第32話 適正な価格
「だが……、結局我々は素描画を手に入れられなかったじゃないか……。
それでは……やはり負けたと同じだ……」
落胆し俯くエリシア。
リンが切望する素描画。
あれをどうしても持って帰ってやりたかった。
それはアルベルトも同じだった。
「……そうです、私たちはリンに持ち帰ると約束しました。
ですから――」
肩に手を置かれ、エリシアが顔を上げた。
眼前には、カインに付き添われるように立つ学者殿がいた。
「この方に譲っていただきましょう」
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「……あの……、あの素描画を買っていただけるというのは本当なのでしょうか……?」
ファーシィが恐る恐る尋ねてきた。
それも当然の反応だった。
転売目的で買っても、肝心の転売先がいなくなった。
だからこそ、ファーシィも絶望したのだ。
1290枚の金貨を注ぎ込んで、何の学術的価値のない絵を買うハメになった。
1290枚の金貨を飲み込んだ完全な死蔵品。
それを買い取ってくれると言う。
さっきまで競り合ってきた相手がだ。
それほど欲しい品なのか。
「はい、その通りです。
ああ、誤解のないようにお話しておきますが、我々の目的は転売ではありません。
だから侯爵閣下が取得を断念しても、全く関係ありませんので。
ただ……、あなたが落札した価格で、というわけにはいきませんので、その点はご了承下さい」
ファーシィがゴクリと喉を鳴らした。
いったいどんな条件をふっかけてくる気だ。
もちろん弱みはこちらにある。
相当叩かれるのは間違いない。
「で、エリシア様、如何ほどでお譲りいただきましょうか?」
「へ?……わ、私?」
「はい、エリシア様にお決めいただくのがもっとも適切かと。
この値段で、と思われる額を仰って下さい。
その値を売り手が承諾すれば、それが適正価格になります」
アルベルトの言葉に、エリシアは自分の内面を見つめ直す。
……私が、この値で買いたいと思った額…
……難しい……
……思った以上に難題だ……
私たちにとって適正な価格……
私たちは、あの素描画を
なぜ手に入れようとした?
リンのためだ
リンの顔が浮かんだ
初めて素描画の存在を知った夜
あの子は、身じろぎもせず、ただ涙だけを流した
始めた素描画を見た公開日
あの子は、父に笑顔で答えようとして、やはりできず、泣いていた
リンにとってかけがえのない大切な品……
だから私たちは、絶対に手に入れてやろうと
心に決めた
資金作りに奔走して、やっと作れたんだ
やっと作ったその金額は……
「……金貨……1000枚……」
エリシアが口にした価格。
ファーシィは目を見張る。
カインは驚き、ルイには呆れも加わった。
そして彼女の補佐役は
満足気に優しい微笑みを浮かべていた。
❖ ❖
「……本当に……よろしいのですか……?」
金貨を確認しながらも、ファーシィはまだ半信半疑の様子だった。
1290枚という値が付いたとしても、所詮は最低入札価格100の品。
足下を見られて300、400あたりを提示されても、ファーシィは頷かざるを得なかったろう。
それが望外の1000枚。破格の値付けだ。
損失は出るが、換価できない1290枚の絵を抱え込む事に比べれば、この上ない救済措置といえた。
「いいんですよ。私たちはあの素描画を切望していた。あの品を手に入れるために準備しようとしていた金額が金貨1000枚。
それが私たちの適正価格です」
エリシアが素描画を抱え、満面の笑顔で答える。
リン……、手に入れたぞ!
素描画、持って帰るよ!
