゃ。
じゃがな、特別公開の日、あの素描画が飾ってあった。
その傍らにあなたが立っていた。
髪型を変えておられたが、見比べてすぐにわかったよ。
この方はウォーケン卿のご息女じゃと」
「……閣下……しかしそれは……」
エリシアが反論しようとするが、言葉が続かない。
アルベルトもどう答えればいいか戸惑う。
リンは侯爵を真っすぐ見つめる。
3人を静かな笑みで受け止める侯爵。
「君たちが否定するのであればそれでもいい。
じゃがな…、この老いぼれは確信しておる。
間違いなく同じ御仁じゃ。
己が生涯を賭して調べ上げてきた史実が目の前に居られたんじゃ。間違いようがなかろう」
侯爵の慈愛に満ちた眼差しがリンに注がれている。
アルベルトもエリシアも、これ以上侯爵に虚言を吐く事に、どうしても抵抗感があった。
彼が費やしてきた史実研究の日々、それに培われた識見を、取るに足らぬ道楽の結果と切り捨てる。そんな感覚に苛まされた。
そして……ふたりとも……
侯爵の情熱に、それを導き出した眼力に、
導き出した結論に惑わぬ自負に、
改めて敬意を払った。
(……リン、お前は……どう思っている……?)
ふたりの注目に呼応するように、リンが動いた。
儚げに微笑み、付けていたウィッグを外す。
サラッと溢れるように現れた銀糸の髪。
そして……
リンが瞳を閉じると同時に、また……あの淡い光が身体から溢れ出してきた。
「……リン……」
「……お……おお……」
リンが静かに瞼を開く。
いつものリンではない。
幼いリンとは異なる、古い記憶を乗せた声色が、いつもと違う口調で語り始めた。
「老いてなお純粋な魂の希求、確かに聞きました。
僅かな時ですが、私がかつて過ごした、あの平穏で豊かな日々の想い出を、あなたの心に届けましょう。しかと感じて想いを馳せて下さい」
淡い光が侯爵を包み込んだ。
「……お……おお……おお……
……こ、これは……あの祭りの……」
侯爵の目は、もうこの部屋のどこも見ていなかった。
ただ虚空を凝視し、ただ涙だけを溢し続けていた。
エリシアにもアルベルトにも、侯爵に何が見えているのか全くわからない。
だが、光の中の侯爵の眼前に、侯爵にしか見えぬ光景が広がっているのであろう事は十分に理解できた。
侯爵は、幸せの絶頂だった。
目の前に浮かぶ、ウォーケン領平穏の日々。
人生を賭して研究し続けた史実が今、彼の眼前に浮かび、長い年月を掛けて頭の中で構築されてきた彼の考察を、事実として目撃している。
(もう思い残す事はない……。
一旦はそう思いながらも前言を翻し、最期に願ってしまった。人間とはなんと欲深い事か……。
だが……もういい……。本望だ……。
本当に……もう思い残す事はない……)
侯爵は、心の底からそう感じ、目の前に浮かぶあの頃の情景を心に刻み込んでいた。
❖ ❖
しばらくして、あの淡い光が霧散し、同時にリンがアルベルトの腕の中に落ちてきた。
「ア……アルベルト殿。彼女は……リン嬢は……ご無事なのか……?」
侯爵が、アルベルトの腕の中で眠るリンに気遣いを見せる。
「……はい、リンは……”神気”を発露させた後…必ずこのように眠りにつくのです。
おそらくは一晩寝ていれば回復するかと」
「……そ、そうか……、それはよかった……」
そう言うと、侯爵がベッドから起き上がった。
そこには老人特有の緩慢な動作など微塵もなかった。
上級貴族らしい精練された姿勢を保ったまま、エリシアたちの前に立った。
「か、閣下……、お身体に障りま――」
エリシアの言葉を制すように、右手を胸に当て、頭を下げた。
「このたびの君たちの温情に深く感謝する。
オークションでの落札ですら大変ありがたい事なのに……、このような望外な奇跡まで……」
「……閣下……」
侯爵の目からまた涙が溢れてきた。
「……あの頃の情景……。幸せだった日々……。