今にも踊り出しそうに喜ぶエリシア。
その彼女に声を掛けた人物がいた。
「エリシア様、お見事でした」
「ア、アルテミア伯爵様?」
そこには悠然と笑みを浮かべる気高い貴婦人が立っていた。
上級貴族、しかもこの国でかなりの権勢を持つ人物の出現に、カインとルイが焦りながら片膝をつき、ファーシィは棒立ちになった。
「この素描画を落札するために己が準備した金額が適正価格。素晴らしい采配です。自らに偽らず、真っすぐに向き合い、答えを出す。これからもその心根を大切にして下さいね」
「はい!伯爵様、ありがとうございます!」
続けてローズがファーシィに目をやる。
「ファーシィ騎士爵……」
「は、はいぃ……!」
まるでヘビに睨まれたカエル。
その表現を具現化したようなファーシィの硬直振りだ。
「私がこのチャリティーオークションに協力させていただいているのは、ご存知かしら?」
「……は、はい……」
カタカタ……と震えるファーシィ。
彼を見つめるローズの瞳は、優しげな分だけ、余計にファーシィに重くのしかかった。
「で、あなたはこのチャリティーオークションの趣旨を十分に理解なさっているのですか?」
「……はい、それはもちろん―――」
「であれば―――」
ファーシィの言葉を遮り、女傑の鋭い視線が彼に突き刺さった。
「このチャリティーオークションを、私怨の意趣返しのために利用しようとしたわけではない、と仰るのですね」
ファーシィの顔が固まり、金縛りにあったように身動きひとつできなくなった。
凝視するローズの視線に耐えきれず、かといって身体は動かせず、眼球だけ視線を避けながら、なんとか口を開いた。
「……は、はい……」
かろうじて漏れる、かすれた声。
暫しの沈黙。
やがて、ローズが視線の温度を引き上げ、微笑みを湛えた。
「まあ、やはりそうでしたか。よかったわ。
イヤだわ、私ったら。そのような愚行を、高名な研究者でいらっしゃるあなた様がなさるわけありませんわよねぇ」
「……も、もちろん……です……」
見てわかるほど冷や汗をかいているファーシィに、柔らかな"圧"が押し寄せる。
「今日のチャリティーオークションには、転売目的の商人が多数参加すると言われてましてねぇ。
更にあなた様が私怨で…とウワサが聞こえてきまして。
なんと不届きな、と思い込んでしまいましたのよ。
全く自分の不明を恥じ入るばかりですわ」
バッと扇を広げ、ファーシィに顔を近づける。
さながら、捕食者が獲物を取り込む瞬間を擬人化したかのよう。
「あなた様は自ら落札した価格に拘らず、本当に取得を望んでいた方に、言い値で品物をお譲りになられた。なかなかできる事ではありません。
己が利に囚われぬその姿勢、感銘を受けました。
今後はファーシィ騎士爵の高潔なお姿に、より注目させていただきますわ」
今後はより注目する、言い換えればこれからもずっと監視を続ける、という事だった。
しかし、ファーシィはもうすっかり毒気を抜かれ、1290枚の死蔵品が1000枚の金貨に変わった事に素直に喜びを感じ、エリシアに感謝すらしながら会場をあとにした。
❖ ❖
「あの男のキバはきれいに抜いてやったわ。
もう侯爵閣下への意趣返しなんて考える事はないでしょう」
コロコロと笑うローズにエリシアが尋ねた。
「それで伯爵様、どうしてここに?
まだオークションは行われていますが」
「え〜、だってオークションの今日一番の見せ場はあそこで終わったでしょ。でもあの終わり方なら場外戦は必ずあると踏んだのよ。
まさにその通りだった。結末まで拝見できてうれしかったわよ。それに――」
ローズの流し目がアルベルトに纏わりついた。
「明日は開国祭最終日よ。閉会式の後の舞踏会のお誘いを"受け"に来たに決まってるじゃない」
むぅ……
少しだけエリシアの眉が動く。
「フフ……、”受け”に……ですか……」
「今日のこれは貸しよ。もうあなたたちはお帰りになるんでしょう。明日キッチリ払っていただくから、必ずいらしてね」
ローズはそう言ってエリシアとアルベルトに手を振りながら、颯爽と馬車に乗り込んでいった。
ローズの馬車を見送り、自分たちの馬車が来る。
「行きましょうか」
「……うん……」
2枚の素描画を愛おしそうに胸に抱き、エリシアが馬車に乗り込む。
「今日はありがとうございました。それでは」
アルベルトがカインたちに礼を述べ、馬車は走り出した。
エリシアとアルベルトを、片膝つきながら見送ったカインとルイ。
馬車が見えなくなって、ようやく立ち上がった。
身体に溜まった緊張をため息とともに吐き出す。
ふたりにもようやくわかった。
アルベルトたちが、なぜこの街でギャンブルをしていたか。
なぜ自分たちのゲームに参加したか。
全てはオークションで、あの絵を手に入れるためだった。
金に執着していない事もわかった。
いくらでも買い叩く事ができたはずなのに、破格の値で譲り受けた。
奇妙な人脈を持つ何処かの相当な有力者という事も知った。
女王、アルテミア伯爵……。
自分たちはひれ伏すしかないあの女傑たちと
あれほど親しげに接していた。
どれだけ先を読む事ができ、瞬時にその対処策を考え、実践できるかも知った。
ルイのイカサマ……、特別ゲーム……
このオークション……
だが、やはりわからない事も残った。
「……顔役……」
「……何かね…」
「……ナニモンなんすか、あのダンナは……?」
「……人外……魔王……だろ……」