わしは確かに……この目で見せていただいた。
……もう十分じゃ……。
本当に……なにも思い残す事はないよ……」
アルベルトもエリシアも、侯爵が本懐を遂げた事には素直にうれしさを感じていた。
彼には恩義があった。
その彼の生涯賭けた研究の集大成。
それが結実したのだ。
……ただ……
ただその結実の仕方は―――
「侯爵閣下……、リンの事ですが……」
エリシアが意を決して侯爵に向き合った。
恩人とはいえ他国の重鎮。
リンの秘密が他国上層部に露呈したら、これまで通りの生活など、望めるはずがない。
なんとしてでも、リンの事は守秘してもらわねばならない。
「……ああ、リン嬢の事かね……。
わかっておる……わかっておるよ……」
エリシアに静かな答えが返ってきた。
そこには、精錬され毅然とした上級貴族ではなく、温厚で思慮深げな老人の姿があった。
「わしはウォーケン領の史実を研究してきた身だ。自分なりにできる限りの事柄を調べ尽くしたと自負しておるよ。
当然……『秘匿口伝』についても……な……」
「……閣下……」
「君たちの祖先が語り継いできた伝承…。
わしはそれを思い起こすたびに、いつも感銘を受けておったよ。なんと美しい言葉なのかと」
顔を上げる。眼差しにまたあの、ウォーケン領史実に対する憧憬があった。
「祈らない……、崇めない……、跪かない……
しっかり手を握り、傍らにいてやる…
君たちの祖先は、あの子に祈り、祀り上げる事を選ばず、傍にいてやる事を選んだ。
誰かが言った高尚な教えとやらではなく、自分たちの素直な気持ちを拠りどころとしてな」
先ほど眼前に浮かんだ、あの安寧の日々を思い出すかのように、老人は瞼を閉じる。
「祈りはあの子を“神”にする。
そして“神”になった瞬間、人は自分の願いを背負わせる。
祈りも崇拝も、あの子を縛る『檻』になる。
だから彼らは祈らなかった。ただ手を握り、傍らにいることを選んだ。
"神"は祈られぬ事で、領民たちとこの上なく幸せな日々をお過ごしになられた。
あの素描画がそれを証明しておったよ」
アルベルトの腕の中で眠るリンに、侯爵の眼差しが暖かく注がれた。
「わしはリン嬢に初めてお会いした時に、わざとお聞きしてみた。
素描画のなかのご息女と貴方は良く似ていらっしゃると。
するとリン嬢は、こう答えて下さった」
”よく似ていらっしゃいます。
はい……、とてもよく……。
あの笑顔……、
あの子は幸せだったのでしょう……。
まるで……
まるで今の自分みたいです”
「『祈られなかった神』は、今また君たちとともに在り、あの頃のように幸せな日々を送っている。それをひしひしと感じたよ。
ウォーケン領時代の安寧な日常を愛し、追い続けたわしじゃ。彼女が再び得た安寧を奪うことなど、どうしてできようか」
侯爵が歩み出て、エリシアの手を握った。
「……閣下……」
「……守ってあげなさい、彼女を”家族”としてな……。
国家や宗教というのは貪欲で独善的じゃ。
彼らは自らの利や教義のために行う行為は、全て善であると考える。どのような所業でもな。
君たちはこれから、想像も出来ぬような苦難に見舞われるかもしれん。
じゃがな……どうか負けんでくれ……。
彼女を檻に閉じ込めさせてはならん。
彼女にまたあの悲劇を味わわせてはならん。
……守ってあげなさい、”家族”として……」
侯爵の瞳にまた涙が宿った。
エリシアの瞳にも涙が浮かぶ。
「……はい、必ずや……必ずや守り抜きます」
「……そうか……そうか……、ありがとう……
頼んだよ……」
これが侯爵との最期の邂逅となった。
それから1ヶ月ほど経ち、侯爵の訃報が届いた。
執事が書いた私的な手紙には、侯爵が眠るように静かに逝った事と、枕元にはウォーケン領に関する資料が置かれ、最期の日まで穏やかだった事が丁寧に綴られていた。




